テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
紙とインクの匂いに、汗と埃の匂いが混じり合う。
夕刻の冒険者ギルド、受付ホールは一日の中で最も騒がしい時間を迎えていた。
トロル討伐から帰還した大所帯のパーティが、興奮も冷めやらぬ様子で受付カウンターへとなだれ込んでくる。
「見ろよ、この討伐証明部位のデカさ!」
「聞いてくれ受付嬢さん、今日の戦いっぷりはよ――」
口々に成果を語る野太い声が重なり合い、カウンターの向こうは瞬く間に喧騒に包まれた。
ほぼ同時に、別口の依頼から戻ったばかりの小規模なパーティが、怪我人を抱えて転がり込んでくる。
この手の同時多発的な混雑には、とうに慣れているはずだった。
怪我人の優先度を見極め、報告書の受理と並行して回復薬の在庫を確認し、討伐証明部位の査定を進める。頭の中で優先順位を組み立てながら、私は足元の書庫から今日の分の依頼票綴りを取り出そうと、無意識に腰を折った。
その瞬間。
腰の奥、いつも鈍く疼いているあの場所に、鋭い痛みが突き刺さる。
(――っ、また……!)
息が詰まり、視界が一瞬白くかすんだ。手にしていた依頼票の束が、指先から滑り落ちかける。
とっさに歯を食いしばり、崩れかけた体勢をどうにか立て直す。落としかけた書類を、何事もなかったかのように整え直しながら、表情筋にだけは決して動揺を出さないよう、細心の注意を払った。
受付という仕事は、冒険者たちにとっての「安定」の象徴でなければならない。窓口の向こうの人間が狼狽えていては、彼らはまともに命を預けられないからだ。
「マイラさん、大丈夫ですか?」
隣で書類整理をしていた後輩職員が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ええ、問題ありません。少し、書類が重かっただけです」
私は努めて平静な声で答えながら、内心でため息をついた。
(今月に入って、もう何度目だろう。……もし今のが、もっと大事な書類だったら)
そんな不安を無理やり押し込め、私は変わらぬ笑みを浮かべたまま、次の対応へと意識を切り替えた。
○
繁忙のピークが過ぎ去った後、いつもの癖で今月分の依頼達成率と負傷報告の集計に目を通していると、数字の中に明らかな異常が一つ、紛れ込んでいることに気づいた。
(……この数字、おかしいわね)
ペン先で紙面をなぞりながら、私は眉根を寄せる。
あのCランクの小柄な盾役……たしかオルガさんが所属しているパーティは、先月まで彼女自身の肩の負傷報告が毎週のように上がっていた。なのに、ここ最近ぴたりと途絶え、討伐達成率も跳ね上がっていた。
もう一件。新人弓使いの少女のパーティも、同様の傾向を見せている。討伐率が安定し、前衛の負傷報告も激減している。
(……偶然にしては、出来すぎている。共通する何かがあるはずよ)
無意識に、自分の腰にそっと手を当てる。
(数字の裏にある『何か』を突き止めるのも、受付の仕事のうちよね)
自分自身に言い聞かせるように、私はそう呟いた。
○
休日の昼下がり、私は制服ではなく質素な私服に着替え、噂の防具店を訪ねていた。
分析のための視察。そう自分に言い聞かせながらも、内心では単純な好奇心と、拭いきれない期待のようなものがあることを、否定しきれずにいた。
職人街の片隅、目立たない路地の奥。看板も控えめで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいだった。それでいて、口コミだけでこれほどの評判を築いているという事実に、私は静かな重みを感じずにはいられなかった。
「失礼します。……こちらが噂の防具店、で間違いないですね」
古びた木の扉を押し開けながら、私は努めて事務的な口調で告げた。
「いらっしゃいませ。……どうぞ、おかけください」
カウンターの奥、裁断作業をしていた男が、顔も上げずに応じる。
「ありがとうございます」
促されるまま、私は近くの椅子に腰を下ろした。
その瞬間――腰の奥に、いつもの鈍い痛みが走る。
「……っ」
微かに顔をしかめかけたが、すぐに平静を装った。
(今日は、座るだけでも痛んでくるなんて)
そんな一瞬の綻びなど、誰も気づかないはずだった。
「今日は、個人的な興味で伺いました。冒険者ギルドで受付を担当しているのですが、最近、何人か……特定のパーティの依頼達成率と怪我の報告に、妙な改善が見られまして」
「……それで、視察に?」
「ええ。原因を突き止めておくのも、受付の仕事のうちですので」
トウヤは手元の作業を止めないまま、私を一瞥した。
「……座る時、腰を庇いましたね」
(――え……?)
心臓が、小さく跳ねた。
長年、対人の観察と分析を生業としてきた自負がある。ちょっとやそっとの動揺は、表情に出さない自信もあった。
それなのに、たった一言で、その自負があっさりと崩される感覚を味わう。
「……気のせいでは?」
とっさに取り繕う声が、自分でも驚くほど平坦に響いた。
「気のせいなら、今も無意識に体重を左へ逃がしたりしません」
私の表情が、ぴくりと動く。
「……鋭いですね。職業病、というやつでしょうか」
「その職業病の原因は、恐らくあなたの制服です」
「……は?」
「受付嬢用のサッシュ、腰の位置で強く締める意匠ですね。あれを着けたまま長時間座り仕事を続ければ、腰回りの血流が阻害され、脊椎を支える深層筋が弱っていきます」
動揺を押し隠しながら、私は静かに応じた。
「……あくまで、一般論として伺っておきましょうか」
「でしたら、今すぐ席を立って、普通に歩いてみせてください」
「……」
言葉に詰まり、立ち上がろうとして、わずかに腰へ手を添えてしまう。
「無理に隠さなくて結構です。……もう半年以上、そのサッシュを締めたまま、一日十時間近く座っているのでは?」
観念したように、私は小さくため息をついた。
「……十二時間です。繁忙期は」
少し間を置いて、私は静かに続けた。
「正直に言うと、ここ最近、腰の痛みで夜もろくに眠れていません。先日も、書庫から書類を取ろうと屈んだ瞬間、危うく落としそうになりました。……ですが、受付が『腰が痛い』などと弱音を吐けば、ギルドの示しがつきません。冒険者たちの前では、常に完璧でいなければなりませんので」
「完璧である必要はありません。正確であれば十分です」
「……手厳しいですね」
「事実を言っているだけです。……ちなみに、先ほどおっしゃっていた『特定のパーティの改善』というのは」
「あ……」
(そうだ、本題を、まだ何も……)
「実は、Cランクの盾役の方と、駆け出しの弓使いの方……、お二人とも、最近急激に討伐成績と負傷率が改善していて。もしかして、こちらで何か特別な装備を……」
「ええ、おそらくお二人とも、こちらでフィッティングをさせていただきました」
「……やはり」
「あなたも、同じ理由でここにいる。……そうではありませんか?」
言葉に詰まり、しばし沈黙する。
「……ご指摘の通りです。降参です」
○
案内されたフィッティングルームに足を踏み入れながら、私はこれまで感じたことのない奇妙な落ち着かなさを覚えていた。
普段の自分は、常に「見る側」だ。窓口越しに冒険者たちの顔色を読み、些細な言動から状況を推し量る。それが染み付いた職業的な習慣だった。
だが、この狭い空間では、その立場が完全に逆転する。
「……普段は、私が人を観察する側なので。こう、見られる側に回るというのは、妙に落ち着きません」
「観察は得意分野なんですか」
「ええ。受付は、書類の数字だけでなく、目の前の冒険者の顔色や歩き方からも、多くの情報を読み取る仕事ですので」
トウヤはメジャーを取り出しながら、静かに言った。
「奇遇ですね。私も似たようなことをしています」
「……いえ、恐らく、私よりずっと精度が高いかと」
(現に、今日初めて会ったばかりの相手に、半年来隠し続けてきたことを、一瞬で見抜かれたんだから)
「腰回りを見せていただいても? サッシュを緩めていただければ、下着の上からで結構です」
「……分かりました」
震える指でサッシュの結び目に手をかける。腰から太腿にかけて締め付けていた布地が緩む感触に、思わず小さく息が漏れた。人前で制服を緩めることなど、これまで想像したこともなかった。
トウヤが無言でメジャーを手に、こちらへと近づいてくる気配だけで、なぜか背筋が伸びる。
彼の視線には、値踏みするような冷たさはあっても、それ以外の下心のようなものは一切感じられない。
それが分かっているはずなのに、心臓は落ち着かないリズムを刻み続けていた。
指先が、腰回りに軽く触れる。
「……っ」
反射的に、わずかに身をこわばらせた。
指先が腰回りに触れた瞬間の、あの小さな緊張。それを悟られてしまっただろうか。
そんな懸念が一瞬頭をよぎったが、トウヤの手つきには、それを気にする素振りすら感じられなかった。
ただ淡々と、しかし驚くほど正確に、骨盤周りの特定の点を押しては、その反応を確かめていく。緩めたサッシュの下、普段は誰にも晒すことのない腰から腰骨のあたりへ、彼の指先が迷いなく這っていくたび、肌の奥がじわりと熱を持った。
長年、対人の観察と分析を生業にしてきた身として、彼のこの仮説を立て、検証し、根拠を積み上げていくように思える過程には、奇妙な既視感すら覚えた。自分が窓口で冒険者の顔色や歩き方から情報を読み取る作業と、構造としては何一つ変わらない。ただ対象が、数字ではなく自分自身の身体だという点だけが、決定的に違っていた。
「……もう少し、骨盤の傾きを確認します。動かないでください」
「……ええ」
トウヤの指が、骨盤の一点を軽く押す。
「……っ」
思わず、声が漏れた。
「反応が出ましたね。腸腰筋、右側だけが明らかに張っている。左右非対称です」
「それは……何が原因なんでしょうか」
「少し、実際の動作を見せていただけますか。……冒険者が窓口に来た時、あなたはどう対応しますか」
「え……。立ち上がって一礼し、それから右手で受理印を取り、書類に押します」
「その受理印は、いつも右側に?」
「……ええ、そうです。定位置ですので」
「座った状態から半分立ち上がり、右にひねって受理印を取る。……それを、一日に何百回と繰り返している。サッシュが骨盤を締め付けた状態でその動作を続ければ、右側の腸腰筋だけが酷使され続けます」
(何百回、か。……数えたことはなかった。数字を扱う仕事をしているくせに、自分の身体にかかっている負荷の回数だけは、一度も勘定したことがなかったなんて)
「……具体的な数字までは、数えたことがありませんでした。ですが、感覚としては、的確だと思います」
「感覚ではなく、事実です。……もう少し、採寸を続けます」
腰から骨盤にかけて、さらに数点、丁寧にメジャーが当てられていく。冷たい金属の感触が肌をなぞるたび、意識しまいとしても身体の芯がぴくりと反応してしまう。
(やはり、この人の観察の手順、窓口で私が冒険者を見る時のやり方と、構造だけは驚くほど似ている)
○
採寸を終えたトウヤが作業台に向かう背中を、私はカーテンの隙間からぼんやりと眺めていた。
選ばれていたのは、ノラさんやオルガさんといった攻撃職に用いたという派手な素材でも、あの採掘師に仕立てたという頑丈な革でもなく、驚くほど薄く、ほとんど気配を感じさせない魔繊維のメッシュだった。
(まさか)
おそらく「外見を変えられない」という、こちらがまだ口にしてもいない事情を、彼はすでに織り込んで設計しているのだ。人に見られることを前提とした窓口業務という特殊な事情を、ただ一度の相談だけで正確に汲み取っていたという事実に、技術そのものより先に、その洞察力に静かな驚きを覚える。
程なくして手渡されたそれは、ほとんど下着と見紛うほど地味な、しかし丁寧な仕立てのベルトだった。
「制服自体を変える必要はありません。このインナーベルトを、サッシュの下に着用してください。外見は今までと変わりません」
「……外見が変わらない、というのは重要ですね。制服の規定もありますし、何より、急に見た目が変われば、冒険者たちに要らぬ詮索をされます」
「承知しています。……着けてみてください」
促されるまま身に着け、いつも通りの位置でサッシュを締め直す。腰にぴたりと吸い付くような感触が、そのまま骨盤全体を包み込んでいく。
深く息を吸い込んだ瞬間――驚いた表情を隠せなかった。
「……嘘。腰の重さが、消えている……。それに、呼吸が、こんなに深く……」
「サッシュの締め付けはそのままに、圧力を骨盤の広い面で受け止める構造にしました。……見た目は変わりませんが、中身は別物です」
自分の腰にそっと手を当てる。
「……これなら、誰にも気づかれずに済みます」
「それが目的でしょう」
(痛み、だなんて、いつからか思わなくなっていた。「これが普通」だと、自分に言い聞かせて。……今、こうして消えて初めて、自分がどれだけのものを当たり前だと思い込んで抱えていたのか、分かる)
小さく、確かに微笑む。
「……ええ。助かりました」
「対価については、後日ギルド経由での請求で構いません。受付業務に支障が出ない範囲で」
「手回しがいいですね」
「無駄を嫌う性分なので」
○
数日後。
隣接する都市で臨時の合同討伐依頼が発令され、普段の倍近いパーティが同時に出入りする、記録的な繁忙日となった。
朝の時点で、今日が並の日でないことは分かっていた。半年前の自分なら、正午を過ぎた頃にはすでに腰に鈍い痛みを覚え、午後には表情を保つのがやっとだったはずだ。
だが、今日は違った。
冒険者が来るたびに半分立ち上がり、右にひねって受理印を取る。あの、いつもの動作を、数えきれないほど繰り返す。
(今日は、いつもの倍近い。……以前なら、正午の時点で、もう限界が見え始めていたはずだけれど)
だが、いくら繰り返しても、あの焼けるような痛みが来ない。
ふと、数日前に危うく書類を取り落としかけた、あの書庫の同じ棚に手を伸ばす瞬間が訪れる。屈んだ瞬間、身体が一瞬強張りかけたが、それは癖による反射に過ぎず、実際には何の痛みも伴わなかった。
(……なんともない。拍子抜けするくらい、あっさりと)
拍子抜けするほどあっさりと、書類の束を取り出し、何事もなかったかのように業務へ戻る。
夕方が近づいても、いつもの気だるさが訪れない。その変化に、隣で書類を捌いていた上司が気づいたのは、閉店間際のことだった。
「マイラ、今日はやけに捌くのが早いな。もうこの時間で、全部片付いたのか?」
「ええ、問題ありません」
「……体調でも良くなったか? いつもの、夕方の気だるそうな感じがまるでないが」
「気のせいでは」
そう答えながら、内心では違う。
(気のせいなんかじゃない。……こんなに違うものだったなんて、知らなかった)
次々と訪れる冒険者への対応も、いつも以上に丁寧かつ迅速にこなしていく。窓口の列が、これまでにない速さで捌けていった。
○
数週間後。
経過報告のために店を訪れた私は、この機会に、来店のきっかけとなったあの疑問の答え合わせも済ませておきたかった。
「先日はお世話になりました。ご報告に伺いました」
「経過は良好ですか」
「ええ。繁忙期の書類も、以前より遥かに早く、正確に処理できています。上司からは”最近調子がいいらしいな”と声をかけられましたが」
「なんと答えたんです」
「気のせいです、と」
トウヤは特に驚いた様子もなく、小さく頷いた。
「……やはりオルガさんという盾役の方と、駆け出しの弓使いの方。お二人とも、成績の急激な改善は、こちらでのフィッティングが理由でしたね。身をもって知ることができました」
「それは良かったですね」
「……ええ。数字の裏にあった理由が繋がって、ようやく胸のつかえが取れました」
データの裏にあった真実が繋がる感覚に、職業的な満足感を覚える。そう淡々と告げたつもりだった。
「それは何よりです。……ちなみに、サッシュの締め付けに変化はありませんか? 念のため、再採寸を推奨しますが」
一瞬、言葉に詰まった。
声のトーンは変えないよう努める。だが、手元の書類を意味もなくめくる指先までは、制御しきれなかったらしい。
「……いえ、それは、また日を改めて」
「予定が埋まっているんですか」
「……そう、いうことにしておいてください」
普段の平静な態度を辛うじて保ったまま、しかしいつもより心なしか早足で、私は会計を済ませて店を出た。
その背中を、トウヤは特に気にする様子もなく見送り、静かに作業へと戻っていった。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 読ませてもらいました。 マイラさんがずっと隠してた“痛み”を、トウヤさんに一瞬で見抜かれるところ……すごくドキドキしました。プロの観察眼同士が静かに交差する感じ、めっちゃ好きです。そして、あのインナーベルトで日常が変わるラスト、“気のせいです”って笑うマイラさんの表情が浮かんで、じんわり来ました。 次も読みたいです🌙