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蒼白い月光が、野生のナス科の花畑を静かに照らしていた。
夜風に揺れる小さな花々は、まるで星の欠片が地上に落ちてきたかのように、淡い白や紫の色を浮かべている。
カルトの拠点からは、ずいぶん遠い。
ここまで来れば、あの場所の気配はほとんど届かない。
過酷な戒律も。
不条理な肉体労働も。
血塗られた儀式も。
アマラの無言の視線も。
今だけは、すべてが遠い世界の出来事のようだった。
聞こえるのは、草を撫でる風の音。
遠くの森から響く、獣の遠吠え。
そして、ときおり隣から聞こえる小さな吐息。
傾いた古い倒木の上に、二つの影が並んで座っていた。
「…………」
ツータイムは灰色のローブの裾を無造作に引きずりながら、膝を抱えている。
黒い指なし手袋をはめた右手は、自分のボサボサに伸びた黒髪の先を、意味もなくぽりぽりと掻いていた。
いつもの彼なら、こんな場所でも何かしらの大仰な台詞を吐いているところだ。
「この地は我が暗黒の領域……」
だとか。
「月光に潜む亡霊よ、我が前に姿を現すがいい……」
だとか。
「この花々はすべて、深淵より咲き誇る禁断の――」
だとか。
しかし。
今夜のツータイムは、妙に静かだった。
隣にはアズールがいる。
それだけで、なんとなく言葉がいらなかった。
アズールはいつもの灰色の古いウィザードハットを脱ぎ、膝の上に置いていた。
黒い髪が夜風に揺れている。
彼はぼんやりと空を見上げていた。
「…………綺麗だね」
ぽつり。
「……ああ」
ツータイムも空を見る。
そこには、無数の星が広がっていた。
漆黒の夜空に散りばめられた無数の光。
カルトの拠点で過ごしていると、空を見上げることすら忘れてしまう。
朝から労働。
昼も労働。
夜は儀式。
そして、疲れ果てて眠る。
そんな日々の中で、星を見る余裕などほとんどなかった。
けれど今は違う。
誰にも急かされない。
誰にも命令されない。
誰かを傷つける必要もない。
ただ、隣に好きな人がいる。
それだけだった。
「ねえ、ツータイム」
「なんだ、アズール」
ツータイムは少しだけ顔をそらす。
「我が闇の思考を邪魔するな……と言いたいところだが」
一拍。
「今は特別に、聞くだけ聞いてやろう」
「ふふっ」
アズールが笑う。
「相変わらず素直じゃないね」
「……うるさい」
「ほら、見てごらんよ」
アズールが夜空を指差す。
「あの星」
ツータイムも、その指先を追う。
「…………」
しばらく二人で黙って眺める。
「……あれ」
アズールが小さく言った。
「なんていう星なんだろうね」
「…………」
ツータイムは真剣な顔で見つめた。
そして。
「知らん」
「知らないんだ」
「暗黒の星図には載っていない」
「暗黒の星図なんて持ってるの?」
「…………」
「持ってないんだね」
「…………」
「ふふっ」
「笑うな」
アズールは肩を揺らした。
「ごめんごめん」
再び静寂が戻る。
今度は、ツータイムも少しだけ笑っていた。
「…………」
夜風が二人の間を通り抜ける。
冷たい。
けれど、不思議と嫌ではない。
ツータイムはふと隣を見る。
月明かりに照らされたアズールの横顔。
いつもより穏やかな表情。
その髪が風に揺れている。
そして。
すぐ隣にある体温。
ツータイムは小さく息を吐いた。
冷たい夜気が胸の奥へ入り込む。
けれど、そのすぐ隣には温もりがある。
それだけで、不思議なくらい安心した。
頭の中に、これまでの日々が浮かんでくる。
初めて出会った日のこと。
互いに相手を勘違いしていたこと。
隠れるようにして育てた、小さな恋心。
アマラから吹き込まれた歪んだ教義。
これから待っているかもしれない、取り返しのつかない運命。
全部。
全部が、今だけは遠かった。
まるで月明かりの向こう側に置き去りにされた幻のようだった。
ツータイムは、そっと拳を握った。
そして。
「…………まあ」
ぽつり。
「こういう日常も」
少しだけ間を置く。
「……悪くないな」
言った瞬間。
ツータイムの耳が真っ赤になった。
「…………」
しまった。
言ってしまった。
あまりにも素直なことを。
彼は慌てて顔をそむける。
「…………」
夜空を見るふり。
星を見るふり。
ものすごく重要な暗黒の観測をしているふり。
しかし。
隣から。
「…………」
視線を感じる。
「…………」
アズールがこちらを見ている。
「…………」
ツータイムは絶対に振り返らない。
すると。
「ふふっ……」
「…………」
「なんだい、それ」
「…………」
「今のセリフ」
「…………」
「めちゃくちゃ恥ずかしかったでしょ、魔王様?」
「なっ……!」
ツータイムが勢いよく振り返る。
「ち、違う!!」
「耳、真っ赤だよ」
「これは違う!」
「じゃあ何?」
「月光の影響だ!!」
「耳だけ?」
「…………」
「両耳とも?」
「…………」
「ふふっ」
「笑うな!!」
アズールは楽しそうに笑う。
「だってさ」
「…………」
「素直に言えばいいのに」
「何をだ!」
「僕とこうして過ごすのが好きって」
「…………」
ツータイムの顔がさらに赤くなる。
「…………」
「ほら」
「…………」
「図星」
「うるさい!!」
声が裏返った。
「黙れ!!」
しかし。
怒っているわけではない。
むしろ、その表情にはどうしようもないほどの幸福が滲んでいた。
ツータイムは再び前を向く。
「…………もう」
小さく呟く。
「からかうな、アズール」
「うん」
アズールの声が、今度は優しかった。
「分かってるよ」
そして。
アズールは少しだけ身体を寄せる。
肩と肩が触れた。
「…………」
ツータイムは何も言わない。
避けもしない。
むしろ、ほんの少しだけ身体を預ける。
二人の肩がぴたりと重なる。
「ねえ」
アズールが言う。
「このままずっと、夜が明けなければいいのにね」
ツータイムはしばらく黙っていた。
やがて。
「……ああ」
小さく頷く。
「俺もそう思う」
そして、星空を見上げる。
「例え世界がどうなろうと」
少しだけ笑う。
「今夜、ここだけは……」
アズールを見る。
「僕たちの王国だ」
「……ふふ」
アズールが笑う。
「また魔王様が始まった」
「違う」
「違うの?」
「これは……」
ツータイムは真剣な顔を作る。
「正式な領土宣言だ」
「はいはい」
「我ら二人の共同統治領だ」
「僕、王妃?」
「…………」
ツータイムが固まる。
「……ツータイム?」
「…………」
「魔王様?」
「…………」
「また赤くなってるよ」
「うるさい!!」
アズールが声を上げて笑った。
ツータイムも、今度は逃げなかった。
ただ、照れくさそうに顔をそむけながら。
ほんの少しだけ笑っていた。
夜は静かに深まっていく。
ナス科の花々が風に揺れる。
遠くで獣が鳴く。
星は変わらず、二人を見下ろしている。
この先、何が待っているのか。
誰にも分からない。
いつかこの穏やかな時間が終わるのかもしれない。
二人を引き裂く何かが訪れるのかもしれない。
それでも。
今だけは。
その未来を考えなくていい。
ツータイムはそっと隣の肩へ寄りかかった。
アズールも、それを受け止めるように肩を寄せる。
言葉はもう必要なかった。
ただ、二人の体温だけが静かに重なっていた。
「…………」
「…………」
やがてアズールが、小さく呟く。
「ツータイム」
「ん?」
「明日も、ここに来ようか」
「…………ああ」
少しだけ間を置いて。
「明日も」
ツータイムは星空を見上げる。
「明後日も」
そして。
「その次の日も」
アズールが微笑む。
「うん」
二人はまた夜空を見る。
冷たい月光の下。
過酷な世界の片隅で。
誰にも知られない、小さな王国。
それは大層な城でもなければ、強大な魔法で守られた帝国でもない。
ただ、倒木が一本。
野生の花が咲く野原があり。
隣には、好きな人がいる。
それだけだった。
けれど。
二人にとっては、それで十分だった。
ツータイムは静かに目を閉じる。
「……こういう日常も」
今度は、もう顔を赤くしなかった。
「悪くないな」
アズールは何も言わなかった。
ただ、隣で小さく笑って。
その肩を、もう一度だけ優しく寄せた。
月は静かに夜を照らしていた。
二人だけの王国を。
誰にも知られない、小さな幸せを。
そして二人は、迫り来る運命の足音を忘れるように。
その夜が終わるまで。
ただ静かに、互いの温もりを分け合っていた。
おわり
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