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この作品はsxxnでnmmnです。
ご本人様は一切関係ございません。
紫緑♀︎
その日、いるまは限界だった。時計は深夜一時を回っている。スーツのまま帰宅しネクタイを外しソファに腰を下ろしたところまでしか記憶がない。仕事の資料が入った鞄は床に転がり、スマホには未読の通知が溜まっている。
(……あとで風呂……)
そう思ったはずなのに意識はそこで途切れた。次に気づいたときいるまは「重さ」を感じていた。胸元にじんわりとした温度。呼吸に合わせてかすかに上下する感触。
(……?)
薄く目を開けると視界の端に柔らかい髪が映った。すちだ。彼女はいつの間にか部屋に入ってきて、ソファの上で丸くなりいるまの腕に抱きつくようにして眠っていた。頬は彼の胸に押し当てられ、指先はシャツの裾を掴んでいる。
(……なんで、ここに)
問いは浮かんだが声にはならなかった。眠っているすちは起きているときよりもずっと無防備だった。まつ毛は影を落とし、口元はわずかに緩んでいる。呼吸は穏やかで完全に安心しきっているそれだった。
(……添い寝、してるつもりか)
たぶんいるまがソファで寝落ちしているのを見てそのまま自然に隣に来たのだろう。すちはそういうことを何の躊躇もなくやる。それが――問題だった。
(……可愛すぎるだろ)
心の中で毒づきながらいるまは身動き一つ取れなかった。仕事で張り詰めていた神経がすちの体温に触れた瞬間から、ゆっくりほどけていく。胸の奥に溜まっていた疲労が甘い重さに変わっていくのが分かる。同時に別の感情も確実に芽生えていた。
(……近い)
あまりにも。腕を動かせば抱き寄せられてしまう距離。顔を傾ければ髪に顔を埋められる位置。理性が必死に警告を鳴らす。
(起こすな。触るな。今は寝ろ)
だがすちは無意識に身じろぎして、さらに距離を詰めてきた。
「……ん」
小さな寝息と一緒に、額が胸元に擦れる。
――無理だ。
(これは、反則だろ)
いるまは天井を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。仕事でどれだけ追い詰められてもここまで心が緩むことはなかった。誰にも弱音を吐けず、感情を表に出さず、ただ「できる男」でい続けてきた。
それなのに。すちがこうして寄り添っているだけで、全部がどうでもよくなりそうになる。
(……守りたい、っていうか)
もっと正直に言えば。
(離したくない)
すちは何も知らない顔で眠っている。自分がどれだけいるまの心を掻き乱しているかも、疲れ切った彼をどれだけ救っているかも。そのことが愛おしくて、少しだけずるい。しばらくしてすちが目を覚ました。
「……あ」
ゆっくり瞬きをして、状況を確認する。
「起きてた?」
「今、起きた」
「そっか」
それだけ言ってすちは特に慌てることもなく再び胸元に顔を埋めた。
「……え、戻んのか」
「だって眠いし、それに…」
「ここ、落ち着くし」
当然みたいな口調。 いるまは、喉の奥で小さく息を詰めた。
「……すちは、距離が近すぎる」
「そう?」
「そう」
「でも、嫌じゃないでしょ」
その一言に返す言葉がなかった。嫌なわけがない。むしろその逆で。
(だから困るんだよ)
すちは少しだけ体を起こしているまの顔を覗き込む。
「仕事、大変だった?」
「ああ」
「おつかれさま」
そう言って再び寄り添ってくる。頭を預ける位置が少しだけ高くなった。まるで労わるみたいに。いるまの胸がじん、と熱を持った。
(……これで、何も思うなって方が無理だ)
けれどすちを抱きしめることはしなかった。代わりにそっと、ほんの少しだけ腕の位置を調整する。逃がさないけれど縛らない距離。
すちはそれに気づいたのか、安心したように微笑んだ。
「……ねえ、いるまちゃん」
「なんだ」
「また疲れたら、こうしていい?」
問いかけは、あまりにも無防備だった。
いるまは一瞬だけ目を閉じてから、静かに答える。
「……好きにしろ」
「やった」
小さな声でそう言ってすちはまた眠りに落ちていった。その寝顔を見ながら、いるまは思う。
(こんな形で癒される日が来るなんてな)
仕事でどれだけ疲れても世界にどれだけ厳しくされても。この温度があるならまた明日を生きていける。
胸に眠るすちの重さを確かめるように感じながらいるまは再び目を閉じた。
――好き、なんて言葉じゃ足りないほどに。