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第一章 結城家の朝
朝六時。
まだ外は少しだけ薄暗く、住宅街は静かな空気に包まれていた。
結城家では、毎朝変わらない一日が始まる。
「……さて。」
キッチンでは、結城千景がエプロン姿で朝食を作っていた。
社長として何千人もの社員をまとめる彼だが、この家ではただ一人の兄。
そして何より——弟・千弥のお世話係である。
コンロでは野菜スープが優しく湯気を立て、隣では卵焼きが焼き上がる。
「今日は少し冷えるな……。」
天気予報を確認した千景は、小さく頷いた。
(ちひろ、冷えで体調を崩さないといいけど。)
毎朝最初に考えるのは仕事ではない。
弟の体調。
それが結城千景の日常だった。
朝六時三十分。
二階へ向かう足音はとても静かだった。
寝室のドアをそっと開ける。
「……。」
ベッドには、小さく丸まって眠る千弥。
ふわふわのクリーム色のパジャマ。
胸元にはお気に入りのテディベア。
ぎゅっと抱き締めたまま眠っている。
長い睫毛。
少し幼さの残る寝顔。
思わず頬が緩む。
「今日も可愛いなぁ……。」
誰に聞かれるわけでもなく呟く。
会社では冷静沈着な社長として知られる千景だが、この瞬間だけは完全に兄の顔だった。
ベッドの横へ腰掛ける。
「ちひろ。」
返事はない。
「ちーちゃん。」
「……んぅ……。」
小さな声。
ようやく反応した。
「朝だよ。」
「……にぃにぃ……。」
寝ぼけた声。
目も開いていない。
「あと……ごふん……。」
「その五分が三十分になるでしょう?」
「……ならないもん……。」
「昨日も言ってたよ。」
「……。」
返事がない。
見ると、もう寝ている。
「……寝ちゃった。」
千景は苦笑しながら髪を撫でた。
「もう一回だけ起こすからね。」
七時。
「ちひろ。」
「……。」
「起きよう。」
「……。」
「大学。」
「……。」
「テディベア。」
「……!」
ぴくっ。
「くまさん?」
「うん。今日は一緒に大学行く?」
その一言でゆっくり目が開く。
「……いく。」
「おはよう。」
「……おはよぉ……。」
まだ半分夢の中。
ぼんやりしたまま座る千弥。
髪は寝癖でふわふわ。
目もとろんとしている。
「朝は苦手?」
「……ぽやぽやする。」
「うん、知ってる。」
「ちぃ……まだねむい……。」
「顔洗おう。」
「うん……。」
しかし立ち上がった瞬間。
ふらっ。
「っと。」
千景がすぐ支える。
「大丈夫?」
「へいき……。」
「本当?」
「……へいき。」
本人は笑っている。
だからこそ油断できない。
洗面所。
「まず熱。」
ピッ。
体温計が鳴る。
「三十六・八。」
「へいき?」
「平熱。」
「やったぁ。」
嬉しそうに笑う。
その笑顔だけで朝の疲れが吹き飛ぶ。
「次。」
「はーい。」
血色。
唇。
目。
呼吸。
喉。
脈。
額。
手足の冷え。
毎朝欠かさない健康チェック。
千弥も慣れたものだ。
「お口開けて。」
「あー。」
「喉も大丈夫。」
「えへへ。」
「昨日眠れた?」
「いっぱい。」
「お腹痛くない?」
「ない。」
「頭は?」
「へいき。」
「気持ち悪くない?」
「うん。」
診察は十分ほど続いた。
最後にぎゅっと抱き締める。
「今日も元気。」
「にぃにのおしんさつ、おわり?」
「うん。」
「ごうかく?」
「もちろん。」
千弥はにこっと笑った。
「やったぁ。」
朝食。
「いただきます。」
「いただきます。」
今日の献立は、
・野菜スープ ・卵焼き ・鮭 ・ご飯 ・ヨーグルト
「ちゃんと食べようね。」
「うん。」
だが。
五分後。
「……。」
「ちひろ?」
「……。」
ぼーっ。
箸を持ったまま止まっている。
「朝だなぁ。」
「……?」
本人は止まっていたことにも気付いていない。
「ほら、ご飯。」
「あ。」
一口。
もぐもぐ。
「おいしい。」
「よかった。」
食べさせてもらうほどではない。
でも見守っていないと、朝だけは時間が止まってしまう。
それもいつものことだった。
食後。
制服ではなく、大学用の私服へ着替える。
白いニット。
淡い水色のカーディガン。
ベージュのパンツ。
そして。
「今日はこの子。」
棚から選んだのは、小さなブラウンのテディベア。
「お名前は?」
「くぅちゃん。」
「今日はくぅちゃんなんだ。」
「うん。」
優しく抱き締める。
「くぅちゃんも大学いく。」
「一緒だね。」
その様子を見ながら千景は自然と笑みを浮かべた。
この家では、ごく当たり前の光景だった。
玄関。
靴を履き終えた千弥は、小さくあくびをした。
「眠い?」
「まだぽやぽや。」
「大学着く頃には少し目が覚めるかな。」
「たぶん。」
そう答えながらも、千弥はテディベアを大切そうに抱きしめる。
千景は弟の首元にマフラーを巻き直し、少し曲がっていた前髪を整えた。
「よし。今日は風が冷たいから、無理しないこと。」
「うん。」
「何かあったらすぐ連絡。」
「うん。」
「お昼ご飯はちゃんと食べる。」
「うん。」
「具合が悪くなったら我慢しない。」
「うん。」
「……返事だけじゃなくて、本当に守ってね?」
千弥はふわりと笑って頷く。
「だいじょうぶ。にぃに。」
その笑顔を見てもなお、千景の心配は尽きることがない。
「じゃあ、大学まで送ろうか。」
「うん!」
二人は並んで家を出た。
今日もまた、結城家の穏やかな一日が始まる。
第一章 おわり
第二章へ続く
コメント
3件
第一章をお読みいただきありがとうございました。
読ませていただきました……。朝の風景がすごく丁寧に描かれていて、胸がいっぱいになりました。特に「テディベア」の一言で目を開けるちひろくん、可愛すぎます。でも同時に、千景さんの過保護とも取れるほどの優しさが、何か裏にありそうで気になってしまう……。この温かさの奥に、もしかしたら闇が潜んでるのかなって。続き、すごく気になります。素敵な作品をありがとうございます🌙
𝐀𝐘𝐀_

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