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「レナ……アァ!!」
影は私の姿を認めると、自分を囲む檻にかぶりついた。思わず体を縮こませた私は、あることに気づく。お香が消えている。部屋に染みついた匂いは消えていないものの、さっきまでむせ返る煙は薄らいでいた。……そのせいで目が覚めたのだろうか。
「アアッ!!」
「!」
もう一度、がしゃんと檻が揺れる。
「…………」
……大丈夫、檻があるもの。襲ってはこない。こんな所でもたもたしていられないわ。お母さんを見失っちゃう!刺激せずに、速く静かに通り過ぎてしまおう。
目を合わせずに檻をかわすと、階段へ向かった。その時だ。背後でガゴォンと重い響きが起きた。
「!?」
反射的に振り向くと、私の目の前で持ち上がっている。そんな、どうして!!けど、そんなこと考えている暇はなかった。
「アアァア!!」
歓喜の声と共に、鬼が解き放たれる。下に続く階段へ飛び出した。
私は回廊の北西に飛び込む。牢獄道へ続くドアと、開いたままの落とし戸が見えた。
「ウアアァゥ!!」
迷って足が止まった私の背後で、ドアが蹴り破られる。迷ってる暇なんかない。よし、渡り廊下へ逃げよう!そう決めて駆け出そうとした瞬間、”影”の長い手が私の足首に伸びた。
「!」
ぐいっと足首を引かれ、転ぶ。思いっきり顎を床に打ち付け、涙が滲んだ。痛……。
床に倒れた私の頭上を、ひゅっと黒い影が横切る。お化けが私を飛び越え、落とし戸の前に置かれている樽に飛び乗ったのだ。昨夜落とし戸を開ける時に、使った樽だ。樽に乗って私よりも目線が高くなったお化けは、なんだか得意げに首を揺らした。
「うあ、ぁあ」
だめ、今は渡り廊下に行けない!身を翻して牢獄道へ道を変更した。
「レナァッ!!」
背後で樽を蹴飛ばし、飛び降りた音がする。逃げなきゃ!
私は断罪の間に飛び込んだ。そうだ、この内扉を!急いで檻の中に入ると、ひしゃげて開いたままの内扉に飛びついた。
「う……ん……!!」
扉はちょうつがいが外れているため、歪んでいてうまく動かない。それでもなんとか閉めようと、急いで近くにあった手錠を巻きつけ扉を固定する。次の瞬間、お化けが部屋に飛び込んできた。
「ガアアッ!!」
閉められた内側に体当たりしてくる。絡ませた手錠が、がちゃがちゃと音を立てた。だ、大丈夫。ちゃんと閉めたもの、そう簡単には開いたりしないわ。ここにいれば安全……。
後退りながら、はっとあることを思い至る。そうだ、ここは回廊……向こう側からも回ってこられる。急いであっちも閉めなきゃ!
扉を開けて廊下を渡った。落とし戸の開閉レバーを押し上げると、軽い地響きと共に戸が落ちる。私は思わず床にへばりこんだ。回路は切断される。これで……とりあえず安心……。今のうちに東塔に避難して、それから……。
突然、叫び声が響き渡った。ぎくっとして辺りを見回す。違う、すぐ近くじゃない……。ちょっとだけ離れたところ……東の方から聞こえた?男性の声だったような、女性の声だったような気もする。方向からして、”影”の声ではないことは確かだ。まさか、お母さんじゃあ!私は立ち上がった。落とし戸は危ないから、しばらく開けない方がいい。それよりもさっきの悲鳴が気になる。東塔へ行ってみなくちゃ!
断罪の間の柵の中にあるハシゴを下り、奈落の間。水の流れを辿って上を見上げる。水は天井の壁際に開けられた隙間から、流れ落ちてきていた。声が聞こえてきたのは……この上あたりかしら?
大きな穴に入って聖地の東側だ。辺りを見渡してみる。誰の姿もない。悲鳴が上がったのはここじゃないみたい。それなら塔の上の階かしら?
一階の泉の間へ続くドアを開けようとして、一瞬手を止めた。物音。人の気配。ドアの向こうに誰かいる!?もしかしてお母さんじゃ!!そう思った瞬間、部屋の中へ飛び込む。
「おかあさ……!」
呼びかけた声は、途中で凍りついた。目の前にあったのは泥と血に塗れた体。ボロボロの服から露出している肌は真っ青だ。その体越しに、銃を構えたフレディの姿が見える。私は彼が撃とうとした冥使の後ろで、ドアを開けてしまったのだ。
「どッ……!」
フレディが色を失ったのと同時に放たれた弾丸は、だれを傷つける事なく私の頭上十センチを通ってドアの上に叩き込まれる。私に当たらないよう、咄嗟に銃口を逸らしたんだ。その一瞬が隙を作る。
赤い舌がしなって飛び、彼の手から銃を弾き落とした。舌打ちをして飛び退くと、腰のベルトから細い木の杭を引き抜く。狂った蛇の舌の一瞬のスキを捉えて、その舌に突き立てた。ギャアッと短い悲鳴が上がる。木の杭が一瞬にして黒い炭に変わった。その機を逃さず、流れる動きで冥使の鳩尾に蹴りが入る。響く咆哮。それでも伸びてくる舌を右手で掴みながら、叫んだ。
「姉ちゃん、銃を!」
呆然と立ちすくんでいた私は、はっと我に返る。銃!?銃!どこ!?焦って見渡すと、水場のすぐ近くに銀の銃が落ちていた。あった!駆け寄ってそれを拾う。
「フレディ!」
渡そうと振り返るが、めちゃくちゃにうねる舌と格闘しているフレディに近寄る隙がない。どうしよう、近づけない!
「くそ!」
素早く視線を私に投げた。
「姉ちゃん!」
「!はい!」
「姉ちゃんが撃って!今俺がこいつの動き、止めるから!」
「で、でも、私、銃なんて!!」
「当たればいい!引き金を引くだけだ!反動があるから、ちゃんと持って!……いくよ!」
そう叫ぶと、左腕を自分から冥使の舌へ押し付ける。ブスっと尖った舌の先端が腕に潜り込んだ。獲物は捕えられたせいか、舌の動きが鈍くなる。その隙を捉えて、フレディはもう一度鳩尾に蹴りを入れた。がくんと冥使が膝をつく。
「撃って!」
震える手で銃を構えた。情けないほど、銃が揺れる。どうしよう、銃なんて撃ったこと!
「早く!!どこでもいい!!」
震える銃口を冥使の胸に向けた。そして血で濡れた服のわずかに残るオレンジ色のロゴめがけて……オレンジのロゴ?心臓を針で撃ち抜かれた気がした。まさか。まさか!
「マシュー……?マシューなの……!?」
私より少し高い背丈。ちょっと癖のある赤毛。サイズの合ってないトレーナー。全てがマシューを示している。
「嘘でしょう……マシューまで!!」
「姉ちゃんッ!!」
フレディの悲鳴の声。ブシュッと舌の尖端が、腕から抜けた。
「ガアアッ!!」
同時にマシューがフレディの顎を掴む。そのまま引き下がると、小さな彼は易々と宙に浮いてしまう。間髪入れず、彼はフレディを壁に叩きつけた。どさりと彼の体が床に崩れる。ぐるりと冥使がーーマシューがこちらを向いた。
「ア、アァ……」
「!」
理性を失った赤い目が私に照準を合わせる。体の重心を左右で揺らす足取りで、近づいてくる。構えたままの銃がブルブル震えた。撃たなきゃ!あれはもう……マシューじゃないの。
「ウァ……」
マシューじゃ……。
ーーレナ。
耳に明るい声が甦る。照れ屋で優しいマシューの声。おどけてたくさん私に笑顔をくれた……。
「撃……てない……」
歪む視界の向こうで、冥使が吠える。