テラーノベル
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ホテルに部屋を与えられたときから、実家には滅多に戻らなかった。数年振りに足を踏み入れた実家の匂いに懐かしさを感じた。
階段をあがり貴一の書斎の前に立ち、扉をゆっくり開ける。貴一の書斎に入るのはこのときが初めてだった。正面にあるデスクの上には、ノートパソコンと数冊の書籍、伏せられた木製の写真立てに気づくと、結は手を伸ばしてはっとした。
海をバックにして楽しそうに笑っている結は、このとき三歳くらいだろうか。こんな笑顔を両親に向けていたときがあった。貴一はこんな幼い頃の写真を今もどんな想いで見ているのだろか。デスクの上には、青紫色のリンドウの花が描かれた一輪挿が置かれていた。その可憐さがどこか花江を思わせた。
この書斎に来た目的を思い出そうと、大きく息を吐き書斎を見回した。結の目線は背の高い本棚に向く。几帳面な貴一の性格を表すように書籍が整然と並んでいるのに、一箇所だけ本が重なり合うように置かれていた。結はその棚の奥に手を伸ばしてみる。
引き出したものは、角がこすれて白っぽくなったファイルで表紙を捲ったとき、中から紙の束が落ちて床に散らばった。結は慌てて床に膝をついて拾い集めたものは、週刊誌のコピーのようだった。
『若き陶芸家の死と、若きホテル経営者の罪』
大きく躍るように書かれた見出しに、結は無意識に唇を噛んでいた。Kグランドホテルの代表K氏と書かれているが、これは小塚貴一のことだろう。陶芸家とは誰のことだろうか。記事には小さな陶器工房のことが書かれていた。当時の主人は二代目の春日幸一郎と名前があった。
「春日…」
結は思わす声に出していた。
春日幸一郎は陶芸教室を開いており、丁寧で朗らかな幸一郎の教室には多くの生徒が集まっていた。
そしてパート勤めの傍らで工房の隣にある小さな店で、夫の作った作品を販売して家計を支えていた妻の名前が春日花江と書かれていた。そこには結の知らない花江の歴史が書かれていた。
サラリーマンの父とピアノ講師だった母、五歳年上の姉という家庭で育つが、高校生のときに交通事故によって両親を一度に亡くし、姉に支えられて高校を卒業した。
その後は地元の会社に就職して、経理の仕事をしていた。穏やかで周囲への気配りもできて誰からも好かれていた花江にお見合い話が舞い込んできたのは、二十二歳のときだった。その相手が春日幸一郎だ。結婚して間もなく男の子が生まれた。それがあの凛太郎か…。
この世の人と人の巡り合わせとは、どう決められているのだろうか。
この世に漂う幾万、幾億万もの縁(えにし)を結ぶ者はどんな顔をしているのだろうか。
幸一郎の作品を飾り販売していた店に、ふらりとやって来た若い男は、店に飾られている物を熱心に見ていた。それから幾度と店を訪れ花江と話をするようになり、次第に親密な関係になっていった。
まるでその場面を見ていたかのような書き方に、結はだんだん呆れてきた。
心配性で控えめで、でも賢く冷静な花江がふらっとやって来た男と親密な関係になっていくなど、どうしても想像できなかった。
記事はまだ続いている。
小塚貴一と花江の仲を、徐々に幸一郎が疑うようになった。その頃から幸一郎は新しい作品を作ろうとせず、陶芸教室も突然のように閉じてしまったという。
それまでほとんど飲まなかった酒を飲み、声を荒げることも多くなり、ノイローゼになっていった幸一郎は工房の梁にロープをくくり命を絶った。その姿を最初に見つけたのは、当時小学一年生だった息子だと書かれていたが、息子の名前はどこにも書かれていなかった。
そしてこの日を境に妻と息子の姿が見なくなり、まるで神隠しに遭ったようだと近所の人たちは証言している。
結は身体を震わせた。
ずっと両親だと信じてきた人物は。春日幸一郎という陶芸家の死に何か関わっているのだろうか。もしや彼の死は、二人の手によって起きたことなのだろうか。
記事の最後に、文・北見翔とあった。
結は時間をかけて息を吐いた。視線をあげて見えた窓の向こうが夕闇に包まれていた。
あの写真を見たときから、花江に寄りそって幸せそうに笑う少年に嫉妬していた。彼に母親を取られたような気がしていた。
だが花江が結の母親でいる間、彼は淋しい思いをしてはすだ。
何も事情を知らなかったのだから、私は悪くないでしょう。その主張はあまりにも子供じみているというものだろうか。
書斎を出るとき結は一度だけ振り返り、青紫色のリンドウの一輪挿を見つめた。
コメント
1件
書斎の奥に隠されていた真実、重すぎます…。三歳の自分の写真も、青紫色のリンドウも、知らなかった花江さんの過去が結にのしかかってくる感じがひしひしと伝わってきました。写真の少年に抱いていた嫉妬が、今は切なさに変わるのが苦しい。続き、気になります。
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