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聳えるように積もっていた海の藻屑が破裂して、満身創痍の白岸の街に降り注ぐ。嵐が森の木の葉を全て刈り取って携えてきたなら、このような光景になるだろうか。海水と潮臭い黒や緑の塊が、屋根々々に降り積もっていく。
「今度こそやったんじゃない!? やってやったんじゃない!?」
魔法少女かわる者は声高々に勝利を宣言するように煌びやかな杖を掲げる。
その時、降る藻屑の間にちらと白い影の投げ出される姿が見えた。
「まずいまずいまずーい! 魔法少女の名が折れる!」
エニは慌てて杖に跨ると燕の飛ぶように一直線に白い影のもとへ、線の細い少女のもとへ飛んで行く。意志を奪われたままに散々暴れまわった少女鎖は力を失った途端、意識まで失ったらしい。エニはべたつく藻屑に塗れながら、ジェーナを済んでのところで受け止める。
「ああ、ああ、もう、もう。大量過ぎるでしょ!」
エニは地上に降りてもまだ降り続ける藻屑から逃げ、商店街の軒下へと避難した。全身に張り付いた藻屑を払い落しつつ、べちゃべちゃという湿っぽい音を立てながら歴史ある石畳が藻屑に覆われていく様を、さっきまで自身を殺そうとしていた少女を守るように抱えながら見つめる。
「まあ、でも、どんなもんよ、ジェーナ。魔法少女も侮れないでしょ?」
返事はないが小さな呼吸を相手に独り言をつぶやいた。
しかし路面に散らばる藻屑はまだうぞうぞと蠢き、ジェーナの方へと集まろうとしている。
「ああ、そうだった。尖筆、尖筆。尖筆はどこかなあ?」
エニは硝子細工を扱うようにジェーナを地面にゆっくりと降ろすとその繊細な両手を探り、海水に濡れた衣のあちこちをまさぐる。しかし目当ての物は見つからない。
「あれ? あれ? ちょっと? もしかして失くしたの? しっかり持っててよ、もう」
ゆっくりと這い寄ってくる藻屑から逃げようとジェーナを再び抱え直そうとした、その時、溌溂としてよく通る声が降ってくる。
「待ちなって、エニ。探し物ならここにあるよ」
声の主、いとし子は向かいの屋根の上に現れ、窓枠を足掛かりにして小猿のようにするすると地面へと降り立つ。
「お義父さんとお義母さんについてるんじゃなかったの?」
「まあね。でも藻屑の中からこれが落ちてくるのが見えたから居ても立ってもいられなくてさ」リスティはぼさぼさの髪の中から鯨骨の尖筆を取り出した。「これが、ばいかいなんでしょ?」
一見ただの白っぽい棒切れだが目を離せない存在感を放っている。
「それ! 助かったよ! でも今持ち合わせがなくて」と冗談を言いつつエニは魔法少女の杖を握る。
「ばーか。良いからさっさと壊しなよ」
エニが杖を上段に構えるとリスティが尖筆を放る。エニは空気を【噛み砕きつつ】、杖を尖筆に振り下ろす。杖が触れた途端、尖筆は中ほどで消滅し、二つになって地面を転がった。同時にジェーナを取り込もうと蠢いていた藻屑が全てただの海の藻屑へと戻った。
その時、商店街の奥の方から探るような足音が聞こえてくる。
「終わったのかい? エニちゃん? それと勝手屋、ちゃん?」「その子が天使憑き? 可愛らしい顔して恐ろしいわ」「大丈夫? 怪我はない?」
「ふっふっふ。よくぞ聞いて……、ええ!?」エニは勢いよく振り返る。「なんでみんなまだこんな所にいるの!? 私、街から、湖の方に逃げてって言ったでしょ!?」
見覚えのある面々が野次馬の如く集まってくる。食堂の主人、鍛冶屋の女将、商店街の相談役。それにリスティの義父母。街の人間全部が集まっているようだ。
「体制が通行止めしたんだよ。エニちゃんが紛れて逃げるかもしれないってな。で、幸福が商店街に結界を施してくれたんだ」
「また無茶を。不幸になってない?」
エニは再びジェーナを抱え込むように抱き寄せる。まるで無垢な子供のような表情で体制の傀儡は眠りについている。
「ちょくちょくなってたよ」と誰かが言った。
「ちょくちょくなってたの!? 大丈夫だったの?」
「通して、通してくださいな。エニは無事なのですか?」噂をすれば人混みを掻き分けてふくよかな娘がやってくる。「ああ、エニ! リスティも戻って来てる! 無事だったのね!? ジェーナさんは大丈夫?」
ギーサの姿のギーサはエニの顔を見るなり飛びつくようにしてジェーナごと抱きしめる。
「ギーサさん。苦しい」
「本当に心配したのですよ! 一人で戦うだなんて無茶をして!」
いつも微笑みを絶やさないギーサの強く結んだ唇と前髪の隙間から流れる涙にエニは罪悪感に似たものを感じる。
「でも信じてくれたんでしょ? ありがと」
エニがにっと笑うとギーサも呆れたように笑みを零す。
「今更貴女を疑う人なんてこの街にはいないわ」
「とにかくみんな無事でよかったよ。途絶えぬ祝福と水光はどこ?」
「二人も無事ですよ。奥で休んでいます。街の皆を此処まで誘導してくれましたから」
「じゃあギーサさん。ジェーナのこと看てて。眠ってるだけだけど、一応ね」
エニは立ち上がり、伸びをする。魔法少女の窮屈な衣が締め付ける。いつの間にか藻屑の雨は止んでいた。
リスティが怪訝な表情で言う。「エニは? どこに行くの?」
「まだ体制の戦士たちがいるだろうし、脅してくるよ。まあ、しばらくは手出しして来ないだろうけど」
杖を取り出したその時、どこか遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。ギーサの声、リスティの声、皆の声。呼びかけられているがエニの方から遠のいていく。深い静寂と暗闇の淵へと沈んでいく。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。エニにはそれが分かった。
魔法少女が人助けをする。魔法少女が問題を解決する。魔法少女が世界を救う。
エニはいつもそばにいた。
久々に気を失った。いつもの通り、内に現れる変化を、新たな魔法を探るが、エニは何も見出せなかった。
それに、何かを見た。しかし何と言い表せばいいのか、エニには分からなかった。ただ、高鳴りを感じた。ずっと待ち侘びていた何かがやって来たような、そんな高鳴りだ。
誰かが湖畔まで、アリエーの家のエニの屋根裏部屋まで運んでくれたらしい。エニは起き上がり、寝台のそばの小机に寝かされた古地図を見遣る。すっかり乾いている。滲みもない。眠っているようで、皴一つない。この一年で書き込みが随分増えた。最初は随分頼りにしたが、もう既に土地勘を身に着け、街の住人の名前と顔は全て覚えてしまった。
エニが立ち上がるとロレナの古地図も立ち上がる。
「おはよう、ロレナ」エニは古地図の縁をなぞりながら【話しかける】。「今日も元気に人助けしちゃいますか」
「やぁよ。乾いてるのは表面だけなんだから。まだ本調子じゃないの。どこかの札と違ってね」
「じゃあ暖炉で乾かしてあげる」
ロレナはすぐさま机から飛び上がると鳥の形に折りたたまれて羽ばたき、逃げるように階下へと飛んでいく。
追って階下へ降りると良い香りが漂って来た。香ばしい白麺麭の気配に虹鱒の燻製が胃袋をくすぐる。それに豚のばら肉の入った羹まである。
朝から湖に飛び込んだのか、髪を濡らしたアリエーが朝食の準備万端で待っていた。
「なんだか朝から豪勢じゃない?」エニは目を丸くして、既に食卓についている同居人アリエーの顔を疑うように窺う。「吝嗇はやめたの? それともアリエーの釣竿は麺麭や豚さえも釣れるようになった?」
「たまにはいいだろ? 大金星を得たんだからさ」とアリエーは無表情で、しかし少しばかり明るい声で答える。
「いいね。毎日体制が襲ってきてくれたらいいのに。そしたら魔法少女の活躍を毎日拝めるよ」
「毎日は困る。いや、一生来なくていいよ。さあ、早く食べよう」
昨日の今日でルピーヴァ神に祈りを捧げるというのも妙な話だが、他にやり方を知らない二人は糧と海の安寧に感謝の祈りを捧げる。
柔らかな麺麭の程よい感触と虹鱒の味わいにエニは頬を緩める。
「料理人になれるんじゃない?」
「それ、誰にでも言ってるんだろ?」
「あ、知ってた?」
ここ数日の緊張感が嘘のように二人は再び気持ちが通じ合っているようだった。
アリエーが食事に目を落としながら尋ねる。「ところで結局どうするんだ? あの噂は確かめないのか?」
エニの方は手が止まる。
「うーん。興味はあるけど、ロレナの街から離れたくない。ここが私の故郷だからさ。それに皆も寂しいでしょ? 魔法少女がいなくなったらさ!」
「ああ、もちろんそうだ。でも本当に? それでいいのか?」
「本当に。それでいいよ」
古地図ロレナがばさばさと羽ばたいてエニの頭の上にとまり、嬉しそうに旋毛を啄む。
「今日はいいんじゃないか? 昨日の今日じゃないか」と戸口までやってきておいてアリエーはエニを説く。
「昨日の今日だからだよ。皆疲れてるだろうし、助けが必要なはず」
「いや、だが奴らはもう立ち去ったんだ。魔法少女の出番はないよ」
エニは眉を寄せ、怪訝な眼差しをアリエーに向ける。アリエーの方は無表情だが声に感情がありありと乗っている。
「私が人助けすると何か困るの?」
「いや、そうじゃなくて。ただ君自身のことをもっと労わった方が良いと思うんだ」
「労わったよ。それじゃ、今日も一日魔法少女してくるよ!」
「待て。エニ」
手を伸ばす戸口のアリエーに手を振りながらエニは杖に跨って飛び立った。ロレナは折り畳まってエニの懐に納まっている。
心配してくれる気持ちは嬉しかったが魔法少女がエニの生き様だ。
湖を発ち、林を越えてすぐにロレナの街が見えると地面すれすれを飛行する。
まだ道の端に藻屑が残っている。潮の匂いも消えていない。しかしエニが救った街の人々は今日も元気に営みを送っている。
「みんなー! おはよう! みんなの魔法少女エニだよ! またの名をロレナの街の救世主エニだよ!」
いつも以上に元気な挨拶をしたつもりだったが、目配せや軽く手を上げたりする程度の挨拶しか返って来なかった。やはり疲れは残っているのだ。
「エニ! 止まれ!」と呼び止めたのはポレミアだった。
大事な剣が折れても腰に佩き、勲章の増えた古びた革鎧を身に着けている。それでもやはり生傷は増えている。エニは杖から降りてポレミアの方へ駆け寄る。
「どうしたの? 血相変えて……」エニはポレミアの絶えない生傷の中に見慣れない火傷を見つけ、その手を取り、手の甲の火傷痕を見つめる。「火傷? 他に魔術師がいたの? 何かあった?」
「いや、何でもない。これは……、大丈夫だ」ポレミアはエニの手から自分の手を引っこ抜いて庇う。「それより今日は、その、帰れ」
ポレミアまでエニに魔法少女をして欲しくないらしい。しかしアリエーよりもずっと嘘が下手なポレミアの眼はあちこちに泳いでいる。そしてエニに行って欲しくない方向が簡単に読み取れる。
「何かあったんだね?」
エニはポレミアを置いて通りを進む。ポレミアに腕を掴まれると、エニはポレニアを抱きかかえて杖に跨り、一気に空へと昇る。
「ああ、そんな……」
眼下の光景にエニは言葉を失う。石灰で塗られた白い街の半分が黒焦げになっていた。犯人は明らかだ。ジェーナが負け、体制は腹いせに火を放ったのだ。
「何で誰も助けを呼びに来なかったの? 火なんて直ぐに消せたのに」
ポレミアは無言を貫くことにしたようだ。下手に喋って真意を知られたくないらしい。懐の中のロレナもまた沈黙を守り、身動き一つ取らない。
ならば、とエニは再び街へ降下する。
黒焦げた街の片づけをしている者たちがエニの姿を見て目を逸らす。
「ねえ!? 何で助けを呼びに来なかったの!? オルギサの時も、暗雲の申し子の時も、勇名を馳せるの時も助けを求めてくれたのに」
皆、どこか罪悪感を抱えているような瞳を伏せて、立ち働いている。
「ねえってば! たかが火事一つで何を遠慮したの?」
「遠慮じゃねえよ!」と若い男が堪えかねたように言った。「いい加減迷惑なんだ!」
「そうだ!」と別の男が同調する。「今度のことは決定的だ! 体制に目を付けられちまう!」
次々と声が重なる。今まで手を差し伸べてきた人々に声高く非難される。
「街から出て行け!」「もう助けなんていらないわ!」「せいせいするぜ!」
「体制が何だっていうの!?」とエニも言い返す。「天使憑きを無力化した私に対して体制に何ができるっていうの!? 私は、私たちはずっとこの街のためにと思って……」
元から体制の狙いはエニであり、ロレナの街ではない。次があれば街の外で迎え撃つだけのことだ。
「恩着せがましいんだよ」
エニは信じがたい気持ちでポレミアの方を振り返る。そこには辛そうな表情でエニを見つめるポレミアがいる。
「恩? 私たち、仲間でしょ? 二人で一緒にゼルシロンに立ち向かった時だって――」
「仲間? 本当の仲間は別にいるんだろう? 街の皆、全員噂は聞いてるぜ。お噂のお仲間のところへ行っちまえよ」
エニは脱力し、表情を失い、杖に跨ってアリエーの待つ家へと飛んで戻った。
戸口でずっと待っていたのだろうアリエーの胸に縋り付く。
「不思議なもんだ」とアリエーが呟く。「街の誰より不器用だった僕がこんな役回りになるなんてさ」
「皆して下手なんだよ、演技が」とエニは濡れた声で呟く。
「ポレミアはどうだった?」
「一番下手」
アリエーは声をあげて笑う。
「皆君が好きなんだ。だから君が寂しがり屋なことは知ってるし、だけど、だから噂の人が気になってしょうがないんだろうことも分かってた」
「体制なんて敵じゃない。でも私が去ったらどうなるの?」
「大丈夫だよ。僕たちが守る。リスティもギーサもポレミアも僕も、それにジェーナもね。君の守ってきた君の大好きな街が皆大好きなんだからさ」
「誰も彼も勝手なんだから」
「君が言うか」
エニはすっかり泣き止むまで泣き尽くすと懐から古地図を取り出そうとするが、先んじて古地図ロレナは飛び出し、アリエーの肩にとまる。
「じゃあロレナを頼むね? アリエー」
「ああ、頼まれたよ、エニ」
「あたしが皆の面倒を見るのよ!」とロレナが震える声で抗議する。
「けど、もう行くのか? 皆に別れの挨拶は?」
「だって、あんな臭い芝居させた後にもう一度顔を合わせられないじゃない? それに別れの挨拶なんていらない。ほんの少し出かけるだけなんだから。大体、普通に説得しようと思わなかったの?」
「君が説得されてるところなんて見覚えがないんだけどな」
エニは杖を掴み、腰掛ける。噴き出す空気がエニの体を浮かせる。
「それじゃあ行ってくる」
「噂の人によろしく伝えて」
「どうかな? 私の胸を散々騒がせておいて、つまらない奴だったらどうしてくれようか。じゃあね、アリエー。皆にもよろしく」
エニは湖畔を飛び立ち、真っすぐに北へと向かう。夢に見て、噂に聞いた魔法少女ユカリの元へ。