雨が降っている。
水溜まりも気にせず、傘もささずに若井は走っていた。周りの人が驚いて振り向くのが分かる。しかしそんなこと気にしている場合ではない。
荒い息を整え、マンションのオートロックの前で立ち止まった。手に持ったスマホの画面には、既読にならないメッセージ。
(LINE見てねぇな。またか、)
嫌な予感が腹の底を這い上がってくる。自分が家を出てから帰ってくるまで連絡が取れない。これが何を意味するか、若井は嫌というほど知っていた。
「はぁ……」
大きくため息をつき、インターホンを押す代わりに、ポケットから鍵を取り出す。
ガチャリと音を立てて急いでドアを開け、「元貴!!」と叫んだ。
(聞こえないってわかってんのになにやってんだ、俺)
部屋の中は静まり返っている。いつも通り、元貴の返事はない。靴を脱ぎ、リュックを放り投げる。風呂場、寝室と見て回るが、元貴の姿はない。
(どこだ……?)
最後にキッチンに足を踏み入れた瞬間、若井の心臓がドクンと跳ね上がった。
リビングに隣接したベランダのドアが、少し開いている。そして、そのベランダの手すりの、外側に元貴が腰をかけているのが見えた。
ドアの隙間から風が入ってきてカーテンがなびく。
(やっぱり…!)
考えるよりも早く体が動く。
「元貴!!」
若井は、聞こえないと分かっていながら、思わず声を上げて叫んだ。元貴の背中に向かって、一気に飛びかかる。手すりの端に座る元貴の腰に手を巻き付け、渾身の力で一気に内側へ引きずる。
ドスン、という鈍い音と共に、若井は元貴の下敷きになった。若井の足の間に元貴が座り込むような格好だ。
「ぃ…っ…!」
突然の衝撃に、元貴は痛みに耐える顔で後ろを振り返る。その目には、涙が浮かんでいた。
若井は、ハァハァと荒い息を吐きながら、元貴の顔を見上げた。
「元貴、言ったよな。早く帰ってくるから、待ってろって」
若井は、手話で元貴に話しかける。その手つきは怒りが滲んでいた。
元貴は、ゆっくりと目を伏せる。若井の問いかけに、手話はもちろん、視線すら返さない。
「聞いてんのか」
元貴の体を揺さぶる。すると、元貴はバッと立ち上がり、もう一度、ベランダの手すりに手をかけた。
「おい、ちょ、待て!!」
今度は手話をする余裕もなく、元貴の腰を後ろから抱きしめて動きを止めさせる。しかし元貴は若井の制止を邪魔そうに、体をよじって振り払おうとしている。
「なんか言えって!!」
若井は、手話もせずに怒鳴る。聞こえないことは知っている。それでも、元貴が手話も、何もしてくれないと、何を考えているのか、なぜいつも死にたがるのか、若井には全く分からないからだ。
それでも元貴は何も言わず、若井から逃れようと、あの手すりの向こうに行こうと抵抗し続ける。
「元貴!!!」
ついに若井は、元貴の胸ぐらを掴み、そのまま床に押し倒すようにして馬乗りになった。
「っ…ぅああ、ぁああああぁっ!」
馬乗りになって抑えつけられた元貴は、声にならない悲鳴のようなものを上げて抵抗する。ろう者である元貴の「叫び」は、発音に慣れていないためか、常人の叫びとは全く違う、喉から絞り出すような、痛ましい音だった。
そして、その抵抗がついに力尽き、元貴は馬乗りの若井の下で泣き出した。
ふーっと、若井は大きく息を吐き、緊張を解いた。馬乗りになるのをやめて、元貴の横に座り込み、元貴を起こそうとするが、元貴は寝そべったまま、顔を若井とは反対側に向けて泣き続けている。
(またこれだよ……)
何回も繰り返されてきたこの状況に、若井はもはや慣れてしまっていた。その慣れが、若井の心をひどく疲弊させる。
「元貴、起きよう」
若井は、疲れた様子で声をかけ、肩を叩く。
しかし元貴は、顔を若井とは反対側に向きっぱなしで、手話を全くしない。手話は二人の唯一のコミュニケーションツールだ。それを拒否されると、若井には元貴の考えていることが本当に何も分からなくなる。まあ手話をしていても考えていることが分からないなんてザラだが。
その時、雨が強くなった。ベランダに入ってくる雨粒も先ほどより強くなる。このまま寝そべっていては、体が冷えて風邪を引いてしまう。
「元貴、中、入ろ」
若井が立ち上がってドアの前に座り、元貴の顔の前で手話をする。
すると、ようやく体を起こして、ふらふらと部屋の中へと入っていった。
そのまま自分の部屋にいこうとするのを、腕を叩いて呼び止める。
「待って、髪拭くから」
ベランダにいたため、雨に濡れてしまっている。そのままでは風邪を引く。
元貴は相変わらず若井と目を合わせようとはしないが、手話は見てくれるようになった。元貴は少し嫌そうな表情を浮かべながら、リビングの絨毯の上に座った。
タオルを持ってリビングに戻ると、元貴は膝を抱えるようにして座っていた。いわゆる体操座りだ。顔は膝に埋められていて、表情は全く見えない。
(後ろから触んの嫌がるんだよな)
元貴は背後から触れられるのを嫌がる。だから、腕を叩き、顔の前でタオルを振って、今から拭くというサインをした。しかし、元貴はすぐに目をそらし、再び顔を伏せてしまう。
(はぁ……)
若井はため息を飲み込み、諦めて元貴の後ろに回った。そして、わしゃわしゃと元貴の濡れた髪を拭き始める。元貴は相変わらず抵抗せず、されるがままになっている。
だいたい髪が乾いたところで、若井はついでに自分の髪も軽く拭いた。タオルを適当な場所に置いたあと、元貴に目をやるが、やはり腕の中に顔を埋めているので、表情は読み取れない。
ただ、飛び降りようとしていた時のような切羽詰まった様子は消え、とりあえず状況は落ち着いた、と若井は判断した。
ふっと部屋全体を見渡す。
おそらく畳まもうとしたのであろう、放置された服。置きっぱなしの本や書類。投げられて廊下に放り出されたぬいぐるみ。そして、冷蔵庫のドアが少し開いたままで、ピカピカと光で異常を知らせている。
(今日は出かけるべきじゃなかったな、)
若井は自分の行動を悔やんだ。
ふと気づくと、元貴がゆっくりと立ち上がり、自分の部屋に向かおうとしていた。
(この様子だと、どうせ何も食べてねぇだろ)
若井はそう確信し、元貴の肩を軽く叩いて引き止める。
「元貴、ご飯食べ…てないよな」
若井は手話で聞いたが、おそらく朝食から何も食べてないだろう。いや朝食すら食べたか怪しい。
元貴は暗い表情で、黙ったままだ。
「なんか、食べよう。俺、作るから」
若井が言うと、元貴は首を振って拒否する。
「…腹減ってない」
俯いたまま、投げやりで早い手話。
「ようやく話したな……」と思うのも束の間、若井の目の前を去ろうとする。
若井は反射的に元貴の腕を掴んだ。元貴はあからさまに嫌そうな顔をして、掴まれた腕を引く。
「寝るの?」
若井が手話で問うと、元貴は小さく頷いた。
「一緒に、部屋行く」
若井はきっぱりと伝えた。
「なんで」
「ODするだろ」
「……しない」
俯いて腕をかく仕草をする。元貴が不安な時にする仕草だ。
「前してたじゃん」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
二人の会話は、短い手話でぶつかり合う。若井にはこのまま素直に言うことを聞いたら、絶対ろくなことにならないという確信があった。
それに、「大丈夫」と言いながら、若井がリビングに戻ったら、きっと元貴は不安になって一人で泣くのだ。こんな不安定な状態で、一人にはしていけない。
「俺も、一緒に寝る」
「やだ」
「いいの、早く、行こう」
若井は無理やり会話を打ち切り、元貴の手を強く引っ張って、寝室へと向かった。抵抗する元貴の力は弱く、すぐに引きずられるようにしてついてきた。
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