テラーノベル
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買ったばかりのコンビニのコーヒーは、蓋の内側に湯気を貼りつけながら、だんだんとぬるくなっていた。
スンホは、小さなワンルームの布団の上で、膝を抱えて座っていた。
外はまだ暗い。深夜2時を過ぎている。
踊り場から逃げ出してここに帰ってきて、まだ30分も経っていない。
心臓は落ち着いたけど、眠気はどこにもない。
スマホの通知は切ったまま。
誰からも連絡はない。
スンホは手のひらで顔を覆った。
目の奥に残るビルの踊り場と、あの声。
耳鳴りみたいに何度もよみがえる。
(なにやってるんだろう、俺)
でも、不思議と後悔はなかった。
踏みとどまったことが「正しいかどうか」なんて、わからない。
ただ、あのドアを開けたら、自分はもう二度と戻ってこられなかった。
――そう感じていた。
スンホはコーヒーを口に含んだ。
苦くて、すこし薄かった。
ベランダの窓を少しだけ開けた。
夏が終わりかけている風が、ゆっくりとカーテンを揺らす。
(……このまま終わるのかな)
不意にそんな考えが浮かぶ。
仕事もない。借金も返せていない。
住まいだって、支援制度が切れたらすぐに追い出される。
けれど。
今、自分の両手は誰も傷つけていない。
今、自分の名前で呼ばれることに、怖さはない。
それはほんの少しのことかもしれないけれど、
スンホにとっては「生きている」ことの輪郭だった。
スマホを開いて、メモ帳を立ち上げる。
「明日やること」
とタイトルをつけて、
・履歴書を出す
・NPOの窓口に連絡
・借金の相談をする
と3行だけ書いた。
書き終えたとき、やっと少しだけ眠気が来た。
スンホはカーテンを閉じ、
布団の中に入り、目を閉じた。
明日がどうなるかは、誰にもわからない。
でも、今日の“やめた”という選択だけは、確かにここにあった。
そしてそれは、スンホの人生が、まだ終わっていないという証でもあった。
窓口でNPOの人と面談を終えた帰り道だった。
曇り空の下、スンホは駅前の安いカフェで一息つこうと、コーヒーを買って店を出た。
大きな交差点の向こう側に、見覚えのある顔が見えた。
思わず足が止まった。
黒いスーツに無精ひげ、目つきだけは笑っていない――。
スンホを詐欺に巻き込んだ“あの男”。
彼もスンホに気づいたのか、一瞬目が合った。
そして口角をゆがめて、懐かしそうに笑った。
スンホは、冷めかけたコーヒーを握りしめたまま、その場から動けなかった。
「おお……スンホじゃないか。日本でも元気そうだな」
男は横断歩道を渡って近づいてくる。
スンホの心臓は嫌な音を立てる。
「……なんで」
声が出なかった。
男は笑う。
まるで昔の仲間に会ったかのように、当たり前の顔をして。
「お前がここにいるって聞いてな、仕事を回してやろうかと思ってたんだよ」
「……やめてください」
スンホはかすれ声で言った。
「もう、俺は……」
「もう? もうって何だよ。お前、借金返してねぇだろ? まだ足りねぇだろ?」
男は笑ったまま、スンホの肩に手を置いた。
スンホは肩を振り払おうとしたが、男の手は重かった。
「怖がるなよ。すぐ金になる話だ。今度は失敗しねぇ。お前の手だけ借りればいい」
脳裏に、あの夜の踊り場の冷たい空気が蘇った。
スンホは、一歩、後ずさった。
コーヒーが手から落ちて、地面にぶつかって音を立てた。
交差点の信号が青に変わる。
男の笑顔がにじんで歪んだ。
スンホは、走り出した。
逃げなきゃ。
また過去に捕まる前に。
逃げなきゃ。
すれ違う人々の視線の中を、スンホは必死で駆け抜けた。
心臓の音が、自分に「まだ終わってない」と教えてくれていた。
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