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ねこむすび
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伊藤がクリップボードを持ち直した。
「赤城さんね、最近あちこちの走行会でエボXを相手に勝ってて、『エボXキラー』って看板で名前を売ってるんだよ」
「え、なんかワック」
横で聞いていた陽斗が反射的に言った。
「エボXの車体価格を落としている慈善事業してるんだからワックじゃない。相場聞いただろ?」
大輝は即座に返す。
「てか、弱いモンいじめして誰が喜ぶの?」
「4G63大好きおじさんとかじゃね。知らんけど」
伊藤が陽斗の方を見た。
「結構こういう古い車で新型車を倒すってロマンがあるからじゃないかな。AE86でRX-7を倒すとか32のGT-Rとかをね。高速道路をS30のZで300キロ出すとか」
「伊藤さん、それ全部漫画の話じゃないですか」
「ロマンってそういうもんだよ」
「え、てかエボXだって一番新しくて10年落ちだろ? ぶっちゃけ五十歩百歩──」
大輝は口元に人差し指を立てた。
「言うな。2006年過ぎた車は新型みたいな空気になってんだから」
伊藤が苦笑いを浮かべた。
「そうだね。うちの常連さん、CT9Aとか平気で20年乗ってる人いるから」
「あの人らからしたら、俺のなんて、まだ慣らし中っすよ」
「あ、庄司くんにはまだ話してなかったんだけど、CT9Aの菊地さん、GRヤリスに決めたらしいよ」
「え、マジっすか」
「うん。今箱替えするにも相場高止まりだし製廃パーツ増えてきたからって。それに今この手の車盗まれるし、家に止めてたら外人に名刺置いてかれたり、中学生達に『譲ってください』ってせがまれたり、勝手に写真撮られてネットに晒されたりで、ホント参っちゃうってぼやいてたから」
「世知辛え」
陽斗が呟くと、伊藤は小さく息を吐き、タブレット端末の画面を点けた。
「で、本題なんだけど。これちょっと見て貰っていい?」
伊藤は画面を指先でタップし、別のページを表示させてから大輝と陽斗の前へ差し出した。黒森ステージの公式サイトのお知らせ欄に、新着の告知文が掲載されていた。
『一部SNS上で、本イベントにおける追走走行の実施について言及がなされておりますが、現時点でそのような予定はございません』
『本施設における先行後追い走行は、レギュレーション第17条および第18条の要件を満たし、かつオフィシャルの承認を得た場合にのみ実施されるものです』
『イベント当日は、ゲストによるデモンストレーション走行のみを予定しております』
『また、特定の参加者を名指しした投稿および憶測に基づく書き込みについて、当施設は一切関知しておりません。ご来場のみなさまにおかれましては、周辺住民の方々へのご配慮とあわせ、節度ある行動をお願いいたします』
大輝は画面の文章を最後まで読んだ。
「一切関知しておりません、って」
陽斗が文末を指でなぞった。
「めっちゃ関知してるやつじゃないっすか」
「そういうこと言わないの」
伊藤が画面を指で伏せるようにして降ろした。
「午後一番でこのアナウンスを出したんだけどね。SNS上でのやり取りは止まっていないんだ」
「これ以上なんか書くと余計燃えません?」
大輝は伊藤に尋ねる。
「そうなんだよ。ウチがこれ以上書くと、個人同士の言い合いに施設が混ざる形になっちゃうからね」
伊藤はクリップボードの角で肩を軽く叩いた。
「Drift Societyさんとも赤城さんの事務所とも話はしてる。当初の予定通りデモランで、って方向で調整はしてるんだけどね」
「代わりのプロとか呼べないんすか」
陽斗が口を挟んだ。
「それも考えたんだけどね。今から当たるとなると、どこも直前すぎて無理だよ。この時期あの辺の人たちみんな本業あるからさ」
伊藤が首を横に振る。
「それに、こっちが急に別の対戦カード用意したって見られたら、今度はそっちで燃えるだろ」
「あー」
陽斗が口を閉じた。
「じゃあ黒森走ってる人に声掛けるのも無理っすよね」
大輝が言うと、伊藤が頷いた。
「そうなんだよ。ウチから利用者さんに『代わりに走ってくれ』なんて言える立場じゃないんだ。あくまでも、承認する側だからね」
「うちの親父が生きてたら、こういう企画ノリノリで受けるんすけどね。阿部さんだとクラス違うし無理か」
大輝は自分の鼻翼を摩りながら言った。
「マジでどうしようもなくなったらウチの母ちゃんに連絡ください。俺が今二つ返事で受けたら受けたでめんどくさいんで」
「え、お前やる気?」
陽斗が驚いたように大輝の顔を覗き込んだ。
「青いエボXだって親父の車だぜ? 庄司健一の車だってバレたらそのガキが親父の車走らせてイキってるってバレるもんでしょ。『筋通せ』って母ちゃんうるさいんだよ」
「お前の母ちゃんイケイケだしノリで引き受けそうだけど」
「今回は親父の車でイキるからって半々かな。最悪のケースとして俺が母ちゃんのアウトランダー転がして赤城さんを物理的に塞いで勝ちって事もあり得る」
「それこそ大炎上だろ。てか大輝の母ちゃんエクリプスクロスじゃなかったっけ?」
「うちの叔父さんに『5年も走らんもんだから』ってGNアウトランダーのブラックエディション勧められて乗り換えたんだよ」
伊藤がクリップボードから1枚の感熱紙を抜き取った。
「あ、これ一応タイム表」
「あざっす」
大輝は紙片を受け取った。
パドックの奥、連絡路の出口から減速した車両が1台入ってくるのが見えた。赤と黒のツートンのZC33Sスイフトスポーツだった。
スイフトスポーツが隣の枠へ収まる。ドアが開き、50代くらいの男が降りてきた。ヘルメットを小脇に抱え、首に掛けたタオルで額を拭っている。男は青いエボXへ目をやり、それから大輝の顔を見た。
「もしかして、掲示板のアレ?」
「お疲れです」
大輝と陽斗の声が重なった。
「それもですけど、ナンパの被害についてヒアリングしてたんです。阿部さん」
伊藤が答えると、阿部は眉を上げた。
「え、そんなクラゲまだいたの?」
「クラゲってなんですか?」
大輝が阿部に尋ねると、伊藤が目を丸くした。
「あ、クラゲで通じない世代か」
「クラゲって今どきの言葉で言うと、走りもしねえであちこちの山とか埠頭顔出して女のケツ追いかけたり、下手くその癖にいいパーツだけつけてるようなヤツの事かな」
阿部が首のタオルを外しながら言った。
「なんで海の生き物なんすか?」
阿部は伊藤へ視線を向けた。
「なんでだっけ?」
「イカ天の審査基準なんですけど、たぶんイカ天と聞いてもわかんないと思いますよ」
「俺らだとポーザーって感じの言葉になるんすかね」
陽斗が言うと、阿部が頷いた。
「たぶんそんな感じ」
「てか、あの頃ってどんな感じだったんですか? 俺阿部さんから聞いた事ないんすよね」
「あの頃か。俺金なかったから92レビン乗ってたんだけど、適当に泉ヶ岳とか七ヶ宿ダムまで流して、似たような感じのEK9とかDC2バンバン煽ってたね。こっちは解体屋でトイチのエンジン載せてクロス組んで、そんでもアイツらデフ効いてるから速い速い」
大輝は陽斗へ視線を向けた。
「だってよ」
「サーフで出来る訳ねえだろ。拓海くんだってやらんわ」
「で、AE92を後輩にタバコ1カートンで譲って。その後輩が伊藤ちゃんて訳」
「へえ。伊藤さんも走ってたんですか?」
大輝は伊藤に視線を向ける。
「そだね。大学の頃にね。そのAE92を速攻で廃車にして──」
「え、何してくれてんすか」
大輝が伊藤に声をあげると、阿部が笑い出した。
「そうそう。泉ヶ岳でな!」
「コーナーで刺さって転んで散々でしたね。それから車部でドリフト流行ってたから14前期買って」
「あれ、伊藤ちゃんQ’sだっけ?」
「ですです。あの頃前期のK’sも高くて買えなくて」
「あの頃でも高かったんだ」
「ですね。14前期も名古屋仕様とか流行り出していきなり高くなっちゃって」
「名古屋仕様ってなんですか」
大輝は伊藤に尋ねる。
「あー。14前期にリアだけ後期テールにしたり、ヘッドライトの殻を割ってイカリングつけたりしてんだよ。今だとドリドレの走りみたいなもんかな」
「懐かしい。あったなそんなの」
「今もその14前期乗ってるんですか? 俺伊藤さんてガンメタのZN8乗ってるイメージしかないんすけど」
大輝が伊藤に尋ねると、伊藤は手を横に振った。
「ないない。シルビアからアリストに乗り換えて、アリストもガソリン代バカになんないし結婚したし落ち着きたいからってヴォクシーにして。余裕出来たからってZN8に今乗ってる」
「なんかそんな感じだよな、俺らの世代とかさ伊藤ちゃんの世代って」
阿部が伊藤へ視線を向ける。
「あー。でも腰痛持ちになるとスポ車しんどくなりますね。乗り降りホントツラいし、左足の半月板やってからクラッチもツラくて」
「ズルズル同じの、乗ってるヤツいねえの?」
「いますよ、中には。でも集まっても走ってる話じゃなくて、誰がいくら掛けただの、ショップに金だけ落として夜逃げされただの、若いのが来たら頼まれてもないのに昔の武勇伝だの。そういう話しかないから俺も距離置いてます」
阿部がタオルを首に掛け直して、鼻で笑った。
「どいつもこいつも90年代に囚われてんだよな。今2026年だぜ? マジでアップデートしてほしいわ」
「それ、阿部さんもでしょ」
伊藤が軽く返すと、阿部は喉の奥で笑い、ヘルメットを脇に抱え直した。
「んじゃ、ナンパするっちゅうクラゲについて色々聞きに行かねえとな」
そう言って、阿部は管理棟の方へ歩き出した。伊藤も肩をすくめ、その後ろについていく。
「お疲れさまです」
大輝と陽斗は頭を下げた。
二人の背中が白線の向こうへ遠ざかったところで、陽斗が大輝の方へ顔を寄せた。
「あの阿部さんて有名なの?」
「たぶん俺の親父と同い年か上な気がする。てか、阿部さんてR町のラリーイベントやったりトヨタ呼んでラリーチャレンジやらせたすごい人。議員さんだぜ、確か」
大輝は手元の紙へ目を落とした。3分42秒026。
「こんなもんよな」
助手席に置いていたハイブリッド式FHRを背負い、胸と腹のストラップを締める。白いバラクラバを被り、その上からStiloのオープンフェイスヘルメットを被って顎紐を締めた。左右のテザーをアンカーへ差し込む。
「もう1本走るのか?」
大輝は被ったバラクラバの目元を指で広げた。
「んー。チルでやるわ」
大輝は開いていた運転席のドアを抜け、青いエボXのフルバケットシートへ身体を滑り込ませた。
コメント
1件
いやもう、阿部さんの「90年代に囚われてる」発言と伊藤さんの「それ、阿部さんもでしょ」の掛け合いがエグすぎて笑った😂💕 昔の武勇伝を語る側とそれを聞く側の温度差とか、車好きのリアルな縮図が詰まっててめっちゃ沁みました。そして最後の「チルでやるわ」って決めて再びコースへ向かう大輝くん、エモすぎる〜!!🕊️🔥 更新待ってました、次回も楽しみにしてます!