ジリリリリ…ジリリリリ…。目覚まし時計の音が、部屋中に無遠慮に響き渡る。
僕はその音に反応するように手を伸ばし、ボタンを押した。
カチ…。
無音が戻る。けれど、それは静寂とは程遠い空虚な音だった。
「またあの夢か。」
口をついて出た言葉は、自分自身にも呆れ返るほどに乾いていた。
「また退屈な一日が始まってしまった。」
誰に言うでもなく、ただ自分のために言葉を吐く。
生きていることを嘆く。それが僕の一日の始まりだ。
君と二人で屋上から身を投げ出した日、確実に僕は一度死んだ。
心臓が鼓動を止める感覚を、僕は今でも鮮明に覚えている。
あの日、最後まで君は笑ってくれていた。
その笑顔が、まるで彫刻のように僕の脳裏に刻まれて離れない。
君の手を握る感触が、薄れていく瞬間―――、
君の顔が、ぼやけていく様―――、
全てがあまりにも本物だった。
それなのに。
僕は今、こうして息をしている。
何事もなかったかのように朝を迎え、ただ機械的に目を覚ます。
「どうして、こんなことになってしまったんだろうか。」
自分に問いかけるたび、その言葉が宙に吸い込まれていく。
誰も答えてくれないことくらい、最初から分かっているのに。
あの日から、僕の中で時間が止まった。
けれど、世界は容赦なく動き続ける。
窓の外では人々が行き交い、車のエンジン音が遠くから響く。
僕だけが取り残されているような感覚。
まるで、この世界に僕だけが余分に存在しているような―――そんな感覚。
君が隣にいない朝は、どれだけ過ごしても慣れない。
ベッドから見上げる天井は、無機質で冷たい。
君がいた時、こんな朝が来るなんて想像もしていなかった。
僕の心臓が鼓動を止めた後、僕らは駆けつけた救急車隊員によってすぐさま病院に運ばれた。
二人とも心肺停止の状態で、一刻を争う状況だったらしい。
集中治療室に入るや否や、電気ショックによる心肺蘇生が繰り返された。
もちろん、その間の記憶なんて一切ない。
ここまでは、全て僕を担当した医師が教えてくれたものだ。
僕が再び目を開けた時、視界には真っ白な世界が広がっていた。
その光は、僕の瞳を刺すように眩しかった。
(ここが天国なんだ―――。)
胸の奥に奇妙な安堵を覚えながら、心の中で呟いた。
けれど、その瞬間耳に飛び込んできた声が、その幻想を打ち砕く。
「よかった!目を覚ましたのね!」
聞き慣れない声が、部屋の中に響き渡る。
「先生!一〇〇一号室の患者さんが目を覚ましました!早く来てください!」
甲高く耳に突き刺さる声が、白い空間に反響する。
その声に続いて、また違う声が聞こえた。
今度は低く太い、腹の奥に響くような声だった。
「こんにちは。ようやく目を覚ましたんだね。」
「ぐっすり眠れたかい?」
その声に、僕の頭が少しだけ混乱を鎮められる。
けれど、すぐに瞼の奥に広がる光の眩しさに意識が引き戻された。
僕は思わず目を細める。
手で光を遮ろうとするが、腕が重たく動かない。
「眩しいだろうね。」
低い声の主が、僕の様子に気づいてそう言った。
「君は3週間も眠っていたんだから。」
「まだ光に目が慣れていないんだろう。」
3週間―――?
その言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
「何にしろ、君が生きていて本当によかったよ。」
その言葉が、医師の穏やかな声で告げられる。
けれど、僕の心には何一つ響かなかった。
むしろ、その言葉が胸の中に冷たい塊を作るようだった。
僕はゆっくりと周囲を見回す。
白い天井、無機質な壁、規則正しく鳴る医療機器の音―――。
そこは天国ではなく、病室だった。
ここが僕が目を覚ました場所。
現実のど真ん中。
(生きていて、よかった?そんなはずがない。)
心の中で呟きながら、声を出そうとしたその時、
自分の喉が音を発しないことに気づく。
「―――っ!」
声が出ない。
当たり前にできていたことが、今はできない。
その事実が、僕をひどく焦らせる。
「やっぱり、声が出ないんだね。」
医師が僕の動揺を見て、静かに言葉を続けた。
僕は首を上下に激しく動かす。
これが、今できる精一杯の表現方法だった。
「君はあの日、屋上から飛び降りたんだ。」
その言葉が錆びた刃物のように胸を抉る。
「その時に胸部を強く打ち付けたせいで、気管支が酷く損傷している。」
「通常なら時間が経てば治るけれど、君の場合はどうなるか分からない。」
医師の言葉が、あの日の記憶を引きずり出す。
君と一緒に星空を見上げ、手を握り、静かに身を投げたあの瞬間。
救急車のサイレンの音が、耳鳴りのように頭の中でこだまする。
僕は必死に口を動かす。
(僕と一緒に運ばれてきた女性は、どうなったんですか?)
そう伝えたいのに、声にならない。
苛立ちと無力感だけが胸の奥に溢れていく。
医師は僕の焦燥に気づくことなく、
静かにカルテを閉じ、病室を後にした。
残された僕は、ただ白い天井を見つめ続けるしかなかった。
「だめか―――。」
その言葉が心の中をぐるぐると巡る。
医師が一度部屋を出た後、静寂が戻る。
病室には機械の音だけが規則正しく響いている。
僕はただ天井を見つめながら、息苦しい沈黙に耐えていた。
しばらくして、再び足音が響く。
扉が静かに開き、医師が戻ってきた。
手にはメモとペンが握られている。
「手は、動くかい?」
医師が僕の目を見つめながら問いかけた。
すぐさま指先に軽く力を入れてみる。
けれど、まるで自分の体ではないかのようにピクリとも動かない。
焦燥感が胸を掻きむしる。
「動け、動け―――。」
今度は全身の神経を指先へと集中させる。
力を振り絞ったその時、指先がかすかに震えた。
ほんのわずかな動き。それだけで全身が力尽きたように感じる。
無意識に涙が頬を伝い落ちていることに気づいたのは、
枕元のシーツに染みができているのを見た時だった。
情けない―――。
「なんとか、動くようだね。」
医師の穏やかな声が、静寂を切り裂く。
僕は医師の目を見つめ、小さく頷いた。
たったそれだけの動作にも、全身が痛みを訴えてくる。
「これを使って、伝えたいことを書いてごらん。」
医師はメモとペンを僕の枕元にそっと置いた。
その動作には、どこかためらいが感じられた。
まるで僕が何を書こうとしているのかを、恐れているように。
君は無事なんだろうか―――。
今はどこにいるんだろうか。
僕とは違って、きちんと声を出せる状態であればいいのに。
そんな淡い期待を胸に、言うことの聞かない手を必死に動かし、
ペンを握り締めた。
指先に力を込めるたび、腕全体が震える。
一文字書くのにこれほどの労力を必要とするなんて、
今まで想像すらしなかった。
それでも僕はペンを握り続ける。
君のことを知りたい一心で。
やっとの思いで書き終えた紙を見返す。
そこに記された文字は、僕自身でも判別がつかないほどに震えていた。
一か八か。
僕はその紙を医師に手渡した。
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