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いつの間にか、朝の掃除が日課になっている。
清長もそれをすんなりと受け入れて、今朝も箒を手に庭を掃いている。こうしていると、少し前まで戦いの最中にいたことなど忘れてしまいそうになる。
それが、居心地がいい。
「ご苦労様」
声をかけてきたのは三津だった。
「うちは女二人だから、男手があると頼もしくって助かるわ」
「……掃除に男も女もないと思うが」
「あら、大変なことは他にもあるのよ? この間、畑の土起こしもしてくれたのよね。あれ、大変なのよ」
三津は相変わらずにこにこと笑みを浮かべている。
そんな彼女に、清長が言った。
「あんただろ。毎晩、俺の様子をうかがっているのは」
夜になると、窓の外から誰かがのぞく気配を感じる。
おそらく三津の仕業だろうとは思っていたが、その姿を確認することはできずにいた。
「あんた、何者だ?」
三津は、清長の家の縁側に腰を下ろして、口を開いた。
「彦二郎さんは、相変わらずお人好しのままだったみたいね」
彼女が親しげに口にしたその名は、清長もよく知っていた。彼の父親代わりだった四代目風魔小太郎が、首領になる前に名乗っていた名だ。
「知っているのか。四代目を」
「私も、昔は北条に仕えていた身だからね」
ふふ、と三津が笑う。
やはり彼女も、元は忍者だった。
「あのお人好しのもとで育った子だから、大丈夫だろうとは思ったけれど、一応ね。様子をうかがってたの。ごめんなさいね」
「俺のこと、わかっていたのか」
「だってあの人、すでに忍者衆を抜けていた私のところまで、あなたのことを自慢しに来てたのよ? すっごく可愛くて頭のいい子がうちに来たって。私、つい見に行っちゃったもの。そのときはまだ五つほどだったあなたをね」
五歳の頃と今の清長とでは、見た目も大きく変わっているはずだ。だが三津は、そのときに四代目から聞いた名を今も覚えていた。そして大人になった彼に、当時の面影を見たのだ。
「あの村はね、私が忍者衆を辞めて静かに暮らすと決めたときに、主だった氏康様からいただいたものなの」
「あの山奥の廃村を?」
「私が望んだのよ。誰にも邪魔をされず、静かに余生を過ごしたいって」
「よく叶えてもらえたな」
「人徳かしらね」
ふふふ、と三津が笑った。
「なのに、その村じゃなくここに住んでいるのか」
「だって、山奥すぎて市へ行くのもひと苦労なんだもの。静かすぎて寂しいし」
「自分で望んだんじゃないのか」
「でもちゃんと行ってるわよ。あの村があるおかげで畑も持てて、生活にも困らないし……それに、大事な場所なのよ」
三津が軽く目を伏せた。
遠い過去を、懐かしむかのように。
「だから、葵と一緒に守っていってね」
まるで、清長がこれからもここにいるような言い方だ。
「俺は、ずっとここに住むというわけじゃ」
「違うの? 昨日の夜は、ここでの暮らしが気に入っているようなことを言ってたのに」
「盗み聞きしていたのか」
「あんなに警戒心なく庭先でしゃべっていたら、どうやったって聞こえてくるわよ」
しかし葵も清長も、大声で話していたというわけではない。三津が家の中で寝ていたのなら、聞こえるはずはないのだ。
家の中か、外なのか。どこかで彼女が聞き耳を立てていたことは間違いない。
「俺がここにいると、あんたやあいつを巻き込むかもしれないと、あんただってわかっているんじゃないのか」
「あら、そんなことを気にしてたの? さすがは彦二郎さんの育てた子だわ」
「そういう問題じゃ」
「心配しなくても、あの子はけっこう強いわよ。ちょっとくらい巻き込んだって大丈夫よ」
「あんた、あいつの保護者じゃないのか」
「そんなこと言った覚えは一度もないけれど」
「ならどういう」
「あれ? めずらしいね。二人でおしゃべりなんて」
長屋から出てきた葵が、会話に割って入った。
「あとは葵に聞くといいわ」
そう言うと、三津は長屋へと戻っていってしまった。
「何の話してたの?」
「お前とあの人がどういう関係なのか聞いただけだ」
「私と三津さん? 家を貸してもらってる関係だけど」
「どう考えてもそれだけじゃないだろ」
うーん、と少し考えてから、葵がもう一度答えた。
「三津さんと父上は、昔からの知り合いなんだって。同じ主に仕えていた時期があって、そこからの付き合いみたいだよ」
「加藤段蔵が北条にいた頃からということか」
「あ、三津さんのこと聞いた? 元は北条家の忍者だったって」
「ついさっきな」
そっか、と言って、葵は自分の家の縁側に座った。
「三津さんが忍者を辞めてこの長屋の大家になったとき、私と父上もここに移り住んだの」
段蔵はこの長屋を、忍者であることを隠して生活する拠点にしていた。
もし自分が命を落とすことがあっても葵のことは住まわせてやってほしいと、段蔵は三津にそう頼んでいた。だから葵は、今もここで暮らしている。
「孤高の最強忍者の友人か」
「加藤段蔵が友人のいるような人だとは思わなかった、とか言うんでしょ」
「いや。あの加藤段蔵と友人だったなら、あの人もかなりの腕だったんだろうと思っただけだ」
あの加藤段蔵が、娘を預けるほど信頼していた人だから。
清長が庭の掃除をしてくれるので、葵は朝の時間が空くようになった。少しの間、縁側に座ってのんびりしていたが、ぼちぼち朝飯の支度でもはじめようと、庭の真ん中にある井戸で水を汲み始める。
「今日もあの村へ行くのか」
「ううん、今日はちょっとお休み。ね、たまにはお団子でも食べに行かない?」
「団子?」
「そ、お団子」
葵は水を汲んだ桶を持ち上げて、彼に笑いかけた。
☆☆☆
町はずれに、一軒の茶屋がぽつんと建っている。
そこで店番をする一人の少女が、葵の姿を見つけて元気よく手を振った。
「いらっしゃい、葵ちゃん。と、こちらは?」
後ろを歩く清長を見て、彼女がたずねた。
「最近、長屋で暮らすことになった清さんだよ。そよちゃん、お団子二つとお茶二つお願いね」
「はいはい、ちょっと待ってね。お団子お願いしまーす」
威勢よく叫びながら、そよが店の中へ入っていく。
葵と清長は、店先の長椅子に並んで座った。目線の先には川が流れていて、耳を澄ますと水の流れる音が聞こえる。
「ここのお団子、美味しいんだよ。食べたことある?」
「ある」
あっさり答えた清長の返答は意外なものだった。
「あったんだ。美味しいよね、お団子」
「覚えてない」
「来たの、けっこう前?」
「いや、そんなに前じゃない。だが敵を尾行している途中で、ごまかすために立ち寄っただけだったからな。味は覚えてない」
団子を注文して食べたことくらいは覚えているが、敵の言動に集中していていたので、味なんかに構っている余裕はなかった。
「ね、清さん。忍者衆にいたときって……」
「おい」
葵ははっとして口を抑えた。慌てて周りを見たが、通りかかった人の姿はない。そよも、まだ店の中にいる。
「もう少し気をつけて物を言え」
「ご、ごめん」
「それで、なんだ」
「あ、うん。そこにいたときって、なんか楽しかった思い出とかあるのかなって」
「ない」
「そんなあっさり……」
「お待たせしましたー」
よく通る声を響かせて、そよがお団子を二皿とお茶二つを運んできた。
「ありがと、そよちゃん」
「ごゆっくりどうぞ――ところでさ」
お団子とお茶を長椅子の上に置くと同時に、営業用の笑顔をしまい込んで、そよが葵へ顔を近づける。
「もしかして彼、葵ちゃんの良い人?」
にやにやしながらたずねたそよに、葵があっさり答える。
「うん、良い人だよ。ちょっと愛想なくて顔怖いけど、優しいし」
「あー、うん。そういうことじゃなくてね」
話が通じていないとわかって、そよが今度は清長を見る。
「あなたは、意味わかりますよね」
「こいつと一緒にするな」
そよの言う、良い人、というのはつまり、恋人という意味だ。
「で、実際どうなんです?」
「期待するようなことは全くない」
清長がすっぱりと言うと、そよは「なあんだ」とつまらなそうに言って店へ戻っていった。
「あれ、私、なんか違った?」
「それより顔が怖いってどういう意味だ」
「ごめんごめん、つい」
軽く言って、葵が団子を口にほうばった。
「うん、やっぱ美味しい。清さんも食べなよ」
すすめられて、清長も団子の串を手に取った。敵を尾行しているわけでもなく、追われているわけでなく、ただ茶店で食事をするだけというのは初めてかもしれなかった。
「美味しい」
彼がこぼした一言に、葵が満足そうな顔をする。
「三津さんにもお土産持って帰らないと。すみませーん」
やってきたそよにお願いして、葵は持ち帰り用に団子を三本包んでもらった。
「そういえば、四代目がこっそり餅をくれたことがあった」
葵が受け取った団子の包みを見た清長が、ふと思い出す。
「鍛錬の帰りに景色の良い場所があれば、少し寄り道して連れて行ってくれたこともあった」
遊山、とまではいかないが、それに近いわくわく感はあった。常に戦いの中にありながらも、そういう小さな楽しみを積み重ねながら育ててくれたからこそ、清長にとっての四代目は、首領である以上に父親のような存在だった。
「なんだ。やっぱり楽しいこともあったんだね」
そう言って笑った葵に、清長も「そうだな」と小さく笑った。
☆☆☆
見知らぬ家の屋根の上に、清長はいつもの小袖に袴姿で立っている。
しばらく経って、そこに忍び装束の葵が追いついた。
「意外と早かったな」
清長が振り返った先で、葵は膝に手をついて息を整えていた。
「いやいや、見失わないようにするのに必死だったよ。さすが、速いね」
葵はへろへろと屋根の上に座り込んだ。
細く明るい月が、夜の空に浮かんでいる。外の空気は衣服の下まで染み込んでくるほどに冷たかったが、風がないので、少しの間なら外で座っていられそうだ。
「誰かと一緒に走ったのなんて久しぶりだよ」
段蔵がいた頃は彼と一緒に走ることもあったが、いなくなってからは毎晩一人で走っていた。
「とにかく必死で清さんを追いかけてたって感じだったけど、やっぱり誰かと一緒に走ったほうが楽しいね」
「鍛錬が楽しくてどうする」
「いいじゃない。つまらないよりは楽しいほうが」
ふと、清長が口元に手を当てた。
「どこかで聞いた言葉だな、それ」
「え、誰か言ってた?」
「ああ。四代目がな」
葵は一つ、瞬きをした。
「私と四代目って、ほんとに似てるんだね」
「……まあ、そうだな」
言って、清長が頭をおさえる。
「あれ、なんか困ってる?」
「あんなお気楽な人間がもう一人いるとは思っていなかったからな」
「えーっと、それって褒めてる?」
「褒めてない」
きっぱりと言い切って、清長がため息をついた。
「私も、清さんと父上は似てるなって思うときあるよ。顔は怖いけど実は優しいってとことか」
「お前のそれも褒めてないだろ」
「え、褒めてるよ。言ったじゃない、優しいって」
だが優しいの前に顔が怖いとつけば、それはもう悪口だ。
清長が長屋に来て、五日が経った。
葵は気になっていたことがあった。
「そういえば、北条軍と武田軍の戦って、どうなったの?」
あの日、葵が夜中に抜け出して様子を見に行った戦は、北条軍が守る深沢城へ、武田軍が侵攻したことで始まった戦だった。
「何を今さら」
「今さらって、清さんがここに来てからそんなに経ってないし」
「戦ならとっくに終わってる。北条軍が城から撤退してな」
それはつまり、北条軍の敗北を意味していた。
深沢城は、武田軍の支配下となったのだ。
「いいの?」
「なにが」
「なにがって……」
「俺にはもう関係のないことだ」
未練も何もないと言わんばかりの、きっぱりとした口調だった。
「俺は北条家に仕えていたわけじゃない。四代目がいたから、北条の忍者衆にいただけだ」
その四代目が亡くなった今、彼が忍者衆にいる理由はなくなった。
それでも、長い年月を過ごした忍者衆に、本当に少しの未練もないのだろうか。四代目以外にも、親しくしていた人がいたりはしなかったのだろうか。
気になったけど聞けなくて、葵は両手を口元にかざしてはぁと息を吐いた。じっと座っていると、さすがに体が冷えてくる。
「そろそろ戻るか」
清長が立ち上がった。
「そうだね。あ、帰りはもうちょっとゆっくり……」
ふと、葵は彼の視線が右の方を向いていることに気づいた。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
軽く屋根を蹴って駆け出した清長のあとを、葵も慌てて追いかけた。