第九話 名前のない夜
その夜、地下室は異様に静かだった。
明の足音も、スピーカーの声もない。
ただ、換気の低い唸りだけが一定の間隔で響いている。
晴明は椅子に座ったまま、動けずにいた。
空腹は鈍い痛みに変わり、思考を曇らせる。
それでも、今日は“違う”と直感が告げていた。
(……来ない……?)
いつもなら、ここで声が落ちてくる。
「いい子にできてる?」
「我慢できてる?」
それがない。
代わりに、地下室の奥で機械音が鳴った。
短く、断続的に。
何かが“切り替わる”音。
次の瞬間、壁の一部がゆっくりと開いた。
これまで見たことのない、細い通路。
白い光が奥から滲む。
晴明は喉を鳴らした。
「……明くん?」
返事はない。
だが、通路の先に紙が置かれているのが見えた。
白い封筒。
表には、はっきりと自分の名前。
――安倍晴明。
指先が震えた。
それを掴むと、封はすでに切られている。
『選んで。
今夜、外に繋がる扉を一つだけ開ける。
開ければ、戻れない。
開けなければ、ここは永遠になる。
どちらでも、僕は正しい。』
短い文。
整った字。
言い逃れの余地がない。
(……罠……)
それでも、胸の奥で何かが跳ねた。
“外”という言葉。
それだけで、遠い記憶が疼く。
夜風。
紙の匂い。
人の声。
晴明は立ち上がり、通路へ一歩踏み出した。
足が重い。
頭がぼんやりする。
通路の先は二手に分かれていた。
左には、非常灯のような淡い緑の光。
右には、白く、無機質な明かり。
床には、それぞれ札が置かれている。
左――「出口」
右――「名前」
意味がわからない。
だが、理解してしまう自分がいる。
(出口……名前……)
左を選べば、外に出られるかもしれない。
だが、戻れない。
右を選べば、ここに残る。
代わりに――
背後で、声がした。
「考えてる顔だね。お兄さん。」
振り返ると、明が立っていた。
白衣ではない。
私服でもない。
“何者でもない”ような装い。
「怖い?」
そう聞く声は、いつもより低い。
「……外、出してくれるって……書いてある……」
「うん。出られるよ。」
明は否定しない。
それが、いちばん恐ろしかった。
「でもね。」
明は、右の札を指差した。
「こっちは“名前”。
ここを選べば、外の記憶は全部、要らなくなる。」
晴明は息を詰めた。
「……要らなく……なる?」
「うん。
安倍晴明って名前も、外の時間も、怖かった記憶も。
全部、軽くなる。」
明は一歩近づく。
距離は保たれているのに、逃げ場が消える。
「お兄さん、疲れたでしょ。
考えるのも、選ぶのも。」
晴明の膝が震えた。
確かに、もう限界だった。
「……でも……それって……」
「逃げじゃないよ。」
明は静かに言った。
「最適化だよ。」
左の通路から、微かに音がした。
風のような。
人の気配のような。
右は、完全な静寂。
(……外に出たら……)
自分は何者として生きる?
壊れたままの心で?
誰に、何を説明する?
右を見れば、すべてが終わる。
楽になる。
考えなくていい。
晴明は、ゆっくりと札を見つめた。
――「名前」。
喉がひりつく。
唇が動く。
「……明くん……こんなの……おかしいよ……」
「そうだね。」
明は即座に頷いた。
「だから、選ばせてる。」
長い沈黙。
地下の音だけが続く。
晴明は、震える手を伸ばした。
どちらにも触れられる距離で、止まる。
指先が、迷う。
そして――
右の札を、裏返した。
明は、何も言わなかった。
ただ、深く息を吐いた。
「……ありがとう。」
その言葉で、世界が一段、暗くなった。
通路の灯りが消える。
左も、右も。
最後に残ったのは、明の声だけ。
「大丈夫。
名前がなくても……お兄さんは、ちゃんとここにいるから♡」
その夜、
“外へ続く可能性”は、完全に閉じられた。
閉じられたじゃない、僕は逃げという言葉を自分から”切り捨てたんだ”。
コメント
2件
まさか選択をさせるなんて…でも明くんの言葉で一気に選択肢が絞られていった やっぱりそっちを選ぶか…晴明君自身が閉じてしまった