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EPISODE TWO
二宮との食事会から数日、元貴は完全に腑抜けていた。
五線譜に向かっても、浮かんでくるのは彼の顔ばかり。ふとした瞬間に思い出される
「尊敬、だけじゃないんだろ?」
という声が、心臓を鷲掴みにしてくる。
「完全に恋する乙女じゃん」
スタジオのソファで、若井が呆れたようにスマホをいじる元貴を見つめる。
「うるさい…」
「でもさ、あのニノさんの言い方、脈アリじゃない?」
涼ちゃんが、キラキラした瞳で身を乗り出してきた。
「そんなわけないだろ! からかわれてるだけだって…」
元貴は頭を抱えた。そうだ、きっとそうだ。あの人は、人の心を見透かして、面白がるのが得意な人なのだ。
期待なんてしたら、自分が傷つくだけだ。
そうやって自分に言い聞かせていた矢先、元貴のスマホが震えた。画面に表示された名前に、彼の心臓が跳ね上がる。
『にのさん』
「え…?」
「うわ、マジか!」
「早く出なよ!」
若井と涼ちゃんに背中を押され、元貴は震える指で通話ボタンを押した。
「も、もしもし…」
『あ、元貴? 今、大丈夫?』
電話の向こうから聞こえてくる、少しだけ気怠げで、でも耳に心地よい声。
「だ、大丈夫です!」
『よかった。あのさ、急で悪いんだけど、今夜空いてる?』
「へ…?」
『ちょっと、渡したいものがあってさ』
渡したいもの。その言葉が、元貴の頭の中をぐるぐると駆け巡る。一体、何を?
約束の場所は、都内の洒落たカフェだった。一人で店に入るのは初めてで、元貴は緊張で押しつぶされそうになりながら、カウンターの隅に座る二宮を見つけた。
「ニノさん…お待たせしました」
「お、来た来た。こっち」
二宮は、隣の席をポンポンと叩く。その仕草だけで、元貴の心臓はうるさく鳴った。
「急に呼び出してごめんな」
「いえ、全然…! あの、渡したいものって…」
元貴が尋ねると、二宮は「ああ、これ」と言って、小さな紙袋を差し出した。中に入っていたのは、有名ブランドの喉飴だった。
「こないだ、ちょっと声掠れてたろ。大事な商売道具なんだから、もっと労ってやんなきゃダメだよ」
「え…」
覚えていてくれた。ほんの些細なことなのに。それが、たまらなく嬉しかった。
「ありがとうございます…」
「それだけ。じゃ、帰るか」
二宮は、そう言ってあっさりと席を立とうとする。元貴は、焦った。このまま、また終わってしまう。せっかく、二人きりになれたのに。
「あのっ!」
思わず、大きな声が出た。二宮が、驚いたように振り返る。
「もうちょっとだけ 、一緒にいてくれませんか…?」
それは、元貴にとって、人生最大の勇気だった。二宮は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、ふっと口元を緩めた。
「…元貴がよければね」
その夜、二人はたくさん話をした。音楽のこと、仕事のこと、そして、少しだけ、お互いのプライベートなこと。涼ちゃんと若井のエールの力もあって、元貴はいつもより素直に、自分の気持ちを話すことができた。二宮は、そんな元貴の話を、ただ黙って、優しく聞いてくれていた。
カフェを出て、夜風にあたりながら、二人で並んで歩く。さっきまでの喧騒が嘘のような、静かな時間。
「…楽しかった」
元貴がぽつりと呟くと、二宮はふと立ち止まった。
「元貴」
「はい」
「俺さ、元貴のこと、すっごい気に入ってるんだよね」
「え…」
「後輩として、とか、そういうのじゃなくて」
二宮は、元貴の目の前まで来ると、その両肩を掴んだ。真剣な瞳が、まっすぐに元貴を見つめる。
「元貴の作る音楽も、あんたのその不器用なとこも、全部含めて、面白いなって。もっと知りたいなって、思うんだよ」
それは、告白とは少し違った。でも、元貴の心を満たすには、十分すぎるほどの言葉だった。
「だからさ、また二人で会ってくんない?」
潤んだ瞳でこくりと頷く元貴を見て、二宮は満足そうに微笑んだ。そして、前回と同じように、
「頑張れよ」と頭をポンと撫でると、今度こそ本当に、ひらりと手を振って去っていった。
一人残された元貴は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。ポケットの中の喉飴の箱を、ぎゅっと強く握りしめる。
その夜、元貴のスマホに、若井と涼ちゃんから
「どうだった!?」
というメッセージが何通も届いていたが、彼はそれに気づかなかった。ただ、二宮にもらった言葉を何度も何度も反芻し、甘くて、少しだけ切ない、恋の始まりの味を噛み締めていた。