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「はああ。」
部屋に戻った俺は、殺風景な自室を見て特大のため息をついた。
ここは街の中心部を外れた所にある古いアパートの一室。元々は大学に行く際に家賃も安く便が良いからと借りた部屋だったが、大学を中退し社会人となった今も、引っ越す理由もなくそんなお金もないのでここに留まっている。
だけどファンヒーターも無く、壁も薄いので冬はとにかく寒い。部屋の中だと言うのに口から白い煙が漂っている。おまけに土砂降りの中を走ってきたのだ。染み込んだ雨が冷えて、このままでは風邪をひいてしまう。
そそくさと脱衣所に行き、上着を脱いだ。中には薄手のシャツ。その上からでも分かるくらいに貧弱な体が、洗面台のくすんだ鏡に映った。20歳を過ぎてから、体がすこしずつたるんできているのを実感している。痩せているとはいえ、腹を掴めるくらいの脂肪がついてしまった。少し走っただけでも息切れしてしまう。学生時代はそれなりにあった筋肉も、どこかに消えてしまったみたいだ。それに最近、何ヶ月も腹痛が治らない。体の治癒能力もだいぶ落ちてしまったのだろう。
「────── っくしゅん」
いけない、またぼーっとしていた。早くあたためなくては、体の芯まで冷えてしまう。適当に洗濯カゴから昨日のパジャマを取り出して着る。リビングまで戻って夜飯を食べていないことに気づいたが、食欲もないのでこのまま寝ることにする。薄汚れた畳の上に電気毛布を敷き、もそもそと包まって横になった。
月明かりが薄いカーテン越しに差し込んでくる。部屋全体が青白く染まる。
このまま、死ぬまで平凡に暮らせればいいと思う。もう多くは望まない。生きる意味など、いくら探しても俺には見つかりはしない。平凡に暮らして、平凡に死ねたらいい。平凡な俺にとって、お似合いの望みだろう。
半ば自嘲的な意味の笑みがれる。きっとこのままでいい。俺は、きっとこのままで。
「ごほっ。」
ああ、くそ。
口を押さえた手のひらには、赤黒い液体が飛び散っていた。思い出したように腹痛がひどくなる。
「 …..ああ..!」
咄嗟に、誰かに電話をしようと枕元のスマホに手を伸ばす。しかしやっとの事で手に取ったところで、俺には今、助けを呼べる相手がどこにも居ないことに気づいた。
深い絶望が心を満たしていく。
俺の体が、何かしら良くないのは薄々感じていた。しかし、吐血か。どんな病気にしても、もう末期ではないか。俺は平凡な幸せすら掴めないのか。このまま、死んでしまうのだろうか。
突然の吐血と激しい腹痛に、頭が混乱する。だんだんと思考が掠れて、
──────やがて暗転した。
翌朝、昨夜の激痛が嘘だったかのように何事もなく目覚めた。相変わらず部屋は冷えきっている。雨は止んだようで、暖かい朝日が目を射してきた。
ふと右手を見つめる。やはり、黒く血がこびり付いていた。病院に行くことにしよう。
電気毛布から出ると小さなちゃぶ台に散乱したカロリーメイトとタバコを手に取り、おぼつかない足取りで部屋の外に出る。
「ふぁ、あ。」
大きく伸びをしながら2階の手すりに寄りかかる。
俺の部屋はアパートの2階部分、よりにもよって204号室。今どき、逆に204のあるアパートなんて珍しいんじゃなかろうか。
まあ縁起は良くないが、見晴らしは悪くない。
町外れに住んでいるので、高層マンションとかはほとんどない。低い建物が続いているお陰で、ある程度遠くの景色まで見渡せる。
口元のタバコに火を点け、暫く物思いにふける。
がちゃり、と音がして振り返ると、隣のドアから女が出てきた。
「あら、向田さんじゃないの。おはよう。」確か、上林さんだったか。50歳くらいの、隣に住む気さくなおばさんだ。
「ええ、どうも。」
特に話すこともないし、挨拶だけで済まそうとしたのだが、
「まあ向田さんったら、顔色悪いわよ。ちゃんと食べてる?…あ、あなたそんな物しか食べていないんでしょう!」
手に持っていたカロリーメイトに目をつけられてしまった。
「ちょっとまっててちょうだい、うちに作り置きしてた煮物とかあったかしら。取ってきますから!」
「いえいえとんでもない、お気になさらなくて大丈夫ですよ」
「何言ってるの!しっかり食べないと、そのうち体壊しちゃうわよ!いいからまってなさいね」
時たまこうやっておすそ分けを頂くことがある。俺自身は特にカロリーメイトとサプリだけでも生きていけるから良いのだが、親切にしてもらえるのはありがたい。何より滅多に受けることの無い、人からの厚意が心に染みるのだ。
朝焼けに照らされた住宅街を、数人の小学生がはしゃぎながら通っていくのが見えた。一人ひとりが、希望を持って朝を迎えているのだろう。朗らかな笑い声から、それが伝わってくる。俺にもあんな時期があったのだな、と。なんとも言えない、微笑ましいような苦いような不思議な感覚がする。
タバコを口から外し、足元の空き瓶の中に入れる。同時に隣のドアから勢い良く上林さんが飛び出してきた。
「ほらこれ、作っておいた漬物と筑前煮!おすそ分け、ね!さあさあもっていってちょうだい、あなたも若いんだからしっかり食べないと!」
そう言いながら元気な笑顔で、タッパーと鍋が手渡してきた。
「ありがとうございます、美味しくいただきます」
「ええ、ええ!気にしないで〜!」
どうやったらこんなにも明るく、親切な人になれるのだろう。人付き合いも上手く出来なかった俺にとってこの明るさは、本当に羨ましいものだった。
部屋に戻り、食べるつもりだったカロリーメイトを布団に放って、ちゃぶ台に貰った料理を並べた。鍋とタッパ一の蓋を開けると、長らく嗅げなかった、美味しそうな煮物の匂いが部屋に充満する。
「いただきます。」
キュウリの漬物、筑前煮、どちらも久しぶりに食べる、健康的な食事。暖かい食卓は、やはり心に染みわたる。
ある程度腹が満たされるまで摂り、あとは冷蔵庫に保管することにした。
今は食事を楽しんでいる場合では無い。一刻も早く病院に行くべき状態だ。朝は感じなかった腹の痛みも、だんだん戻りつつある。俺はバイト先の店長に休む旨のメッセージを入れ、パジャマを着替えて外に出た。
とはいえ、自分が危ない状況にある実感は湧かなかった。何かの間違いであって欲しいとは思う。鼻血が逆流してたとか、喉が炎症してただけだとか。
思考のどこかで感じ取っている体のSOSを、認めたくはなかった。せめて平凡に。それすら叶わない可能性があるなんて、俺は悲惨な孤独死をする可哀想な人間だって、認めたくなかった。
最寄りの総合病院に向かう足取りは重くなっていく一方だった。
やっとついた病棟は、相変わらず人気も少なく寂しいところだった。この病院は以前からよく世話になっている。なんせこの不幸な身なので、怪我や病気にかかる事が人一倍多かった。
慣れた動作で受付を済ませ、待合室に入る。余命宣告とか、受けるのだろうか。それなりにまだ、生きていたいと思う。あと40年くらいは健康でいれたら本望だ。長生きしたいとは思わないが、いくら何でも、もうすぐあなたは死にますなんて。流石に無いだろう、そう思っていたのだが。
「あなたの余命は、あと1ヶ月です。」
診断を終えた医師の口からは、はっきりとその言葉が発せられた。