突然始まった竜也の不登校に麻生家の面々は戸惑いを隠せなかったが、舅だけはいつも笑いが止まらないと言わんばかりの表情をしていて、姑の不興を買っていた。
「竜也が不登校になったのがそんなにおかしいんですか?」
「いや、竜也は関係ない」
「じゃあ、何がいったいそんなにおかしいんですか?」
「ああ、まあ、ちょっとな……」
せっかく見つけた錬金術を守銭奴の妻に知られたら、儲けを全部取り上げられてしまう。冗談じゃない。
その頃、舅は親会社・原商事の役員に呼ばれ、経営の助言を求められることが多かった。親会社の役員に頼られることだけでも自尊心をくすぐられて気分がいいことなのに、その役員が目の前でスマホでポチポチしだしてたった五分で十万円儲かったと言い出したことがあって、話を聞くと為替取引だという。
「年寄りには難しそうですな」
「いや、全然簡単ですよ。というか儲かるのが分かってるのに手を出さないなんて愚かだと僕は思ってます」
言われるままに取引口座を作って百万円入金して米ドルを少量買ってみたら、本当に数分で十万円儲かった。
「これはすごい。真面目に働くのが馬鹿らしくなりそうです」
「なかなか最初から勝つことはないものですよ。麻生さんには才能があるようです。うらやましい」
親会社の創業家当主の一人息子におだてられて、舅は秋の枯れ葉のように心が舞い上がった。
その後数日いつもニコニコしていた舅だが、ある日を境にいつも真っ青な顔をしているようになった。
苛立たしそうにしょっちゅう電話をかけるようにもなった。相手は例の創業家当主の跡継ぎらしい。
「原副社長、あなたが買ったというから、私もポンドという通貨を買ってみたら、買ったとたんに大暴落したんですが」
「えっ。副社長は買ってすぐ損切りしたんですか? 私は今損切りすると口座に入金した百万円のほぼ全額を失うんですが、いったいどうすれば……?」
「暴落したということは安く買えるということ? 買い増しのチャンスということですか? なるほど」
「希望が湧いてきました。定期預金を解約して、退職金も全部突っ込みます。それでも足りなければ、この家を担保に銀行から引っ張れるだけ金を引っ張ってやりますよ!」
「私が大物? いやあ、それほどでも――」
会話を盗み聞きしていて目まいがした。私はこんな愚かな人たちのせいで人生を狂わされてきたのか、と。
長年の住宅ローンをやっと返し終わったばかりなのにね。その夜、麻生家の人々がホームレスに身を落としている夢を見た。その日も慎司は朝帰りだった。きっとニヤニヤしてたであろう私の寝顔を見られなくて、本当によかった。
姑はここ数日ずっとイライラしていた。孫の竜也は不登校。夫はいつもニヤニヤしてたかと思えば、最近はずっとふさぎ込んでいる。
息子の慎司は女ができたらしく仕事の日も休みの日もほとんどうちの中にいない。不倫したせいで一度離婚してるくせに懲りない男だ。今の嫁は前の嫁と違って私たちの言いなりだから、離婚になることはないだろうけど、少しは隠せと言いたくもなる。
いつものようにストレス解消で馬鹿な嫁をいびり倒しても全然気が晴れない。少しは抵抗してくれればいいのに、最近は従順すぎてかえって糠に釘という感じで張り合いがない。なんだか薄気味悪いくらい。
気晴らしに近所の同年代の奥様たちと出かけて、少し豪華なランチをいただきながらお話することが増えた。
話題はたいてい夫や嫁の悪口。ほかの奥様たちも私と同じで夫がかなり年上。もう男性として機能しない。うちも最後の営みからもう二十年がすぎた。
十年以上前、夫が隠れて通院しED治療薬を処方されたことは知っているが、その後も何も言ってこないところから察するに、目に見える効果はなかったようだ。不能になってもキスやハグをしてくれるだけで女はうれしいものなのに、不能になったことで男としてのプライドが傷つけられたらしく、それ以来一切私の肌に触れてくることはなかった。
「もう二度と女の喜びを感じられることはないんだよね」
誰かが寂しそうにそう笑っていたが、私は笑えなかった。そうかといって、今年古希を迎えた私がまだ枯れたくないと奥様たちの前で言い張るのもさすがにはばかられる。
レスのストレスは嫁いびりで解消してきた。でも所詮嫁いびりは代償行為でしかなく、レスの悩みを根本的に解決するものではなかった。
そんなある日、私は見てしまった。ランチ仲間の奥様の一人が若い男と連れ添って歩いているのを。隠れてあとをつけると、二人はそのまま街なかのホテルの中に吸い込まれて消えた。
後日、その奥様と二人になったとき、男とホテルに入っていくのを見たと伝えた。奥様は驚愕し、主人には言わないでと大泣きして頼まれた。
「そんなことしない。奥様を脅すつもりなんてないの。ただどうなのかなと思って……」
「どうって、何が?」
「だからこの年でも気持ちよくなれるものなのかなって……」
「もちろん。彼、上手だし、何より若いって素晴らしい」
「彼、何歳なの?」
「来年四十だって」
不能になって長い夫の四十歳の頃の激しい営みを思い出して、私は赤面した。
「ねえ。もし彼に興味あるなら、麻生さんも彼と交際してみる?」
「だって奥様の恋人なんじゃ……」
「恋人なんかじゃないよ。援助交際の相手。彼、お金に困ってるみたいだから、デート一回につき五万円でも包んであげれば、どんなリクエストにも応えてくれるよ。紹介してあげようか」
「お願いします……」
これで共犯だから告げ口される心配はなくなったわね、と奥様は胸をなでおろしていた。不倫はバレなければ誰も不幸にならない。慎司もしているし、若い頃の夫もしていた。二人の不倫はバレていたけど、最悪こっちが見て見ぬふりしてなんとかなった。
とはいえ、私が若い男と会っていると夫に知られたら許してもらえるとは思えない。見つからないように私が気をつけるしかない。なんにせよ男の肌が恋しいと思ったら、若い男を紹介してもらえることになった。渡りに船とはこのこと。このチャンスを絶対に逃したくなかった。
一週間後、その奥様に仲介してもらい、土屋蒼馬というその男と初めて会った。蒼い馬と書いてソウマ。なんてカッコいい名前だろう! でもきっと本名ではないのだろうな。
援助交際という私の目的を知っているはずなのに、最初の食事代は彼が払ってくれた。
「僕をあなたの恋人だと思ってください。僕もあなたを僕の恋人だと思いますから」
かすかに残っていた自制心はその一言で崩壊し、そのセリフを聞いた一時間後には私はもうホテルのベッドの上で彼の前に老いた裸体を晒していた。
「美しいですよ」
「みんなにそう言ってるんでしょ」
「今ここには僕とあなたしかいませんよ」
すべて嘘なのは分かってる。嘘か本当かなんてどうでもいい。私を美しい嘘で酔わせてほしい。
二十年間誰にも触れられなかった私の渇いた肌に潤いが彼によって与えられていく。砂漠に花が咲くように、乾ききった私の心に雨が降り注ぎ、やがて濁流となった。長く忘れていた性の快楽に、私という笹舟は翻弄されている。無意識に声が出る。
「ずっとこれを求めていた。私はまだ枯れたくない」
蒼馬がゆっくりと動きながら私の名を連呼する。私も蒼馬、蒼馬と繰り返す。女として生まれた歓びを、私は完全に思い出した。
「もう元には戻れない……」
私はそれを蒼馬に言ったんじゃない。もう二度と女の歓びを味わえないとあきらめていた過去の自分に言ったのだ――
いくら若い男の体に溺れても、さすがに七十歳となった身では何時間もそれを続ける体力がなくて、一度の性交のあとは抱き合いながら姑は夫に言えない過去の身の上話を蒼馬に語り続けた。
舅と知り合う前に別の男とのあいだにできた子を堕胎したことがあること。舅と結婚後なかなか子どもが授からなくて、不安からまた別の行きずりの男と何度か試してみたら直後に妊娠したから、一人息子の慎司の父親が誰なのか、実ははっきりしないこと。二十年も前に夫が不能になってそれからずっとセックスレスであるが、不能になってから夫の猜疑心が強くなり、なかなか不倫するチャンスがなかったこと。過去の不倫も現在の不倫も家族には秘密にして墓場まで持っていくつもりであること――
「すごいこと聞いちゃったね、七海さん」
「このまま無事に墓場まで行かせません」
と私も答える。
ここは菊池家のリビング。蒼馬が隠し撮りした姑の行為動画の鑑賞会開催中。高性能小型カメラに記録された動画を、テレビに飛ばして再生している。鑑賞会の参加者は香菜さんと私、そして蒼馬。春ちゃんと陸君には刺激が強すぎるので、それぞれ自分の部屋にいてもらっている。
蒼馬は香菜さんが雇った〈別れさせ屋〉。世の中いろいろな職業があることは知っているが、そんな稼業まであるとは知らなかった。本来の蒼馬の仕事は離婚したい夫に頼まれて妻の不貞の相手になり、夫に不貞の証拠を提供し、夫有利で離婚する手助けをすること。もちろん、妻に雇われて夫に近づく女の別れさせ屋もいるそうだ。
今回の蒼馬の仕事は姑に不貞させてその証拠を私たちに提供すること。難しい注文だったはずなのに、ミステリー小説の完全犯罪を彷彿とさせるような鮮やかな手口で姑を籠絡した。さすがプロと言うしかない。
「別れさせ屋ってずいぶんお金がかかったんじゃないですか?」
「お金のことなら大丈夫。私の彼は新世界運輸の親会社の副社長なの。春が中高一貫のお嬢様学校の生徒だけど、その学費も全部出してくれてるんだから」
「それってうちの凛と同じ学校?」
「そう。凛は中二、うちの春は高三で、学年はだいぶ違うけどね」
なるほど。一度春ちゃんの制服姿を見たことがあるけど、中学部と高等部で制服が違うから気づかなかった。
そのとき、春ちゃんは高三でもうすぐ卒業なのにまだ部活動や生徒会活動を頑張ってると聞いて少し不思議に思ったものだけど、それで納得できた。その学校の高等部の生徒のほぼ全員が系列の女子大に内部進学する。受験勉強が必要ないから、卒業まで部活動や生徒会活動を引退する必要がないのだ。
「春の方から近づいてもう凛と仲良しになってる。学費が高い学校だから、じきに凛は舅と慎司の破産で学費が払えなくなって、公立中学に転校することになる。でもその前に弟に負けないくらいの地獄を見てもらうつもり」
「見せてやりましょう。私たちが見た以上の地獄を!」
自分が産んだ娘の不幸を願う私の心に、そのとき一点の曇りもなかった。