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もう少し早く帰れると思っていたのだが、客宅を出たのは夕方の4時を過ぎていた。
由樹は車に乗り込むと、エンジンをかけ、ガソリンの残量を確認してから、ギアをドライブに入れた。
国道を走り、市境から高速に乗る。
たった3日間こちらに来ただけなのに、もう何週間も滞在した気分だ。
今夜は八尾首では雪が降るかもしれないと母が言っていた。まだスノータイヤには替えていないが大丈夫だろうか。
流れる景色と、まっすぐに続く道路を見つめて、由樹は思った。
(……今、すごく……)
「篠崎さんに、会いたい…」
口に出して言ってみると、その思いはより強くなった。
思えば2年前のこの時期は天賀谷展示場でひとり、篠崎に片思いをしていた。
千晶に宣言をした「本気で落とす」ために、どうすればいいのかわからず、篠崎が意図的に流していた結婚の噂に、どう反応していいのかわからず、時たま天賀谷展示場に訪れる篠崎に胸を高鳴らせ、視線の切なさに胸を痛め、脈のなさに絶望に暮れていた。
本当に……
本当に落ちてくれるなんて、あの時は思わなかった。
ただ玉砕するのであれば、ほんの少しの可能性に駆けて、やれることは全てやろうと思っていただけだ。
ちゃんと諦めるために。
それが……。
自分を恋人に選んでくれるどころか、一緒に住んでくれるなんて。
あんな、プロポーズのような、告白までしてくれて――――。
由樹は秋田の雪景色を思い出した。
(……夢、みたいだ……)
自分は今、高速道路を110kmで走行しながら、篠崎が待っているマンションへ帰ろうとしているのだ。
彼が迎えてくれて、一緒に夕食を食べて、それで―――。
一緒のベッドで眠る。
こんなに幸せなことがあっていいのだろうか。
由樹は改めて、今自分が置かれている状況の奇跡を噛みしめた。
早く会いたい。
会って、いろんな話をしたい。
まずは―――。
母の顔が浮かぶ。
昨夜、彼女は由樹の好物をダイニングテーブルに並べた後、唐突に話し出した。
「由樹、あの車、いつまで乗り続けるの?」
あの車とはもちろん、由樹が母親から譲り受けたコンパクトカーのことだ。
「え、乗りつぶす気でいたんだけど…」
由樹が目を見開くと、母親はふっと笑った。
「無理しなくていいって。車種で営業の実力を判断するって話、この間近所の人から聞いてね」
「…………」
「好きな車、乗っていいんだからね」
母親はそう言って微笑んだ。
「あんたは、好きなように生きていいの。何の負い目も感じることはない。何も恥じることはない。あなたは世界でただ一人……」
――私の息子なんだから。
気づくと唇を噛んでいた。
お母さん。
正常な男じゃなくてごめん。
孫の顔を見せられなくてごめん。
でもお母さんは―――。
世界でたった一人の、母親であり、
かけがえのない、
家族だよ。
八尾首についた頃には定時は過ぎていた。高速を降りたところにあったコンビニエンスストアに車を停めると、11月の空はすっかり暗くなっていた。
店から出てくる人の息が白い。
今夜雪が降るのは本当かもしれない。
由樹はため息をつきながら、携帯電話を取り出し、篠崎の番号を探して呼び出しボタンを押した。
『……新谷か』
篠崎はコールが鳴らないうちに電話に出てくれた。
「あ、はい」
『こっちに着いたか』
「はい、今着きました」
『そうか……』
篠崎はそのまま黙り込んでしまった。
「どうかしましたか?」
『……悪いが、急な仕事が入ってな。先にマンションに帰って待ってろよ』
篠崎の声は沈んで聞こえた。
(別に仕事なら、気兼ねすることないのに……)
由樹はふっと笑って言った。
「いいですよ。何時まででも待ってますから、お仕事、頑張ってください」
言うと、篠崎は長く細いため息をついた。
「どうしました?」
心配になって聞くと、
『早くお前に会いたいのに、ごめんな……』
いつになく弱々しいその声に違和感を覚える。
「大丈夫ですよ。俺、待ってますから」
『そうだな……』
篠崎は低い声で言った。
『どこにも行くなよ。新谷』
「?!」
高台にあるコンビニから、八尾首を見下ろしながら、由樹は目を見開いた。
どうしたのだろう。
いつもの篠崎らしくない。
「行かないですよ。ずっと家で篠崎さんを待ってます」
言うと、篠崎はやっと納得したのか、深く息をついた。
『なるたけ早く帰るからな』
その言葉を最後に、篠崎の電話は切れた。
「……」
由樹は思わず携帯電話を見つめた。
てっきり寂しいのは自分だけだと思っていたが、篠崎も相応に寂しがってくれていたのだと思うと、胸が熱くなる。
――待てる。
何時まででも、自分は待てる。
由樹は携帯電話を抱きしめながら、深く目を閉じた。
篠崎が鈴原宅に到着すると、夏希は葵を抱いたまま、青い顔で駆け寄ってきた。
家の中が寒い。
「なんかずっとエラー表示が出ていて……」
「見せていただきますね」
篠崎は靴を脱いで上がると、一直線に台所にある床暖房の操作パネルを見た。
【E-02】
表示を確認してから持参した床暖房の取り扱い説明書を開く。
「『室外機のトラブル』……?」
篠崎は踵を返し靴を履くと、家の北側に回った。
暗くて良く見えない。
コートのポケットから小型懐中電灯を取り出し照らす。
「…………!」
防雪フードの下から、熱交換のためについているフィン部分を見ると、そこにはびっしりと霜がこびり付いていた。
通常霜取り機能のついている室外機ではこのようなことはあり得ない。真冬でも豪雪でも、きちんと運転がなされていれば、凍らない。霜も付着しない。
明らかに異常だった。
携帯電話を取り出し、工事担当の小田に電話を掛ける。
『そんな症状、聞いたことないすよ…』
小田も焦っている。電話の向こうからは、小田の子供の声が聞こえてくる。
「家族団欒中に申し訳ないが、こちらもなんとかしてもらわないと困る」
『ちょっとメーカーに電話してみます』
「メーカーはもう対応時間が終わってる。できれば取り付けた設備屋に来てもらいたい」
言うと、彼は『わかりました!』と言って電話を切った。
「さて………どうするかな」
凍り付いたフィンは動かない。
室外機が動かないのでは、床暖房は作動しない。
鈴原宅の間取りを思い出す。
床暖房を家中に設置しているものの、夏は冷房が必須であるため、リビング、客間、寝室にはそれぞれエアコンが取りつけてある。
しかし寒冷地用のエアコンではない。暖房をつけるにしても、そのパワーはたかが知れている。
どうにか床暖房を復旧させなければ。
風呂の窓を開け、夏希が顔を出した。
「大丈夫ですか?」
篠崎は懐中電灯を切り、夏希を見上げた。
「申し訳ありませんが、室外機がなんらかの理由で凍ってしまっているようです」
「え……そんな」
「今夜は冷えるので、もしできれば、ご親戚の家など、葵ちゃんを連れて身を寄せられるところはありませんか?」
夏希は眉間に皺を寄せた。
「親戚は頼れません。勘当同然で家を出たので。そもそもこっちが地元じゃないので、友達もいません」
「————」
そうだった。夏希は両親と疎遠だ。だから家やローンの保証人は、全て東田の両親が記名してくれたのだった。
「ではこちらで宿泊代は負担させていただくので、ホテルなどは……」
「嫌です!」
夏希がますます眉間の皺を深くする。
「篠崎さんにはわからないのかもしれませんが、大変なんですよ?赤ん坊を連れて他の場所に宿泊するっていうことは。オムツもおしりふきも、ミルクだって消毒液だって、全部持って行かなきゃいかないし。まず、葵は家じゃないと落ち着いて眠れないんです。寝相も悪いし。ホテルのベッドから落ちたらどうするんですか?!」
捲し立てるような言葉が降ってくる。夏希の目に非難の色が浮かぶ。
(悪いのは、そっちでしょ!!)
心の声が聞こえてくる。
……確かにそうだ。
引き渡しをしてたった2年目で、こんなトラブルを起こしているこちら側が悪い。
「申し訳ありませんでした。今、設備屋と連絡を取っているので、少しお待ちください。1階のエアコン、どちらも最大でつけてください。あとからその分の電気代はこちらで負担しますので」
「もうやってます!」
言うと、夏希はこちらを睨んだまま、三重ガラスの重い窓を勢いよく閉めた。
その音に驚いたのか、それとも部屋の中が寒いのか、葵が泣いている声が聞こえる。
篠崎はため息をつきながら、霜がこびり付いたフィンを撫でた。
「お疲れ様です!」
設備屋を連れた小田が走ってきた頃には、空からは白いものがちらついていた。
「お疲れ。悪いな。井上さんもすみませんね」
住宅設備屋の社長にも頭を下げる。
「いえいえ。うわ。こりゃひどいな」
ヘッドライトの電源を入れながら、井上が覗き込む。
「接続と設置に問題はない。でも室外機を分解しても、基板関係は俺たちは弄れないしな…」
井上の白い息が、ヘッドライトのLEDの光の中に溶けていく。
「とりあえず」
その息を目で追うように井上が風呂の窓を見上げた。
「溶かすか」
シャワーホースはギリギリのところで届かない。
仕方ないので、井上が持ってきたバケツに湯を汲み、それを窓から小田に渡し、湯をかけてはブラシで擦り、霜を取ることにした。
篠崎は膝までスラックスを捲り上げ、湯船の上についている水栓からバケツに湯を溜めては渡す作業を繰り返した。
「篠崎さん、大丈夫すか?変わりますか?」
小田が言う。
「いや、そっちも大変さは同じだろ」
言いながらバケツの湯を零さないように渡す。
「どうだ?溶けてきたか?」
「なかなか奥がなー」
井上がライトで覗き込みながら顔をしかめる。
篠崎は暗い空を見上げた。
先ほどはちらついていた雪が、とうとう本降りになってきた。
家の中はエアコンをつけている分、少しは温かいが、それでも赤ん坊が眠るには寒い。
夏希も葵も、薄いジャンバーを着てやっと凌いでいる状態だ。
このまま夜を明かすわけにはいかない。
「………夏希さん」
心配そうにこちらを見ている夏希に話しかける。
「私の方で、赤ん坊が落ちないような対策が出来るホテルを探して手配するので、今夜はやはりそちらに泊まっていただくわけにはいきませんか?」
「……………」
家の寒さが堪えてきたのか、夏希が顔をしかめて迷っている。
「……まだ、溶けないんですか?」
「溶けてきてはいるのですが、それでフィンが回るとは限りませんし」
「…………」
眠くなったのか、葵がぐずぐずと泣き出す。
その顔を憂鬱そうに覗き込みながら、夏樹がボソボソと話し出した。
「……嫌なんですよね。子供が泣いてうるさいって思われるの……」
………それはそうかもしれないが―――。
今2人の健康のことを考えれば、“そんなことくらい”と思ってしまうのは、やはり自分に子供がいないからだろうか。
「赤ん坊は泣くものだと、みんな思ってると思い――――」
「違いますよ」
夏希はキッと篠崎を睨んだ。
「違います。世の中にはうっせえなって……。親は何してんだよ、黙らせろよって、思ってる人間がいるんです」
「……………」
その口調に、ひくついた鼻に、夏希の本性を見た気がした。
しかし彼女の主張はもっともだ。
迷惑をかけているこちら側が、本人たちが望まないことを押し付けるわけにはいかない。
「篠崎さんって」
夏希が思いついたように目を見開いた。
「どこに住んでるんですか?」
「駅裏の方ですが……」
「一軒家?」
「いえ、マンションです」
嫌な予感がする。
「それじゃ……」
夏希が言いかけた時、
「動いた!動きました!」
小田が叫んだ。
「とりあえず、今、運転は再開しました。これからは自動ではなく、強制的に霜取り状態にしておきます。これで凍ることはないと思いますので」
井上がヘッドライトを外して、夏希に説明をした。
「明日、またメーカーに連絡を取って、原因の解明と必要であれば修理交換をさせていただきますので、よろしくお願いします」
「わかりました」
夏希はほっとしたように、エラー表示の消えたパネルを見てため息をついた。
「大変申し訳ありませんでした」
篠崎と小田が並んで頭を下げると、夏希は「いいえ」と低い声で言いながら、抱いた葵の尻をポンポンと叩いた。
車に乗りこむ。
いつの間にかスーツの裾も袖もびしょびしょに濡れ、前髪は凍り付いていた。
スーツのポケットから携帯電話を取り出すが、指先がかじかんでうまく操作できない。
「帰った方が早いか……」
家で待っているだろう恋人に、一刻も早く会いたい。
ナビのディスプレイには23:12と表示されている。
「寝てるかな」
呟きながらギアをドライブに入れる。
「まあ、寝てても起こすけど」
篠崎は鈴原宅を後にした。