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さらに、早い。とにかく事態が動き出すのが早すぎて、週末に向けて加速するジェットコースターのような毎日だった。
潤が「籍を入れる前に、君のご家族に挨拶をしたい」と言ってくれた。
潤の家族側はすでに了承済みで、彼の手元にはお母様が記入した婚姻届があるという。
私も慌てて家族に報告し、引越しの手続きを進めた。
会社への報告は、ひとまず上司にだけ。
結婚にまつわる事務手続きは、許可を取って私自ら処理した。労務部の特権というか、これなら他の人にバレることもないだろう。
まさか、この部署で良かったと心から思う日が来るとは思わなかった。
一息つく暇もなく、次は引越しだ。
今住んでいるのは小さな1LDKのアパート。準備には時間がかかるだろうと思っていたが、住所変更やライフラインの手続きなどは、潤が仕事の合間に進めてくれた。
引っ越しも、「貴重品だけまとめておいて」という潤の指示通りに動いただけだ。リフレッシュ休暇中に業者が来て、あっという間に荷物が運ばれていった。その後の清掃まで業者任せ。
その日から私の環境は、潤の家で『おかえり』と言える環境へと劇的に変化した。
そうして迎えた運命の週末。
午前中にお母さんへ挨拶をして了承をもらい、婚姻届を完成させてから役所へ向かうスケジュールだ。
怒涛の展開に、気持ちが追いつかない。
先日、潤に言われた「週末に抱きたい」という言葉。私はまだ、心の中に返事を用意できていなかった。
この歳になり、処女を守り続けたいとは思っていない。むしろ、元カレの潤ならば……。
いや、今はそれよりもお母さんへの報告だ。怪しまれないよう、態度には気をつけなければならない。
本当の結婚ではないことに、呵責がないとは言い切れない。けれど、ここまできたらこの嘘を完璧にやり遂げなければ、という気持ちが勝っていた。
「ええと、それから、あとは……」
「知佳、大丈夫?」
落ち着いた声にハッとした。
同時に、ホテルのエレベーターが目的の階に到着する。
ここは市内の有名ホテル。私たちは、そこにあるラウンジカフェに向かっていた。
扉が開くと、潤が私の手を取りエスコートしてくれる。
潤はパリッとしたブラックスーツに、淡いブルーのシャツを合わせ、重くなりすぎないよう完璧に着こなしていた。
手を引かれる私も、シックな紺色のワンピースに身を包み、髪を結い上げている。
この場に相応しい服装だ。問題なのは私の心だけ。そう自分を落ち着かせるために口を開いた。
「今からお母さんに挨拶すると思うと、ちょっと緊張しちゃって」
「俺も緊張しているよ」
「そんな風に見えません」
微笑みながら隣を歩く潤は、どこまでも優雅だ。
私たちは磨き抜かれた床を静かに歩き、予約していたカフェに辿り着いた。
天井が高く、開放感のあるガラス張りの窓。白と茶を基調とした内装が目に優しい。
午前中の日差しが燦々と降り注ぎ、遅めのブランチを楽しむ人々が寛ぐ、落ち着いた空間。微かに漂う珈琲の香りに、少しだけ気持ちが和らいだ。
カフェに入る直前、潤の足がぴたりと止まった。
彼は眼鏡の位置を整えながら、私を見つめてくる。
「でも、本当にカフェでの挨拶で良かったのかな。失礼になっていないだろうか」
「それは大丈夫です。逆にこちらの希望に合わせていただいて、すみません」
潤は当初、妹や祖父母にも挨拶をしたいと、有名な懐石料理店を提案してくれたのだ。
けれど母に伝えたところ、「結婚は急だけれど家族は誰も反対していないから、そんな高級店では恐縮してしまう」カフェのような場所で、挨拶も母だけで十分だということになった。
「いや、こちらこそだ。両家顔合わせは父が帰国してからになるし、知佳にはテレビ通話での挨拶になってしまったから」
画面越しではあったが、潤のご両親は私たちの結婚を心から歓迎してくださっていた。
「ちゃんと挨拶をこなせて、よかったです」
騙している自覚はあるが、それも含めての『契約結婚』だ。自分なりに折り合いはつけている。
それでもつい俯いてしまったのか、潤の手が伸びてきて、優しく私の髪を撫でた。
まるで本当のパートナーを労わるような、慈しむような視線に、強張っていた心が解けていく。
「気にかけてくれて、ありがとうございます。私も何も問題ありませんから。潤が考えてくれた『従業員借入制度』の説明もバッチリです」
「会社の制度に関しては、それこそ知佳の十八番だろ。何も心配していないよ」
潤から振り込まれた多額のお金。
いきなり妹に渡せば驚かれるし、心配もされる。そこで潤が提案したのが、福利厚生の『従業員借入制度』という名目だった。
実際にはそこまでの金額は借りられないが、そこは「SACRA独自の新しい福利厚生」という設定で押し通すことにした。そのための口裏合わせも万端だ。
婚姻届も昨日のうちに、二人で記入を済ませている。
「私たち、まるで本当に結婚するみたいですね」
ぽろりと漏れた言葉に、髪を撫でていた潤の手が止まった。
「潤?」
「……限りなく本当だと思ってもらっていい。契約を飲んでもらっている以上、俺にできることは何でもする。それが知佳に示せる誠意だと思っているから」
潤は微かに含みを持たせるように微笑んだ。
「よく分からない上役の娘より、元カノの知佳と結婚するほうが、いいという俺の我儘でもある。それに、上役は一人じゃないから。ひょっとしたら同じようなことが、またあるかもしれない。……やはり、俺には|知佳《奥さん》が必要だ」
「潤……」
「さあ、行こうか」
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最後は冗談めかして、潤の手は私の頬を撫でて離れていった。
もし潤がフリーのままなら、彼を望む人は社内外に数えきれないほどいるだろう。
そんな彼に「必要だ」と言ってもらえることが、純粋に嬉しかった。
温かな気持ちが胸に広がり、私はしっかりと顔を上げた。
「はい。よろしくお願いします」
私は微笑みを返し、潤と共にカフェの中へと足を踏み入れた。
コメント
1件
わあ、第8話……もうスピード感がすごいですね。籍を入れる前の家族挨拶の場面、潤さんの「限りなく本当だと思ってもらっていい」って台詞にグッときました。契約婚なんだけど、彼の誠実さと知佳さんへの想いがにじんでて、胸が温かくなりました。このまま本当の夫婦になっちゃえばいいのに……って思わず応援したくなります!続きが楽しみです!