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「音の消える朝」
朝七時になると、家の中から音が消える。
正確には、音はある。母さんが台所で食器を重ねる音。父さんが新聞をめくる音。テレビの中で、知らない人たちが笑っている音。
でも、僕の部屋まで届くころには、全部が薄い膜をかぶっている。
布団の中で、僕は目を開けている。カーテンの隙間から、白い光が床に落ちている。あの光を見ると、学校に行かなければならない時間だとわかる。
わかるだけで、体は動かない。
「起きてる?」
母さんの声が、ドアの向こうからする。
「うん」
返事だけはできる。
「今日は……行けそう?」
その言葉を聞くたび、胸の奥に小さな石が落ちる。昨日も、その前の日も、そのまた前の日も、同じ質問だった。
「わからない」
本当は、わかっている。
行けない。
でも、「行けない」と言うと、それが決定になる気がした。僕が自分で、学校に行かない人間だと認めることになる気がした。
だから、いつも「わからない」と答える。
母さんはしばらく黙ってから、「朝ごはん、置いとくね」と言う。
足音が遠ざかる。
僕は布団の中で、昨日のことを思い出す。
教室の後ろの席。黒板に書かれた日付。誰かの笑い声。僕の机の横を通った男子が、わざと椅子を蹴ったこと。
振り返ったら、そいつは笑っていなかった。
だから、僕が気にしすぎただけなのかもしれない。
先生は何も言わなかった。みんなも何も言わなかった。何も起きていないみたいだった。
何も起きていない場所から逃げた僕は、いったい何から逃げたのだろう。
昼になると、家の中は静かになる。母さんはパートに出て、父さんは仕事に行っている。冷蔵庫の音だけが、僕のいる部屋まで伸びてくる。
スマートフォンには、クラスのグループメッセージが届いている。
『今日、体育あるじゃん』 『だる』 『誰かプリント見せて』
僕の名前は、一度も出てこない。
それなのに、画面を閉じることができない。誰かが僕のことを話しているかもしれないと思って、何度も読み返す。もちろん、そんな言葉はどこにもない。
ないのに、僕の頭の中では、知らない声が僕を笑っている。
午後三時を過ぎると、少しだけ息がしやすくなる。
学校が終わる時間だからだ。
誰も僕を待っていない時間になる。誰も、僕が行かなかったことを責めない時間になる。
夕方、母さんが帰ってくる。
「今日はどうだった?」
僕はテレビを見たまま、「普通」と答える。
母さんは、僕の顔を見る。何か言いたそうにして、結局、言わない。
その沈黙が、いちばん重い。
夜、布団に入る。明日こそ行かなければと思う。明日は起きて、顔を洗って、制服を着て、玄関まで行く。
玄関まで行けたら、すごい。
靴を履けたら、もっとすごい。
学校の門をくぐれたら、たぶん、僕は別の人間になれる。
そう思いながら目を閉じる。
そして朝七時、また家の中から音が消える。
僕は布団の中で、息をひそめる。
誰にも見つからないように。
僕自身にも、見つからないように。
コメント
1件
このエピソード、すごく静かで、でも息が詰まるような空気感が最後まで続いていて、読んでいる間ずっと胸の奥が苦しかったです。特に「音が消える」という感覚の描き方が巧みで、実際には音があるのに主人公には届かない——その距離感が、彼の心の状態をそのまま表しているみたいでした。あと「自分の名前が出てこないグループメッセージを何度も読み返す」ところ、すごくリアルで、そういうことってあるよなって思いました。ラストの「僕自身にも、見つからないように」という一文に、この子の全部が詰まっている気がします。続きが気になります。
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