テラーノベル
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息が切れていた。
走って走って、どれだけの時間が経ったのかもわからない。
気がつけば、古びた公園のベンチに腰を落としていた。
空はまだ曇っている。
鳥の声も、子供の声もない。
スンホは膝に肘をのせ、うつむいたまま荒れた呼吸を整えていた。
すると、近くから声がした。
「……大丈夫?」
見上げると、ワイヤレスイヤホンを片耳だけ外した青年が立っていた。
髪は短めで、古着っぽい白いシャツにジーンズ。
年齢はスンホと同じくらいか、少し下かもしれない。
「いや、突然声かけてごめん。すげぇ走ってたから……追われてんのかと思って」
スンホは口を開こうとしたが、喉がひどく乾いていて声が出なかった。
「水、いる?」
彼はリュックを漁って、ペットボトルの水を差し出した。
それを無言で受け取って、少しだけ飲む。
「……ありがとう」
「うん」
しばらく沈黙が流れた。
だが彼は帰るそぶりも見せず、スンホの隣のベンチに座った。
「……なにかあったの?」
「……追われてた。昔の知り合い。もう、関わりたくなかった」
「そっか……」
彼はそれ以上は聞いてこなかった。
「名前、なんていうの?」
「……イ・スンホ」
「スンホか。俺は笠井陽斗(かさい はると)」
「……日本人?」
「うん。でも韓国語ちょっと話せる。K-POP好きで、独学だけど」
スンホは少しだけ、ほんの少しだけ笑った。
陽斗も少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
それは、不意に差し込んだ光のようだった。
「スンホ、住んでるとこある? なかったら、紹介できるとこあるよ。俺、ボランティアも少しやってるから」
名前も知らない誰かが、自分の存在を否定しないまま話しかけてくれる。
涙は出なかったけれど、心が一瞬だけ温かくなった。
「……ありがとう」
スンホはもう一度そう言った。
それは、“生きる”という選択肢を、また少しだけ肯定できた瞬間だった。
小さな1Kのアパート。壁は薄いが、静かな住宅街にある。
スンホは一時的に身を置ける場所を探すまでの間、陽斗の家に泊めてもらっていた。
最初は申し訳なさと警戒でぎこちなかったが、陽斗は無理に踏み込まず、穏やかに接してくれた。
その夜も、2人でカップ麺を食べたあと、コンビニで買った安いプリンを分け合っていた。
テレビではバラエティ番組が流れている。
スンホがぽつりと、言った。
「……なんで、こんなことしてくれるの」
陽斗はスプーンを止めて、少し考えるように天井を見た。
「たぶん……昔、俺も誰かに助けてもらったからかも」
「助けられた?」
「うん。高校のとき、家に居場所がなくて。夜、ずっと公園にいて……何回か倒れかけたことある。でも、ボランティアの人が何度も声かけてくれてさ」
「それで、今は……」
「大学通いながら、昼はバイトして、夜はたまに支援活動手伝ってる」
陽斗はそう言って、照れくさそうに笑った。
スンホは、何かを噛みしめるように黙ってうつむいた。
「俺……悪い人間なんだよ」
「何かしたの?」
「昔、詐欺に加担したことがある。ほんの一度だけ、学生のとき。でもそれで味をしめた大人が、俺を巻き込んで……俺は、俺で、逃げきれなくなって……」
陽斗は何も言わなかった。ただ黙って聞いていた。
「そういうの……たぶん、許されることじゃない」
「うん。許されるかは俺にもわかんない。でも――」
陽斗はテレビの音量を下げ、スンホの方に向き直る。
「“これから何をするか”は、スンホが決められると思う」
スンホの胸に、熱くて痛いものが押し寄せてきた。
頬が少しだけ震えた。
「……ありがとな」
陽斗はうなずいて、またプリンを口に運んだ。
どこにでもある夜。でも、そのぬくもりが、スンホの心に少しずつ残っていく。
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