「わたくしはやっていません!」
アンジェリカの悲痛な訴えが、冷たく薄暗い地下牢獄に響き渡る。しかしジークハルトはその叫声ごと切り裂くかのように剣を振りおろし、アンジェリカの白い喉元に切っ先を突きつけた。
「皇帝殺し、親殺しは、重大犯罪です。──アンジェリカ皇女殿下」
アンジェリカの愛した男────本来ならば、アンジェリカを守るはずのジークハルト・テイラーが、凍てつく視線を向けてくる。
大陸一の栄華を誇るレガリア皇国には、誰からも愛される美貌の皇女がいた。帝国の最も美しい花と謳われるアンジェリカ・レガリア第三皇女のことだ。
彼女の天真爛漫で無邪気な性格に当惑するものもいたが、結局は素直で清楚な人柄に誰もが魅了されてしまう。
「お願いです、信じてください──」
しかしいまや、その美しい顔は涙と泥で汚れ、しなやかな痩躯を包んでいたドレスは見るも無残に破れていた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
絶対ありえないことなのに……。
(わたくしが、お父さまを殺したなんて!)
事件が起こったのは数日前のことだった。ただ家族とアフタヌーンティーを楽しみたかった。
あの日は並べられたお菓子の中に、父皇が好きなスコーンがあった。あのスコーンにはお気に入りの茶葉が合うと思ったアンジェリカは、自室まで茶葉を取りに行き自ら紅茶を淹れた。
父皇はとてもうれしそうに紅茶を口にした。そして彼は──血を吐いて倒れ、そのまま絶命してしまったのだ。
すぐにアンジェリカは取り押さえられた。
状況もわからないまま、存在すら知らなかった皇族専用地下牢に入れられた。父の死を悼むことも許されず、父を殺した殺人犯として扱われたのだ。
「あ……あなたまで、わたくしがお父さまを殺した犯人だとおっしゃるの?」
「状況証拠が揃っています」
ジークハルトが忌々しいという表情を向けてくる。
「あなたの部屋で毒粉を発見しました。言い逃れをできる状況ではありません」
毒粉。
アンジェリカには全く心当たりがなかった。心当たりを問われることすらなかった。
「異例の早さですが裁判が執り行われ、皇女殿下は明日断頭台に送られます」
数日前まで親衛隊として自分に仕えていた男から突然下される宣言に、アンジェリカはうろたえることしかできない。
押し黙るアンジェリカを見ながら、ジークハルトは続ける。
「……せめて私にだけでも、皇帝陛下殺害の理由を教えてくれませんか」
「知らないわ。ほんとうに、わたくしじゃないの……」
愛する父を殺す理由など、どこにあるというのだろうか。
アンジェリカは愛しい男に、自分の無実をせいいっぱい訴えた。
(彼ならば、わたくしの無実を信じてくれるはず)
アンジェリカとジークハルトは、立場を超えて愛し合う仲であった。
花が咲き誇る温室、木々の梢が揺れる庭園のガゼボ、ひと目を忍んでなんど逢い引きしたことだろう。
アンジェリカはジークハルトを心から愛し、彼もアンジェリカを愛していると口にしてくれた。
ふたりの愛の絆が、こんな誤解で切れるわけがない。
ジークハルトは、アンジェリカに向けていた剣先を引っ込めると、鞘に収めてしまった。
(ああ……ジークハルト! わたくしのこと信じてくれるのね!)
しかしアンジェリカの期待は、泡沫のように消え失せた。
ジークハルトが冷ややかにアンジェリカを見下ろすと、ふいと背を向けてしまったのである。
「ジーク……ハルト?」
震える声で、彼の名を呼ぶ。
だが彼から返ってきたのは、あまりにも無慈悲なひとことだった。
「愚かな皇女のお守りを、好んでやったと思うか?」
彼は背を向けたまま、侮蔑ともとれる言葉の剣でアンジェリカを傷つけていく。
「皇帝陛下に命じられて優しく接してきたが、世間知らずの皇女に振り回され、実にくだらない恋愛ごっこだった」
ジークハルトが、ははっと冷笑した。
「せめて真実を口にしてくれたら、私の剣で尊厳だけは守ってやろうと思ったが、まったく意味がなかったな。無駄足を踏んだ」
衝撃のあまり、アンジェリカはなにもいえなくなってしまう。
「愚かな皇女は、最後まで愚かだったということか」
崩れていく────
アンジェリカの大切な思い出が、コナゴナに崩れていく────
(あの、ふたりの時間は……すべてまやかしだったの?)
ジークハルトが牢獄から出て行くと、ガチャンッと鉄格子の閉まる硬質音が響いた。
アンジェリカの陳情をひとかけらも信じず、彼は牢獄をあとにした。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶望とも自棄ともとれるアンジェリカの悲痛な叫び声が、どこまでも響き渡った。
処刑当日。
アンジェリカの艶やかな金色の髪は、うなじまでばっさりと切られ、両手には拘束具が嵌められていた。
背後にそびえるのは、巨大なギロチン台。鈍く光る巨大な斜め刃が朝日を反射し、より恐怖を際立たせた。
公開処刑をひと目見ようと、押し寄せた民衆がアンジェリカを野次る。
「あれが帝国の最も美しい花と謳われたアンジェリカ皇女殿下とは……」
「毒殺らしいよ。怖いねえ」
(わたくしは無実よ。誰かにはめられたのよ)
しかし民衆にアンジェリカの心の声は届かない。
(どうして誰もわかってくれないの? みんな優しかったのに、誰もわたくしを助けてくれないなんて……! もう誰も信じられない……!)
すると断頭台の目の前に、マディの姿を見つけた。
アンジェリカの専属侍女であったことが周囲に露見したら、彼女をこの悲劇に巻き込んでしまうだろう。
アンジェリカはマディに話しかけないでくれと嘆願しようとした。
しかしマディは、いまやみすぼらしくなってしまったアンジェリカを見て、鼻でせせら笑った。
「あんたみたいな顔だけしか取り柄のない、ワガママで能天気なやつの世話をしなくてすんで、せいせいするわ」
アハハハハと高笑いすると、人並みをかき分けどこかへと行ってしまったのである。
信頼していたマディにまで裏切られ、アンジェリカはもうなにを信じていいのかわからなくなった。
(わたくしはなんて愚かだったの。裏切られ……冤罪をかけられ……このまま死んでしまうなんて……)
アンジェリカの首が切断されるまで、数分しか残されていない。
無実を訴える時間もなければ、冤罪をはらすすべもないのだ。無念さと絶望がアンジェリカの胸中に渦を巻く。
するといつの間にか、黒いフードを目深に被った男が目の前に現れた。
(え……? だ、誰……)
「おれはエトガル。魔導師だ」
アンジェリカは魔導師という言葉に覚えがあった。
(古代より魔道を極めし一族──!?)
なぜここに、どうやってと、たくさんの疑問が喉元まで上がってくるが、そのどれも言葉にできず絶句していると、男がフードを後ろに下げた。
ハラリと翡翠色の長い髪が流れると、男の中性的な美貌が地下牢の薄明りに照らされた。
異変はそれだけではなかった。
あれほどアンジェリカを罵倒していた民衆は微動だにせず、空を飛ぶ鳥ですら空中で止まっている。
(時間が止まっている──?)
「時間管理の魔術に成功したんでね」
アンジェリカの心を読んだかのように男──エトガルはニヤリと不敵に笑った。
しかし、アンジェリカの呆然とするだけでなにも反応ができない様子を見ると、イラついたようにチッと舌打ちする。
「単刀直入に言う。おまえを助けにきた」
「わたくしを? なぜ?」
彼と会ったのは今日この瞬間が初めてだ。彼にはアンジェリカを助ける義理などない。
「交換条件だ。ますは、これを受け取れ」
エトガルがローブの隙間から手を出すと、その手のひらには、親指大ほどの宝石がいくつも色とりどりにきらめいていた。
「これは?」
アンジェリカはそのうちのひとつを手に取って、まじまじと見つめた。
「時間戻りの魔石だ。まず一個使え。時間よ、戻れと念じるだけでいい。思いの強さに応じて時間を逆行できる」
時間を逆行できるのであれば、この最悪の状況から抜け出す手段が見つけ出せるのかもしれない。
しかし……。
「なぜわたくしに?」
今のアンジェリカには何もない。つまり、この怪しい男がアンジェリカに施しをしたとして、返せるものもないのだ。アンジェリカが疑いの目を向けるとエトガルは理解しているのかしていないのか、面倒くさそうに答えた。
「時間戻りの魔石は作った本人は使えないという制約あるんでね。あんたに託すことにした」
怪しい。アンジェリカは手の中の魔石を見つめた。
この宝石を使うことで時間を巻き戻すことができるなどと、そんな非現実的なことを信じられるわけがない。
アンジェリカはしばし逡巡したが、エトガルの焦ったような声がそれを許さなかった。
「早くしろ! 時間停止の効力がそろそろ切れる」
──本当に時間を戻すことができるの?
その疑問を口にする前に、エトガルは残り全ての魔石をアンジェリカに握らせ、すがるように叫んだ。
「時間を遡ったら、まずはおまえ自身と皇帝の命を守るために動け。そしておれの妹を救い出してほしい。あの悪辣な男から!」
(妹さんを助ける? それが交換条件なの?)
聞きたいことは山ほどあったが、時間が再び動き出す瞬間、エトガルはその場から消えてしまった。
すると突然頭を強く押されて、ギロチン台のくぼみに首を据えさせられた。
処刑人が剣を勢いよく振り上げる。
(ほんとうに時間が戻るの?)
もし、エトガルの言っていたことが本当なら。
もし、あの時に戻れるのなら。
アンジェリカは心の底から祈った。
(時間よ、戻って! お父さまが生きている幸せだった頃に!)
パキッと音を立てて、手のなかの魔石がひとつ割れた。
途端に空間がグニュリと歪み、アンジェリカは歪みに吸い込まれていった。
続話へ
コメント
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コメント失礼します。とても面白かったです。どんどん次を見ようと思います。アフターヌーンティーのアフタヌーンになっていて伸ばし棒が抜けています!これからも頑張ってください!