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老いて一段と荒々しい海を前にしてユカリは妙に緊張していた。海自体は初めてではないし、船に乗ったのも数えきれない。しかし航海は初めてだ。あの世の果てまで続いていそうな広い海にぽつんと浮かぶ船に乗っている自分を想像すると、いつもの高揚感だけではなく、後ろ髪を引かれるような不安を感じた。心臓の鼓動は聞こえないが、僅かに汗がにじんでいる。しかしユカリは、だからこそ不安から目を背け、胸を張って嗄れた波音の海に臨む。それは、ただ、相応しくない、と思ったからだ。
偉大なりしグリシアン大陸の北に広がる称えぬ者のいない海は、華やかな砂原と称えられるサンヴィアの北東を領するトンド王国の岬を境に、その名を変える。すなわち岬より東にあって朝日を浴する栄誉を賜った北バイナ海、西にあって黄昏と接する喜びを知る北海、あるいは北グリシアン海。
ただし北海の岸辺に住まう海の恐ろしさを知る者たちは、幾多の冒険家の勇ましき船を呑み込み、数多の怪物をその胎の内に抱える大海に、古の頃より父祖の戒めに倣い、畏怖と尊崇を込めてこう呼ぶ。帰らぬ者の海、と。
グリシアン大陸を取り囲む千態万様の海の中でもとりわけ荒々しく牙をむく古海フォーリオンは、春の訪れやその遣わす温かで長閑な空気になど構うことなく、鞭打つが如き厳しい潮風を町々に吹きかけている。波濤の軍勢は絶え間なく堅い大地に挑み、長い年月を経て海岸線は歪む。まるで陸に営む者たちは領域を蝕む仇敵だと憎んでいるかのように、穏やかな表情を見せることはない。
フォーリオン海沿岸の数ある港町の中でも、サンヴィア地方の最西端、シグニカ地方との境に連なる山脈トルム・コルールの足元にある昼の短いの町の港にユカリたちは佇んでいた。
菖蒲色の外套をまとう背の高い娘ユカリは巨大な帆船の辺りを払う威容を見上げ、心の内に収まらない感動をため息とともに吐き出している。今まさに冒険に出ようという英雄に相応しい立派な船だと思っていた。ユカリの喜びとは裏腹に、それらは特段珍しくもない貿易船がほとんどだったが。
その隣、淡い魔法の香り立つ翡翠の衣を着た赤髪の少女ベルニージュは波止場で働くたくましい男たちから逃れるように町の方に目を背けながら、焼き立ての麺麭に酢漬けの野菜と焼き鯖を挟んだ軽食を食べ、時折魔法に関連する何事かを呟いている。ベルニージュにとって海や船など特に珍しいものでもなかったが、ところかわれば魔法も変わる、ということをよく知っている。軒下に潜んでいる見たことのない妖精や、駆けてゆく子供たちがみんな身につけているおまじないを目で追っていた。
ユカリを挟んで逆隣、黒衣の焚書官に変身しているレモニカは独りぼっちを恐れる子供のようにユカリの腕にすがりついている。その姿は特徴に欠けた以前までと違い、ユカリの母だという焚書官ルキーナの姿そっくりになっていた。とはいえ、あいかわらず焚書官の倣いに従い、鉄仮面を着けていて、その表情は判別しがたい。真珠商と取引したアクトートの港町以来の海で少しばかり楽しみだったが、ほとんど船に覆われた景色に飽きている。
天の頂を過ぎてなお太陽は冬の残り香を払うべく、鋭い日差しを海と陸に投げ掛けている。人を家に籠らせてくれる敬愛すべき《寒さ》と《冷たさ》を北の領地に追いやられても、土地に縫い付けられた営みを手放すことのできない魔性の類は人の家の屋根裏へと引っ込んで太陽を呪う儀式を始めていたが、ベルニージュの静かでしつこい魔法がやってきて、ただ一睨みされると大人しくなった。
先に軽食を食べ終えていたユカリは、紫燕の襟止めできちんと前を閉じた外套の袖を抱き寄せ、背中を丸め、控えめな陽光を押しのけてもたらされる海風の、季節の変化に気づいていないかのような寒さに震える。
「春になったのに」ユカリは舌をもつれさせながら呟く。「冬よりも、いっそう寒くなってる気がする。気のせい?」
レモニカがさらに強く、手放すことを恐れているかのようにユカリの腕につかまって言う。「お労しや、ユカリさま。どうぞわたくしの腕を取って温まってくださいまし」
ユカリは実の母だという女の姿形から照れ臭そうに目をそらし、「それならユビスに抱きついた方が温いかも」と呟くが、レモニカの不平と共にその手の力が強くなるばかりだった。
波飛沫で濡れた石畳が陽光を浴びて煌びやかな港を行き交うのは、長い年月を海と戦って潮に灼けた喉で唸るように語らう屈強な船乗りばかりではない。夜闇に現れる悪鬼から身を守るための無骨な鎖帷子を身につけたトーキ大陸の商人、己の手で狩った白熊の牙で作った武器を携えるトバール族、そしてシグニカで古くから見られる重ね毛皮の外套を着こんでいるのはシグニカに総本山を抱える救済機構の僧侶だろう。ただ見知らぬ人々を眺めているだけでもユカリの心は浮足立ち、今にも飛び立とうという空想の羽ばたきに揺れる。
特にユカリの心を強く引き付けるのは、ここから北西の海を越えた先にあるという人類未踏の神秘の土地だ。名だたる冒険家の憧れであり、人生の最後に挑む障害、つまり多くの勇気ある人々の墓場だ。ユカリは幼い頃から何度となく空想に乗ってその地を冒険したものだった。
ベルニージュは麺麭から口を離し、意味深な、からかうような笑みを浮かべて言う。「冬が去って春が来て寒くなる、なんて不思議なことがあるわけないでしょ」
ユカリにはその言葉に、その言い方に含まれた意味がつかみ取れず、かといって尋ねてもはぐらかされそうな雰囲気にもやもやする。
「魔法使いがそれを言う? そうは言っても寒いものは寒い。冬から春に移り変わって、前よりも厚着して、どうしてこんなにも寒いんだろう」
ベルニージュは失敗した仔犬に向けるような苦笑を浮かべ、ユカリの眠たげな紫の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「真面目な話、サンヴィアをずっと北上してきたんだから同じ季節でも気温は大きく違うよ」そう言うとベルニージュは屋台の前で麺麭の種類を選んでいた時のような楽し気な笑みを浮かべる。「そうだ。物は試しに冬を呼び戻してみる? ユカリが頼めば喜んで帰って来るかもよ」
「そんなわけないでしょ」ユカリはベルニージュの冗談に呆れて眉根を寄せる。
そして再びショーデンの港町の岸に寄り添う名だたる帆船の群れに目を向ける。フォーリオンの海原を越えてやって来る巨大帆船の藻屑や藤壺に塗れた船縁は水平線を覆い隠している。いくつもの帆柱が立ち並ぶさまは竜が飛び交っていた時代の空を支えたという最古の神殿の列柱のようだ。
奇妙なことに並び立つ帆柱の揺れがぴったり同期している。縦に揺れ、横に揺れ、ぐるりと円を描いて、まるで神楽舞う巫女のように息を合わせている。まだ気づいている者はユカリの他にいないが、このままではいずれ騒ぎになるだろう。船をからかうように悪戯する風にユカリは呼びかける。
「何をしてるの? グリュエー。迷惑かけちゃ駄目だよ」
「迷惑じゃないよ」と風は応える。「船はすごく喜んでる。ユカリには聞こえないの?」
「風を呪う声しか聞こえない」ユカリは子供に叱り疲れた母親のようにため息をつく。「このままじゃ乗れる船も乗れなくなるよ」
もう飽きてしまったのか風がぴたりと止むと船は各々の足元の波に身を任せ、揺り籠の如き平穏を享受した。微風がユカリの耳朶にそっと触れる。
「ねえ、いつまでそうしてるの?」とグリュエーが言ったので、
「ねえ、いつまでこうしてるの?」とユカリは言う。「今日のところは諦めて宿に戻らない? まだ昼だけど」
ベルニージュの麺麭を狙って黄色の頭羽を揺らす冠鴎を眺めながらレモニカは言う。「シグニカ行きの船はほとんどが貿易船、貨物船ですのよね? 人を乗せてはくれない、と」
ベルニージュが鉛のように重いため息をついて頷く。
「うん。シグニカ行きの船は沢山あるけどワタシたちを乗せる余裕はなし。わずかな貨客船も毛長馬を乗せる余裕はなし」そう言ってベルニージュは想像の向こうの何かを憐れむような目を浮かべる。その視線は目の前の海ではなく、ここに来る前に立ち寄った宿の馬丁に預けた毛むくじゃらの馬ユビスに向けられている。「仕方ない。ここらで手放すしかないか」とベルニージュはわざとらしく残念そうに言った。
「駄目ですわ!」と発してレモニカはさらにユカリの腕をさらに強く握る。「わたくしはユビスとともに行くと約束したのです」
「え? じゃあ、レモニカも?」ベルニージュはその演技じみた憐憫の眼差しをレモニカの方に向ける。
「そうですわね。ベルニージュさまだけ海路で向かわれたらよろしいのでは?」とレモニカもすかさずやり返す。「わたくしはユカリさまと一緒なら陸路でも構いませんもの」
ベルニージュは子供を脅すような声色で言う。「陸路は大変だよお? ユーグ・ラスまで戻って、荒れ果てた巡礼道をたどって、行き着く先はトルム・コルールの断崖絶壁!」
「断崖絶壁?」ユカリは首を傾げる。
巡礼者ユカリが荒れ果てた荒野を僅かな水を舐めながら、確かな希望を空っぽの胸に抱いて突き進んだ先にあったのは信仰を隔てる断崖絶壁だった。当然話には聞いており、巡礼者であれば必ずこの壁を乗り越える策を携えている。自分であればどうだろう、とユカリは合切袋の中を覗き込むのだ。空の水筒に、干乾びた糧食、すり切れた聖典に、色褪せた護符、底に空いた小さな穴。そして、そこにある、そこにあるべきものは笛だ。笛はかの者を呼び寄せる。強靭な翼を有するものを。一つ羽ばたけば断崖絶壁を越え、二つ羽ばたけば聖地へ至る。そして三つ羽ばたく頃には信仰から解き放たれているのだ。
「巡礼者はどうやってシグニカに入るのですか?」とレモニカは尋ねる。
竜だったらいいな、とユカリは心の中で呟く。
「さあね」とベルニージュは首を振る。「隧道でも掘ってあって内陸に至るのか、階段でも刻まれていて都のある高地にたどりつくのか。分からないけど、何にしてもそこは救済機構の総本山。間違いなく関所があるし、今頃封鎖されてるよ」
「海路なら大丈夫という根拠はございますの?」とレモニカは怪訝そうにベルニージュを盗み見て尋ねる。
「そんなのないね。陸路よりましってだけ」とベルニージュは答える。
レモニカはユカリの方を振り返る。「そもそも今シグニカに、救済機構の総本山に赴く必要があるのですか?」
「そんなのないよ。救済機構の所有する魔導書を後回しにする理由がないってだけ」とユカリは答える。
「あまりにも」と言ってレモニカは何かを呑み込む。「大胆ですわ」
ベルニージュは最後の麺麭の欠片を鴎の方に放り投げると、いつの世も吹き寄せた潮風を歓迎する港をあてどなく歩き始める。
「しかし、さて、そうなると。取れる手段は多くない」とベルニージュは言った。
「何か考えがあるの?」とユカリ。「もちろん、それでも手段は選んでね? 密航は無しだからね」
「絶対に?」とベルニージュは真剣な表情で問いかける。
「絶対、ではないけど」とユカリは困ったように答える。
厳めしい表情で立ち働く男たちの間を縫うように、三人の六本の足は楽団の太鼓の撥のように軽快に爽快に石畳を打つ。塩辛い空気に時折生臭さが加わり始める。
「実際、余裕がないことはないと思うね」とベルニージュは唇の端を釣りあげて断言する。「別に特等室に乗せろって言ったわけじゃないんだから」
レモニカは首を傾げた。「わたくしたち、船乗りの皆さまに騙されたということですか?」
「ううん。ただ単に、ワタシたちが拒まれたんじゃないかな」そう言ってベルニージュは旅の仲間たちを見渡す。
「なるほどね」と言ってユカリは深く頷く。「若い女が三人、うち一人は焚書官、話によれば毛長馬を連れている。いったいどういう集団なのか。あまり関わり合いになりたくないかも」
そうでなくても魔法使いが不吉がられることは珍しくない。その上、神秘の紗のこちら側の存在とはいえ、世にも珍しい毛長馬の体躯は人を委縮させるのに十分な大きさだ。
「ではわたくしが男に変身した方がよろしいですか?」レモニカは二人の顔を交互に見比べる。
ベルニージュは首を横に振る。「たぶん余計に怪しいね」
その声色は拒絶の意味を響かせていた。ベルニージュはまだまだ男が苦手で、レモニカが変身した姿でさえも心の内では平静でいられないらしい。しかし一方でいつの頃からかベルニージュは、少なくともレモニカの変身した姿に対してはあからさまな態度を見せなくなっていた。ユカリはその経緯を知らないが、良い経緯に違いないと信じている。
「とはいえ」と言ってベルニージュは付け加える。「問題はお金で解決できることかもしれない」
「問題は」とユカリは答える。「私たちにお金の余裕がないことだね」
ベルニージュもレモニカも深く深く頷く。ないわけではない。一か月分くらいの旅費がある。しかし船に乗るとなるとそう安くは済まない。
ユカリが過去を振り返りながら呟く。「それにしてもあんなに船賃が高いとはね。大河の時とこんなにも差があるなんて。外洋だからかな。でも払ってしまったらその先の旅ができない」
一行は春の野原の花々のようにささやかながら賑やかな区画へと迷い込む。そこは露天市だ。荒波に揉まれて身の引き締まった新鮮な魚や、海を越えて届いた遥かな土地の珍品が並んでいる。食器だか花瓶だか分からない陶器や、頭の奥をくすぐるような馨しくも刺激的な香辛料、ユカリにはどう使い分けるのか分からない種々の油。異国の気配は厳しい北国にあっても、なお彩り豊かに溢れて、人々の心を浮足立たせている。少なからぬ人々が、海風にも負けない威勢のいい呼び声の市を行き交っていた。その営みは古今東西変わらない。老若男女の出で立ちが少しばかり厚着だが、空想も及ばない遠い土地に想いを馳せる心に違いはない。
レモニカの身に巣食う呪いのこともあって、ユカリたちは人ごみを前にした時、少しばかり緊張し、覚悟を決める。しかし今回ばかりはその緊張も覚悟も無意味だった。恐れるべき災難は幼い少年の姿をして不意に飛び込んでくる。
湿った石畳に滑ったのか蹴躓いたのか、荒れる人ごみに押しのけられたのか視界を防がれたのか、少年は不用意に飛び出してレモニカの黒い僧衣に飛びついた。ユカリの腕から少し離れてしまい、途端にレモニカは灰色の毛並みのみすぼらしい犬の姿になって、すぐさま抱え上げたユカリの腕の中で焚書官の姿に戻る。
ほんの束の間のことだが、少年はこの世で最も恐ろしい生き物を目の当たりにして悲鳴を上げた。しかしそれは通りの向こうから到来した、より大きな騒ぎに掻き消され、辺りの目がユカリたちに注がれることはなかった。
「魔導書が出た!」という悲鳴とも警告ともつかない何者かの叫びと、それに応じる群衆のどよめきによって。
ユカリたちは誰からともなく、その騒ぎの方へ向かう。あるいは涙を流す犬嫌いの少年から逃げる。