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第三話 拒絶と甘えの境界線
明が帰ってきて寝息を立てるまでの時間は
晴明にとって唯一の“人の気配がある夜”だった。
けれどそれは、安心ではなく……奇妙な緊張と、甘い安堵が入り混じった、落ち着かない時間だった。
そして朝7時。
明の仕事の準備が静かに始まる。
「……明くん、今日も行くの……?」
晴明は手首の拘束具に少しだけ力をかける。もちろん外れない。
その痛みが、かえって現実を突きつけてくる。
「うん、お兄さん。今日もちゃんと行かなくちゃ♡
でもね……帰ってきたらいっぱい触れてあげるから。」
「っ……触れなくて……いいよ……。
僕は、ただ……ここから出たいだけで……」
言った瞬間、明の足が止まった。
空気がぴり、と張り詰める。
けれど振り返った明の表情は、怒りではなく――
まるで悲しむ子どものようだった。
「……お兄さん。
どうしてまだ、そんなこと言うの……?」
「明くん……ごめん……でも……こんなの……普通じゃ……」
「普通じゃなくていいよ。」
明はすぐに歩み寄り、晴明の頬に手を添える。
その指先は優しいのに、逃げられない圧を持っていた。
「僕にだけ優しくしてくれれば、それでいいの。
世界なんていらないよ、お兄さん。」
「……それは……明くんの考えでしょ……。
僕は……僕の生活が――」
「いらないって言ってるの♡」
明の声が一瞬甘く低くなる。
脅していないのに、逆らえない“命令”のように響く。
晴明は耐えきれず、目を伏せた。
「……ごめん…なさい…」
謝った理由が自分でもわからない。
でも言わないと、胸の奥がざわざわして苦しかった。
「うん、いい子♡」
明は微笑んで、晴明の髪をゆっくり梳いた。
その優しさが、逆に心を削る。
「じゃあ行ってくるね。19時には帰るよ。
寂しくなったら、僕の名前呼んでいいからね?」
「呼んだって……聞こえないよ……」
「聞こえなくてもいいの。
呼びたくなるってことが、嬉しいから♡」
明の唇が晴明の額に触れる。
そして扉が閉まり、沈黙が戻る。
いつもの、長すぎる昼の時間が始まった。
晴明は浅く息を吐き、天井を見つめた。
「……っ……なんで……どうして……」
明がいない部屋は、異様に広く感じる。
光も弱く、時計もなく、時間の流れが歪んでいく。
手首の痛みがじくじくと染みてくるたびに、
“ここは現実なんだ”と思い知らされる。
「……逃げられない……のかな……」
口にすると、胸の奥が冷たく沈んだ。
逃げたいのに。
でも明が怒るところだけは想像したくなかった。
明が怒るのが怖いわけじゃない。
“悲しむ顔が浮かぶこと”が、もっと怖い。
「……僕……どうして……」
涙がこぼれた。
声に出すと、孤独が一気に押し寄せて息が乱れる。
「明くん……なんで僕なんか……選んだの……」
「僕、そんな……価値ないよ……」
弱音が止まらなかった。
明がここにいる時は怖いのに、
いない時は胸が空洞みたいになって、息が苦しい。
矛盾しているのに、どうにもできない。
「……帰ってきて……ほしい……の……?」
自分の声に、自分が驚いた。
逃げ出したいはずなのに、帰りを待っている。
「いやだ……こんなの……」
頭を抱えて泣いた。
昼と夜の境がわからなくなり、何度も明の名前を呼んだ気がする。
――ギィ。
扉の開く音に、晴明は反射的に顔を上げた。
「ただいま、お兄さん♡」
明の声が、地下室にふわりと広がる。
「あ……あぁ……明くん……」
声が震えていた。
泣いていたのがばれるのが怖いのに、安心した気持ちもあった。
「泣いてる……? 寂しかったの?」
「ち、違うよ……ただ……静かすぎて……
なんか……胸が……苦しくて……」
「ふふ……」
明は優しく晴明の頬を両手で包み、その涙を親指で拭った。
「ねぇ、お兄さん。
こういう時に一番感じるでしょう……?」
「……なにを……?」
「“僕が必要だってこと”を♡」
その瞬間、晴明の胸がひくりと揺れた。
「違……っ……そんなの……違うよ……」
「ほんとに?
だって、お兄さん……僕が帰ってきた瞬間、安心したでしょう……?」
「……っ……」
否定できなかった。
その沈黙が、明には何よりの答えだった。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ。
お兄さんはもう……少しずつ僕に戻ってきてるから♡」
「戻るって……なん……っ……意味……」
「そのうちわかるよ。
お兄さんが“壊れた時”にね♡」
明の指が、晴明の髪に深く入り込んで優しく梳いた。
その手が離れたら、また一人になる気がして――
晴明は無意識に目を閉じ、明の手を求めていた。
明は、満足そうに微笑む。