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北条氏政の正室、梅——後に黄梅院と呼ばれる女。
彼女はもはや武田の娘ではなかった。
実家へ文を送ることもなく、ただ北条の人間として、夫を、そして領民を慈しみ続けていた。
その姿は、義父・氏康にも、夫・氏政にも、静かに認められていた。
——だが。
「武田義信、自害」
その報は、まるで凶兆の風のように小田原へ届いた。
続けざまに囁かれる。
「いよいよ今川へ……武田が動く」
広間の空気が凍りつく。
そのとき、ひとりの女が静かに進み出た。
白装束。
「……お父上様、氏政様」
深く頭を垂れたまま、梅は言った。
「申し訳ございません」
顔を上げたその瞳に、涙はなかった。
「どうか、この梅を……成敗くださいませ」
懐から取り出した小刀を、両手で差し出す。
「そして、この首は……梅の恨み言とともに、父へお送りくださいませ」
氏康は、梅の手から小刀を奪い取った。
「——ばかものが」
吐き捨てるように言い放ち、そのまま庭へと投げ捨てる。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
「そのようなことをして、あの信玄が止まると思うておるのか」
低く、しかし腹の底から響く声。
「あれはな……身内すら噛み殺す、虎じゃ」
広間に沈黙が落ちる。
梅は、ただ頭を垂れたまま動かない。
ややあって、氏康はふっと息を吐いた。
「それにな……」
声の調子が、わずかに変わる。
「手紙ひとつ寄越さず、北条のために尽くしておること……民を慈しんでおること、よう分かっておる」
その言葉に、梅の肩がかすかに震えた。
「軽々しく命を差し出すな。そなたの命は、もはやそなた一人のものではない」
氏政は一歩、梅のそばへ歩み寄った。
「父上の申される通りじゃ」
そっと、その肩に手を置く。
「何があろうと、離しはせぬ」
静かだが、揺るがぬ声だった。
「そなたは……わしの自慢の妻じゃ」
その一言に、初めて梅の瞳が揺れる。
氏政は続けた。
「板挟みにして、すまぬ」
わずかに言葉を詰まらせながらも、はっきりと言い切る。
「だが——」
その手に、力がこもる。
「わしが必ず守る。何があろうともな」