「ピッピ! どこに行ったの?」
気持ちよく晴れた春の日。
大陸一の覇国、レガリア皇国の城の中にも、春うららとのんびりとした暖かい空気が漂っていた。
レガリア皇国の一番末の皇女 アンジェリカ・レガリアを除いて。
「どこに行ったのかしら……」
先日迎えた二十一歳の誕生日に皇帝である父にもらった小鳥が、今朝から見当たらない。
アンジェリカは王城の廊下を、フリルがたっぷりついたドレスの裾を翻して走り回っていた。
「アンジェリカ皇女殿下だ。相変わらずお美しいな」
王城の警備兵がパタパタと走るアンジェリカを見つめながらつぶやくと、もう一人の警備兵も大きくうなずいて同意する。
「帝国の最も美しい花と謳われているだけのことはある」
アンジェリカの美しさを讃えてつけられた愛称が『帝国の最も美しい花』。
金色の髪は絹糸のように美しく、ドレスから覗く肌は抜けるように白い。華奢で可憐な彼女をひと目みたら、みな心が奪われるとまで言われていた。
その噂のとおりアンジェリカの姿に心を奪われた警備兵を見て、メイドたちは眉間に皺を寄せる。
「男たちは気楽よね。アンジェリカ皇女殿下のせいで、私たちが朝からどれだけ大変か……」
「ちょっと……聞こえるわよ」
メイドが口元を隠しながらそんな不満を口にしていることには気が付かず、小鳥を見つけられなかったアンジェリカはトボトボと自分の部屋に戻っていった。
「ハァ……。お父さまから頂いた大切な小鳥なのに……」
形の良い眉をハの字にゆがめ、大きなため息をついた。
大好きな父にもらったプレゼントということもあったが、高くさえずる美しい声も、手に乗せると擦り寄せてきた温もりも、愛おしくてたまらなかった。
部屋にコンコンとノック音が響く。
「……どうぞ」
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのはアンジェリカ専属の侍女として働いているゴート男爵家の令嬢マディだった。
ずいぶん疲れた顔をしている。
「アンジェリカ皇女殿下。小鳥はどこにも見つかりませんでした」
残念な報告にアンジェリカは跡が付くのも気にせず下唇を噛んだ。
「もっと広い範囲を探してくれる? 人手も増やしてほしいの」
「すでに王城に仕える半数以上のメイドが小鳥の捜索にあたっておりますが」
「ピッピは小さいもの。急がないと大きな鳥に殺されてしまうわ」
アンジェリカはいてもたってもいられない様子でドレスのスカートをぎゅっと握ってうつむいた。
「……ほかにも仕事があるのに。ほんと、ワガママでどうしようもないわね」
マディはアンジェリカには聞こえないように口の中でそうつぶやいてから、すぐに顔に笑みを張り付けると、『理想的な侍女』を演じる。
「承知しました。メイド全員に申しつけます」
「ずっと籠の中だったもの。外に出てしまっては生きていけないかもしれないわ」
アンジェリカは全く気が付いていなかった。
「どうしたのだ、アンジェよ」
威厳のある男の声がアンジェリカの部屋に響いた。
慌てて恭しく頭を下げるマディ。
アンジェリカの父親であり、この国で最も高い地位にいる男、レガリア皇帝だ。
父皇の後ろにはアンジェリカの異母兄にあたるフレデリクの姿も見える。
「食事の席にこなかったではないか。心配で様子を見にきたぞ」
「お父さま……」
アンジェリカが父皇のもとへ駆け寄ってすがると、父皇はなだめるようにそっとアンジェリカの腕を手のひらでさすった。
「お父さまがプレゼントしてくださった小鳥が逃げてしまったのです。朝からずっと探しているけど見つからなくて……」
大きなエメラルド色の目には水の膜が張り、今にも涙をこぼしてしまいそうだった。
皇帝はアンジェリカに優しく微笑み、温かな声で問いかけた。
「どこを探したのだね? 詳しく教えてみなさい」
「ええと……」
「城内をくまなく探しておりますが、見つかりませんでした」
アンジェリカが言いよどむと、マディが横から問いに答えた。 表情は表面的には平静を装ってはいるものの、声は冷ややかだ。
(アンジェリカ皇女殿下は廊下を右往左往していただけじゃないの。どこを探したかなんて詳細に言えるわけがないわ)
マディがそんなことを考えていることなど知らず、アンジェリカは悲しそうにうつむいた。
「ずっと籠の中で暮らしていたか弱い小鳥だ。もう死んでいるかもしれないね」
黙って話を聞いていたフレデリクが少し考え込むようなしぐさをしてから口を開いた。
「フレデリクお兄さま! ひどい!」
考えなかったわけではない。しかし、ずっと考えないようにしてきた。
もし考えてしまったら、口に出してしまったら、本当のことになってしまうかもしれないと思ったからだ。
最悪の事態を想像させられ、アンジェリカはわっと泣き出して皇帝に抱きついた。
「ああ、ごめんよ。アンジェリカ。泣かせるつもりはなかったんだ」
フレデリクは慌ててアンジェリカに謝ったが、アンジェリカは皇帝の肩に顔をうずめたままグスグスと鼻をすすり、顔を上げられない。
その様子を見たフレデリクは、マディに向き直ると命令する。
「もっと捜索の人数を増やせ」
「かしこまりました」
マディは感情のない表情で一礼すると、部屋から出ていった。
「わたくしも庭園を探してきます」
しばらくして、少し落ち着いたアンジェリカは鼻を赤くしながら言う。
「任せておけばよい。アンジェがわざわざ探し回る必要もなかろう」
「早くピッピを見つけたいの。いいでしょう? お父さま」
皇帝がなだめたが、アンジェリカは止まらない。
目の中に入れても痛くないほど父皇に可愛がられているアンジェリカは、許可を得てからでないと外出できない。
父皇の目の届く範囲にいるよう言いつけられていた。
だから好きに動きたいときは、こうやっておねだりするしかなかった。
「仕方がないな。城門の外にはけして出てはならんぞ」
「ありがとうございます。お父さま」
パタパタパタと軽やかな足音を立てて部屋から出て行くアンジェリカを、皇帝は心配そうな表情で見送った。
皇帝がアンジェリカに甘いのは今に始まってのことではないが、アンジェリカとて、もう二十一歳だ。
フレデリクは小さくため息をついた。
「父上はアンジェに甘いですね。もっと厳しくしたほうがいいのでは?」
フレデリクが、仕方ないという顔で腕を組み、頭を左右に振ると、皇帝は低く答える。
「女であるアンジェに、なにも求めてはおらぬ。無邪気で愛らしいだけでじゅうぶんだ。わしの目にかなった強い男に守られて生きていけばよい」
「そうですね……」
皇帝はアンジェリカが出て行った扉をじっと見つめた。
隣で、フレデリクがほの暗い笑みを浮かべているとも知らずに……。
(庭園のはずれにある親衛隊寄宿舎まできてしまったわ)
アンジェリカは皇帝の言いつけ通り城門の外には出ず、庭園の人が通らないところを、ドレスが汚れるのもいとわず林や草むらを掻き分けて探し回っていた。
皇族を最も近くで護衛する親衛隊。彼らの寄宿舎前の開けた場所では、親衛隊副隊長のジークハルト・テイラーが鍛錬をしていた。
いつもは崩さずに着ているシャツを脱ぎ、彫刻のような肉体美をさらしている。
「ハッ……ッ! フッ……ッ!」
彼の愛用している細身の剣が日の光を反射してキラリと輝くと、勢いよく振り下ろされる。
長く鍛錬をしていたのだろうか、濡れた黒髪の先から、汗が飛んだ。
アンジェリカが顔を赤くして見惚れていると、つい足元がぐらつき、草が音を立ててしまった。
「アンジェリカ皇女殿下?」
「ごめんなさい。覗き見るつもりはなかったの」
覗き見ていたことがバレてしまい、アンジェリカはバツが悪くて身を縮こませる。
ジークハルトは近くに落としてあった親衛隊のジャケットを取り上げ羽織ると、首元のボタンを留めながらアンジェリカを制する。
「アンジェリカ皇女殿下。臣下に対し、容易に謝ってはなりません。皇族の一員としての自覚を持つべきです」
「わかったわ……」
怒られて気恥ずかしいアンジェリカは、口ごもりながら答えた。
その様子にふっと笑みをこぼしながら、ジークハルトは問う。
「おひとりですか? 危険ですよ。皇女宮までお送りしましょう」
アンジェリカは笑みを見て安心したように微笑みを返すと、頭を左右に振った。
「ピッピを探したいの。手伝ってくださる?」
「ピッピ……大事になさっている小鳥ですね。逃げ出したのですか?」
「ええ。朝、鳥籠を見たら、いなくなっていたの」
落ち込んでシュンと俯くアンジェリカを見ながら、ジークハルトの中にはひとつの疑問が生まれていた。
(鳥籠の鳥が勝手に逃げ出すか?)
小鳥がいなくなったこと自体、なにか不審に思ってしまう。
しかし、懸命に探したのであろう草葉で汚れながらも目当ての小鳥が見つからず、しょんぼりと落ち込んでいる皇女をそのまま放っておくことなど、親衛隊副隊長としてできるはずもなかった。
「一緒に探しましょう」
「ありがとう。ジーク」
「構いませんよ。アンジェリカ皇女殿下」
はにかむアンジェリカに、微笑んで返すが、アンジェリカは思うところがある様子で、チラとジークハルトに目線を向けた。
「今はふたりきりなので……アンジェと呼んでください」
「……」
ジークハルトは一瞬気まずそうな表情を見せた。
本来であれば、皇女であるアンジェリカに、たとえ親衛隊副隊長とはいえ、一介の臣下であるジークハルトが気安く名前を呼ぶなど許されることではなかったが、アンジェリカがそれを求めることには理由があった。
コホと空咳をしてから、ゆっくりと、しかしはっきりと、アンジェリカの愛称を呼ぶ。
「アンジェ……」
その瞬間、アンジェリカは光が差したように明るい笑顔を見せた。
そのまましばらく小鳥を探しながら二人で辺りを歩く。
先程までは焦燥感に駆られていたアンジェリカも、ジークハルトと二人だと落ち着いて探すことができていた。
束の間の逢引に楽しささえ見出し始めたその時、ジークハルトがピタリと足を止めた。
どうしたのかとジークハルトの表情を窺うと、彼は強ばった表情で草むらの一点を見つめている。
ジークハルトの視線を追って、視線をずらしていくと──そこには全身血だらけの小鳥がいた。
「きゃあああッ! ピッピ!」
転びそうになりながら駆け寄って、しゃがみ込んで小鳥の名前を呼ぶが、血まみれの小鳥はピクリとも動かない。
そっと両手で取り上げると、その体は冷たく、すでに死んでからしばらく時間がたってしまっているようだった。
「ごめんなさい……わたくしが目を離したばかりに……」
アンジェリカは頬に零れ落ちるほど大粒の涙を流しながら、小鳥の死骸に頬を寄せる。
「猫のおもちゃにされたのね……」
小鳥一匹の死に、子どものように泣きじゃくるアンジェリカを、ジークハルトは冷めた目で見ていた。
(不審な死だな……。庭園のはずれとはいえ、猫が迷い込むことなど、そうはないはず)
許可されたもの以外は入れないよう、城内はくまなく警備されている。
人間はもちろん、猫とはいえ、この警備をかいくぐることは容易ではないはずだ。
「アンジェ」
なおも涙をこぼすアンジェリカを抱きしめながら、ジークハルトは疑念を抱いていた。
そして時が流れて、運命の日。
アンジェリカは皇族専用の牢獄の中で、ジークハルトと対峙していた。
(どうしてこんなことになってしまったの! ジークに剣を突きつけられることになるなんて!)
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