この世界は腐っている。
8歳のミーシャはでっぱった腹の主人に首輪を引かれながら思う。
ロンメル神殿の裏手には、淀(よど)みが充満していた。
裏市と呼ばれるこの場所は、盗品から奴隷まで何でも売られている。
ここの奴隷の一部は神殿が用意しているそうだ。
どうやら神はわたしたちを見捨てたらしい。
ぐいと首輪を引かれて、わたしが転ぶ。
いつものやつだ。
「ミーシャ! お前は歩くこともできねえのか!」
罵声と共に、暴力が襲いかかってくる。
ボロ布を纏うわたしが主人に殴られるのを、通行人たちが下卑た顔で見る。
胸を蹴り飛ばされた。
肺が潰れて息ができない。
咳き込んで懸命に空気を取り込んでいると、いつの間にか人垣ができていた。
ねっとりとした視線が絡みつく。
男たちの12の瞳が興奮していた。
わたしの主人、ゼゲルはこうして奴隷を見世物にすることを好む。
裏市に出れば2,3回はやられる。いつものことだ。
「来い! ノロマが!」
首輪を引かれ、よたよたと歩き始めると、笑い声が響く。
男に女。
傅(かしず)く奴隷たちが、わたしを笑う。
この前、夜のわたしを買った紳士然とした男がこちらを見ていた。
男は軽く会釈をして、立ち去っていく。
きっと今夜はお楽しみだろう。
できれば、あまり殴らないでもらいたい。
ああ、きっとみんな。
みんなみんな、生きていて楽しいのだろう。
死んだ魚のような目で見るこの世界は、どこまでも救いがなかった。
なぜこんなことになったのだろう。
奴隷仲間が言うには30年前に影の王が生まれたのが原因らしい。
影の王は5歳の誕生日に新たな魔法を生み出した。
『奴隷魔法』
奴隷の支配に特化したその魔術体系は、すでにあった奴隷制度にのっかって、あっという間に広まった。
褐色の頬に刻まれた奴隷刻印。
これがある限り、わたしは……。
「ミーシャ! どこを見ている!」
ゼゲルが苛立っている。いつものことだ。
わたしが反応しないのがつまらないのだろう。
顔を歪ませ、口から腐臭を漂わせながら、ゼゲルが笑う。
怖気が走る。
この笑い方は、やばい。
「【痛みを《ペイ》……】」
「あっ」
――拷問呪文が来る!
視界が歪んで、吐き気に襲われる。
身体が震えて止まらない。
恐怖に支配されたわたしは、跳ね上がる心臓を押さえつけ。
失禁しないよう、精神を張り詰める。
こんなところで漏らしたら、殺される……!
無様にへたりこんだわたしを、ゼゲルがにやにやと見下していた。
呪文は唱えられなかった。
だから、これはただの拒絶反応だ。
拷問呪文を繰り返された奴隷は、詠唱を聞くだけで心が折れる。
染みついたトラウマは永遠にわたしを蝕(むしば)み続けるのだ。
視界が定まらない。
目の焦点が合っていないのだろう。
ガクガクと震える奴隷(わたし)の顔をひとしきり楽しむと、ゼゲルが首輪を引く。
震える足を無理矢理立たせて、奴隷のわたしは歩き出す。
いつもの、いつものことだ。
昨日も今日も明日も、何一つ変わらなくても。
いつものことだと思えば、生きていける。
そう自分に言い聞かせながら。
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