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打ち据えられた釣り鐘の如く大きく揺れる広い船室に女子供老人が犇めいている。誰もが北風除けのおまじないの施された厚い毛皮の服を纏い、海獣の牙や角を加工した遮光器をかけている。暗い表情で身を寄せ合い、お互いを励まし合い、縮こまっていた。ただ一人紅珊瑚の肉体を持つ魔性の男だけが悠然と壁にもたれ、幾人かの女を侍らせて陽気に酒を喰らっている。
赤ん坊の泣き声の他には波の音が何度も打ち寄せ、遠くには角笛に太鼓の音が響いている。
「あたし、漁に出るなんて初めてだわ」と紅珊瑚の男に縋る女の一人が不安そうに呟く。
「馬鹿言ってんじゃあねえよ」と紅珊瑚の男が呵々と笑う。「この船は待機だ。奴にゃあ近づきやしねえよ」
「それなら郷で待ってちゃあ駄目なの? どうして郷の皆を連れて来たのよ」
「オレだって何度か負けてんだ。そうなったらどうなるか何度も言って聞かせてあるだろう? 郷ごとばくんだぜ。その時は他の氷原の民の土地に移り住まなきゃなんねえ」
女たちは身震いして互いに泣きそうな顔で見合わせる。
その時、船室全体に轟くような声が響き、人々が悲鳴をあげた。それは海の底から上ってくる不気味な水泡の弾けるような不快な声ながら、朝まだきの沖合で朗々と響く漁歌のようでもあった。
「さあ、漁る者。決着の時だ。父祖どもの仇を打ってくれるわ」
「お……、来たな。行ってくるぜ。ご指名だ」
ロバトサラスは縋り付く女たちを振り払い、老いも若きも分け隔てなく慈しむように頭を撫でながら船室を出て行く。
常人ならば大包丁で身を裂かれるような思いをする極寒の風を浴びて、ロバトサラスは舳先からの光景を眺める。空も海も暮らしも凍てつく北極圏の沖合に大船団が円を描いて並んでいた。水平線に帆の並び立つ巨大な円だ。今、ロバトサラスの乗る船は円の外にあるが、船団の中でも最も巨大な帆船で、他は全て一回りも二回りも小さい。
並走していた船にロバトサラスが乗り移ると帆船は円から離れていった。そしてロバトサラスもまた船団の円列に加わる。
ロバトサラスは一角の牙を刳り貫いた望遠鏡を覗き、船団を見渡す。北風に鍛えられた屈強な漁師たちが今か今かと大船団に囲まれた海面を睨みつけている。熟練の猛者は備え付けの弩のそばで、ただじっとその時を待っているが、経験の浅い若者たちは浮足立って見えた。各船ではひっきりなしに互いの状況を報せる旗が上げ下げされ、魚群探知の角笛が吹かれ、時化避けの太鼓が叩かれている。そして、どの船にも大量の空樽が積み込まれ、船体に取り付けられている。
ロバトサラスは波濤を見つめて語り掛ける。
「いつでも良いぜ。来いよ、郷呑み」
突如船団に囲まれた円形の海面が下から突き上げられたように盛り上がる。それは船団の円の中心ではなく、北側に寄っていた。
「馬鹿な。そっちは陸棚だろ! 痩せてんじゃねえよ! てめえ!」
「百年ぶりの息継ぎだ。ついでに平らげてくれる」
不意に海面が爆発し、天まで届く柱の如き水飛沫が立ち、直上の船はあえなく粉砕した。大量の海水が空高く吹き上がる。海中から姿を現したそれは黒々とした塊だ。水平線から水平線へと横たわる、何よりも巨大な山麓の如き威容が大量の海水を掻き分け、船団は激流に呑まれた小魚のように押し流される。
そしてあの声が、臓腑を掴むような恐るべき声が黒い塊から海面を伝って重く響く。
「我が名は鉄尾の怪物。四方の海の支配者にして最も貴き鯨の王なり」
程なく、先ほどの噴気で吹き上がった海水が滝の如く辺り一帯を打ち付ける。
「上等だ! トバールの守護者、ロバトサラスがお前を捕ってやらあ! 全船樽銛用意!」
ロバトサラスの激越な命令は旗で全船に伝えられ、鯨の王に挑まんとする鯨捕りたちは鯨波をあげて役目を遂行する。
風と潮を味方につけた捕鯨船群が再び郷呑みを囲むように波頭を蹴立てて移動する。黒い巨体は再び海へと潜ろうと身じろぎし、その巨大な鼻孔を中心に引き込む波の流れに乗った船団も加速する。
ロバトサラスは船の位置、弩の射程、郷呑みの潜水速度、旗を介した命令の伝達速度を勘案し、命じる。
「放て!」
放たれた銛はヴァムズラーゾの肉に刺さり、返しが喰い込み、軋る。銛には綱が取り付けられ、綱は船体に結び付けられている。銛が命中した船の船員たちは次々に小舟へと乗り移り、漁域を離れていく。その理由はすぐに分かる。銛の突き刺さった郷呑みが海中に身を隠すと綱で繋がった捕鯨船は積み込まれた空樽の浮力も甲斐なく次々と海に呑み込まれていく。
「これでもまだ潜るか。大したもんだ。次に備えろ!」
とはいえただその時を待つ以外にはない。海の真下から襲い掛かる巨大な怪物を回避する方法などないのだ。一射目を打ち漏らした捕鯨船は疎な円を描き、再びの死に際に備える。
今度は南側で海面が盛り上がり始める。ただし先の鼻孔の噴気による襲撃よりもずっと狭く、ずっと速い。海中から飛び出したのは尾だ。山をも投げかねない投石器のように跳ね上げ、不運な捕鯨船を捕らえて砕く。しかし先ほどの頭部と違い、黒々とした膚は隠れている。というのは、その怪物の全身にはこれまで鯨の王に挑んで銛を放った捕鯨船が今なお取り付いているからだ。
「放て!」
隙間がないわけではないが、狙って膚に当てられるものではない。しかし元々ヴァムズラーゾが纏っていた船に銛が突き刺さった場合も次の手はない。二射目にしてロバトサラスの乗る船以外の全てが漁域を離れた。
「よし、いいぞ。お前たちも離脱しろ」
ロバトサラスは銛弩を構え、自船に残っていた最も勇敢な船乗りたちの脱出を見送り、郷呑みの再出現を待つ。
「こうして相争うのは何度目だったか」と郷呑みヴァムズラーゾの声が響き渡る。
「悪いがお前やお前の親父の違いが分からないんでね。覚えちゃいねえな」
「お互い人間を愛してしまったがために殺し合わなくてはならぬ。悲しいことではないか」
「腹の中の郷は諦めてくれよ」
「そうはいかん。皆必死に生きておるのだ。我が腹にて生まれ、我が腹にて死にゆく可愛い子等よ」
「御託は沢山だ。国を盗れねえ国盗り合戦なんぞ付き合いたくねえや。さっさとかかって来いよ」
ロバトサラスは弩を構えてその時を待つ。
しかし郷呑みは姿を現さず、代わりに歌が響き渡る。鯨の歌だ。海原と大地が混ざり合っていた時代を知る古い歌が溟海に響き渡る。すると紺碧の海が巨大な棹に掻き混ぜられたようにうねり始める。人間も魔性も触れることのできない魔法の歌だ。海の怪物が呼び覚まし、海の怪物さえも呑み込むという海の災厄、螺旋潮流を呼び起こしたのだ。船は怒涛に抱え込まれて罪人の如く引きずられる。
ロバトサラスは舌打ちし、瞬時に姿を変えた。禍々しく捻じれた角を持つ羊頭に舵輪を背負う雄々しい肉体、獅子の後肢に三本の虎の尾。手には雷を放つ返しがついた青銅の銛を握っている。
ロバトサラスは魔術の手続きを省略し、船を手足のように自在に操る。風を味方に引き込み、螺旋潮流さえも乗りこなし、鯨の王の次の襲撃に備える。
郷呑みの尾が現れたのは船尾方向だ。ロバトサラスは銛を弩から外し、三つの魔術の手続きを省略してヴァムズラーゾに目掛けて手で投げ放った。
銛は水平線の如く大らかな弧を描き、郷呑みの尾の付け根に深々と突き立つ。が、同時にロバトサラスの乗っていた船は無残に打ち砕かれる。しかしロバトサラスは渦巻く海に突き落とされながらも銛から伸びる綱をしっかりと握りしめる。元から郷呑みに渡るための縄でいくつもの結び目が付けられている。それを引きずられながらも怪力で手繰り寄せる。
海水が全身をまさぐっている感触に気づく。札を探しているのだ。が、ロバトサラスは珊瑚の奥深くに自らの本体を貼り付けていた。全身を打ち砕かれない限り、札を剥がされることはない。
ロバトサラスは七十二の結び目を手繰り、郷呑みの膚に取り付く。逆に郷呑みは前々代が札を貼られて負けてから、対抗策として全身から油を噴き出していた。負ける時は戦って殺される時だという覚悟だ。
油に塗れた膚に突き刺さった無数の銛を手掛かり足掛かりにロバトサラスは頭部を目指す。
ロバトサラスの本性が握る最も強力な魔法の銛の一突きでさえ、頭蓋を砕くには今一歩力が足りない。ほんの僅かな助けさえ得られない孤独な戦いである以上、目か、鼻孔のいずれかを狙うしかないのだ。
その間、鯨の王ヴァムズラーゾは海中に、海上にと身悶えするように暴れ狂う。螺旋潮流の流れと合わせて何とかロバトサラスを引き剥がそうとしているのだった。しかし漁る魔性が胴体を半分もよじ登った頃、郷呑みはまるで諦めたかのように海中で立ち泳ぎし始めた。
海底へと敗走するならばともかく、何かを企んでいるに違いない。トバールの守護者ロバトサラスは錆びついた銛を急ぎたどって郷呑みの急所となる鼻孔を目指す。
「来たな! 蒼穹の大敵よ! 遥々よく来た! 我が王国、北の極へ! 南の海域にて思うままに暴れる颶風よ! 不遜なる魔性に思い知らせようぞ!」
ヴァムズラーゾはそう呼びかけると勢いよく海上へと飛び出した。いつの間にか空は水平線の彼方まで渦巻く黒雲に覆われている。昼日中であるにもかかわらず、真夜中の如く闇に覆われている。潮とも雨とも区別のつかない水滴が無数の鉄鎚を浴びせるが如くロバトサラスを横殴る。
それはロバトサラスも話にしか聞いたことのない南の海の暴君、颱風だ。まるで螺旋潮流と示し合わせたように逆回転し、郷呑みの巨体すら捻じれ始める。そして鯨の王の纏う無数の船は螺旋潮流に打ち上げられ、颱風に吹き流されて暴れ狂い、ロバトサラスを打ち据える。ロバトサラスの魔術で編み上げた頑丈な綱が仇になり、軋みながらも決して千切れることなく連接棍の如く撓りを加えて何度も何度もロバトサラスにのしかかる。
ヴァムズラーゾに突き刺さった銛は膚を抉って血飛沫を噴き、鞭打つ船体はますます鯨の王を傷つける。
「お前だってただじゃすまねえだろ!」とロバトサラスは怒鳴る。
「か弱き子等の盾とならば本望」
ロバトサラスは挫かれることなく衝撃に耐えて突き進み、とうとう鼻孔へとたどり着く。堅い筋肉で閉じられているが、雷放つ青銅の銛を突き刺してこじ開けようと捩じり込む。
郷呑みが大音声の叫び声をあげ、倒れて海面に叩きつけられる。颱風はなお吹き荒び、螺旋潮流はなお渦巻いている。
ほんの僅かなずれだ。鼻孔はまだ閉ざされていて、ロバトサラスは引き抜いて突き刺すか、差し込むかの選択で後者を選んだ。同じ瞬間に郷呑みは鼻孔を開く選択をし、ロバトサラスは咄嗟に構え直すが、噴気が先んじた。
ロバトサラスの紅珊瑚の体は軽々と空高く打ち上げられる。そのまま颱風に彼方へ運び去らせる手筈になっていたのだ。空に漁る魔術は通用しない。
ただし、高さは十分だった。ロバトサラスは七つの魔術の手続きを省き、雷放つ青銅の銛を遥か眼下の郷呑み、鯨の王、ヴァムズラーゾ、船纏いに目掛けて放つ。大地の底に引き寄せる力が魔法の銛に力を貸し、雷霆の如き一撃は国飼の巨鯨の頭蓋を砕き、脳天を穿ち、命を貫き刺した。
こうして海の災厄は鎮められたが、ロバトサラスが北極圏の海へと戻ってくることはついぞなかった。