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「じゃあ…」「うん…」
『『せーの』』
その瞬間、今までの想い出が一気にフラッシュバックする。
笑い合った日、泣き疲れた夜、不安で押しつぶされそうだった日々。
全てが鮮やかに蘇ってくる。
ああ、本当に色んなことがあったよね。
この5年間という時間は、決して無駄ではなかった。
『『今まで、ありがとう。』』
全力で笑いながら見つめ合う僕ら。
君の眼には涙が溢れている。
僕もきっと、隠しきれていないだろう。うまく笑えているだろうか。
「プッ…変な顔。」
「え?なんだよそれ。」
「だって、わんちゃんみたいな顔してるんだもん。」
「わんちゃんって…」
犬のことを「わんちゃん」と呼ぶ君。その無邪気ささえ、愛おしいと思える。
本当に君と出会えてよかった。
「ちなみに何犬?」
「うーん、オールド・イングリッシュ・シープドッグ?」
「いや、なんだよその長い名前。普通そこは柴犬!とかトイプードル!とか可愛い名前の犬を言うところだろ。」
「オールド・イングリッシュ・シープドッグも可愛いよ?」
「あ…可愛いの?んー。じゃあまあいいけども。」
初めて聞く犬の名前。だけどそんなことはどうでもいい。
君と話している時間は、やっぱり楽しい。
君と少しでも長く話していたい。
だけど、それが叶わないことを僕らは知っている。
もう遅いんだ。
僕らには、もうなにも残っていない。
君の手を握りながら、僕らはゆっくりと足を前に運ぶ。
1歩…2歩…3歩…
ゆっくり、ゆっくりと二人三脚で歩いていく。
もう進みたくない。足を止めて、引き返したい。
そう考えている間に、気づけば端に立っていた。
「もう一回、せーので一緒に言わない?」
本当に君は「せーの」が好きだな、と僕は心の中で苦笑する。
「またせーの?次は何を言うんだい?」
君は少しだけ間をおいて、小さな声で言った。
「だって私、絶対最後の最後で勇気が出ないからさ?せーの!って言ったら、1人じゃないんだ。大丈夫、って思えるじゃん?」
その言葉に、僕は小さく頷く。
「そうだね。それなら前向きな言葉の方がよさそうだね。」
「前向きな言葉!いいねえ!それにしよう!」
君が嬉しそうに笑う。その笑顔が、胸の奥を切なくさせる。
僕は考えを巡らせながら、言葉を絞り出す。
「うーん。それじゃあね、『いこう』ってのはどう?」
「いこう?何なのそれって前向きな言葉なの?」
君が首を傾げながら尋ねる。その仕草がいつも通りで、何故か安心する。
「なんだか、前に進むって感じがしないかい?かっこつけた言葉を言うのも僕らの柄じゃないしさ。そのくらいシンプルな方がいいんだよ。きっと。」
君は少しだけ考え込む素振りをしてから、頷いた。
「そっかあ。そうだよね。それにしよう。」
ごめんね。本当は前向きな言葉が見つからなかっただけなんだ。
どうしても怖かった。
だから、君に「いこう」って言ってもらえたら、踏み出せる気がしたんだ。
君が僕の手を強く握り返す。その温もりが、不安を少しだけ溶かしてくれる。
夜の静寂の中で、僕らはもう一度向き合う。
「もう、準備はいい?」
君の声が静かな夜に溶けていく。
「もちろんだよ。いつでも、大丈夫。」
僕はそう答えながら、少しだけ息を整えた。手のひらが汗ばんでいるのを感じるけれど、もう迷いはない。
『『せーの』』
暗闇の中に僕らの声が響き渡る。
それが星空に届いたのか、夜が少しだけ澄んでいくような気がした。
静寂が僕らを包み込む。
冷たい空気が肌に触れ、僕はそっと口中の唾を飲み込んだ。そして、再び口を開く。
『『いこう』』
その言葉が君の口から紡がれた瞬間、僕の中で何かが解き放たれた。
君の声は、夜の静寂を切り裂くように真っ直ぐで、揺るぎないものだった。
君の口から聞く最後の言葉。
その響きが胸に深く刻まれる。
言葉と同時に、僕らは一歩を踏み出した。
やっぱりこの言葉にして正解だった。
君と一緒なら、何も怖くない。
冷たい空気が頬を撫でるけれど、手の温もりがそれを全て打ち消してくれる。
静かに夜が僕らを見守っているように感じた。
きっと、ここからまた僕ら二人だけの時間が動き始めるんだ。
仕事なんてしなくてもいい。他人に気を使わなくてもいい。
二人だけの世界で、毎日笑い合って暮らすんだ。
君はずっと手を握ったまま、僕を見つめている。
その瞳は笑顔を湛え、全てを許すように穏やかだった。
「怖いのは分かってるよ」とでも言いたげに、君は何も言わずに微笑む。
僕が怖がっていることに気づいていたんだろう。
ありがとう。
最後の最後まで、僕のことを気遣ってくれて。
本当なら、僕が君を支える番だったのに。
空と地面が逆さまになる。
視界が一瞬で暗転し、次の瞬間、頭の中に押し寄せる過剰な情報。
横断歩道の信号音、どこかで鳴る車のクラクション、
コンビニの前で響く若者たちの笑い声、
ビルの排水管から垂れる水の音―――。
普段なら聞き流してしまうような全ての音が、
この瞬間だけ、異常なほど鮮明に耳に届く。
気づけば、僕は地面に横たわっていた。
冷たいアスファルトが背中を蝕む。
視界の端で君が目を閉じたまま、微かに笑っている。
その表情があまりにも穏やかで、胸が締め付けられる。
君に話しかけたい。君の声が聞きたい。
なのに、どれだけ声を出そうとしても、喉が震えない。
身体に力が入らない。腕も足も、ただそこにあるだけのものに成り果てた。
唯一残された感覚は、君の手の微かな温もりだけだった。
近くで女の子の悲鳴が聞こえる。
「誰か、救急車を呼んで!」という叫び声が遠くで響く。
それでも僕の心は、どこか冷静で、どこか冷めていた。
「もう、このままほっといてくれよ……」
そう心の中で呟いた。
『こんな所で死ぬなよ、気持ち悪い』
『小さい子供もいるんだから、場所くらい考えてよね』
『うわ、すげえ。人死んでる!写真撮っとこ。』
周囲から飛び交う無神経な声が耳に刺さる。
それは痛みというよりも、虚しさだった。
所詮、人間なんてこんなものだ。
表面だけ取り繕い、誰かを思うふりをして、
その実、自分の正義を押し付けることしか考えていない。
僕にとって、本当に心から向き合ってくれたのは、君だけだった。
寒い―――。
全身から熱が失われていくのが分かる。
僕の血がゆっくりと地面に吸い込まれていく音が、頭の中で反響する。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
都会の渋滞に阻まれているのだろうか、一向に近づいてくる気配はない。
眠い―――。
瞼が重く、君の姿がどんどんぼやけていく。
最後に聞こえるのは、救急車の音と自分自身の鼓動。
皮肉なものだ。
この世で一番好きな君の声ではなく、
この世で一番嫌いな救急車の音に見送られるなんて。
僕は思考の深い沼に沈んでいく。
このまま何もかもが薄れていく中で、
唯一、君の手の感触だけが、僕を現実につなぎとめている。
瞳を閉じる直前、君の声が耳の奥で微かに響いた気がした。
「ありがとう、君と一緒で、本当によかった―――。」
それが幻覚なのか、本当に聞こえた声なのかは分からない。
でも、その言葉が僕に残した余韻は、全てを許すように暖かかった。
僕は君の手の温もりを最後に感じながら、静かに意識を手放した。
まるでそれが、星の輝きに溶け込むように―――。