つまり自分には、人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。
「人間失格」太宰治 から引用
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「乱歩さん、人間、というのは、なぜ腹が減るのですか?」
目の前の、青年に見えなくもない、日本一、いや、世界一とも言えるほどの名探偵に、幼い頃からずっと疑問に思っていた事を、話しました。
空腹、という感覚が、分からなかったのです。
ポートマフィアの最年少幹部として、よりも前に、現ポートマフィアの首領、森鴎外に拾われた時から、お腹は空いているか、と聞かれた時、分からなくとも、持ち前のおべっか精神を発揮して、空いた、といったのです。
この悩みを、例えば国木田くんなどに十個あるうちのひとつを背負わせたところで、生命(いのち)取りになるのやら、全くといっていいほどに、支障が無いのか、検討もつかないほど、自分の悩みが、重いのか、軽いのか、分からないのです。
つまり、人を理解できないのです。
自分の疑問から、数秒経ったとき、ぽかん、と意味がわからないような、変梃(へんてこ)な顔をしてから、彼は「そんなの、当たり前の事だろう?お前は、腹が減るというのが、分からないのか?」と返されました。
分からないのか、と言われると、首を縦に振ることしか出来ず、天下の名探偵どのでも、これが分かる、というのですから、理解されないもの、と、私はこの時、初めて気付きました。
「太宰、お前は、なぜ飯を食べる?」
そんなの、皆(みな)食べているから、としか言えません。
そう言える訳もなく、返答に戸惑っていると、私の頭の中を読んだような(推理能力の高い人ですから、実際に私の頭の中を読んだのでしょう)答えが返ってきたのです。
「お前は、道化が上手だからな」
自分は震撼しました。
道化を演じていたという事を、人もあろうに、乱歩さんに見破られるとは全く思いもかけない事でした。
まるで今、地獄の業火に包まれている何かを眼前に見るような心地がして、わあっ!と叫んで発狂したくなるのを仮面を被ったように、包み隠しました。
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そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。
「人間失格」太宰治 から引用
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皆、この使い古したにも関わらず新品のように精巧なままの仮面を、私の仮面の内だと信じて、やまなかったのです。
でも、この名探偵は違ったのです。
私の外面を、巧く取り繕われた仮面だと、一瞬で見抜かれていたのかもしれません。
ですが、最近気付いたものかもしれない、という可能性も、捨てきれずにいるので(どっちにしても地獄であることに変わりはありませんが、一番最初に気付かれたよりも、最近気付かれた、といわれる方が、よほどましなのです)、不幸中の幸いを祈るばかりでしたが、彼の仕草をよく見ていなくとも、最初から分かっていた、と言わんばかりだったのです。
それが、私の狂気を加速させ、取り繕うのに時間をかけさせるほどに、恐怖の対象なのです。
道化が上手、と褒められたのはいいのですが(実際に周りは何も分かっていない、という事を遠回しに理解出来たような事で、随分気分が良くなりました)、私の仮面を暴く真似をされたもので、彼が恐怖の対象となるには充分だったもので、彼から逃げ出してしまいたい、と本能が叫んでいました。
とてもではありませんが、彼を今後ただの上司、と捉えることは、一切の不可能だと思われたのです。
そこまで私の狂気を加速させたにも関わらず、乱歩さんは平気そうな顔をしていました。
その「いつか自分の仮面を皆(みな)の前で暴かれるのではないか」という不安に苛まれつつ、必死に自分の中からひり出した言葉を、口に出しました。
「そんな、道化とは、どういうことですか?私は、道化なんかではありませんよ」
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