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壬氏が玉葉妃の住まう翡翠宮を訪れる日があった。
他の上級妃の宮にも顔を出してはいるが、翡翠宮へ向かう足取りだけはどこか落ち着かず、それでいて隠しきれない期待が滲んでいる。
「失礼します。玉葉妃」
猫猫と話すときとは違い、立場をわきまえた丁寧な口調で、慎重に言葉を選んでいた。
「どうぞ。ゆっくりしていって」
玉葉妃は温かな笑みを浮かべてそう答える。
壬氏は平静を装っているつもりなのだろうが、その視線が翡翠宮の中を何度もさまよっているのを、玉葉妃は見逃していなかった。
「あら、猫猫なら医局にいるわよ」
そう微笑みながら告げると、壬氏は一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正した。
「……失礼します」
そう言い残し、足早に部屋を後にする。
医局へ着くと、壬氏は出入口からそっと中を覗いた。
猫猫は机に向かい薬を調合しており、傍では医官が毛毛と戯れている。
中へ入って声をかけると、猫猫は驚いたように顔を上げた。
しかしすぐに、わずかに嬉しそうな色がその表情に浮かぶ。
医官は気を利かせたのか、「お茶と菓子を取ってきます」と言って医局を出ていった。
一瞬の静けさ。
二人きりになった空間に、どこか張りつめた空気が漂う。
壬氏は真剣な表情で、猫猫を見つめた。
「先日の件で、話がある」
「……はい」
猫猫はわずかに肩を強張らせ、引きつった表情でそう返事をした。
「単刀直入に聞くが……なぜ、身分の差だけで結ばれない?」
壬氏は猫猫をまっすぐ見つめていた。
その瞳は真剣で、けれどどこか不安を隠しきれていない。
「私たちが良しとしても……皇帝や阿多妃様、それに私の父――羅漢も、承認しないでしょう」
淡々とした声で答えながら、猫猫は視線を落とす。
現実を並べるその言葉は、あまりにも冷たかった。
「……そういうもの、なのか」
壬氏は小さく息を吐き、悲しげにそう呟いた。
沈黙が落ちる。
次の瞬間、壬氏は思い切ったように声を上げた。
「だが……俺と猫猫は、両思いになったんだ!」
握りしめた拳がわずかに震えている。
恥ずかしさを押し殺すように、必死な眼差しで続けた。
「それだけじゃ、駄目なのか……?」
そのときだった。
「お待たせ――」
お茶と菓子を手にした医官が医局へ戻ってきた。
どうやら、入口で先ほどの会話が耳に入っていたらしい。
「えっ!? そうだったのか、嬢ちゃん!」
目を丸くし、次の瞬間には満面の笑みになる。
「早く言ってくれりゃよかったのに〜!いやぁ、めでたい!」
場違いなほど明るい声が、張りつめていた空気を一気に崩した。
猫猫は頭を抱え、壬氏は耳まで赤く染めていた。
猫猫は小さくため息をつき、壬氏に向き直った。
「壬氏様……ここでは、あれですので。場所を移しましょう」
そう言って壬氏の目を見ようとするが、なぜか視線が合わない。
合わせてしまえば、余計な感情まで見透かされそうで、猫猫はわずかに顔を伏せた。
「嬢ちゃん! このことは誰にも言わないから、安心しておくれ」
背後から医官の声が飛んでくる。
猫猫は軽くお辞儀をするだけで応えたが――
(どうせ、そのうち広まるんだろうけど)
そう心の中で呟き、医局を後にした。
静かな別部屋に移ると、張りつめた空気が戻ってくる。
壬氏は一呼吸置き、先ほどと同じ問いを口にした。
「なぜ……俺たちは、思いが通じ合っているのに結ばれないのか?」
声は低く、抑えられている。
だが、その分だけ諦めきれない感情が滲んでいた。
猫猫は少し考え込むように視線を落とし、やがて意を決したように言う。
「……では、一度、皇帝にお伝えしてみるのは、いかがでしょうか」
自分でも無理だと思っている。
それでも、他に道が思いつかなかった。
壬氏は一瞬驚いたように目を見開き、やがてゆっくりと頷いた。
「……そうだな。一度、話をしてみよう」
その表情には、不安と覚悟が入り混じっていた。
数日後、壬氏から呼び出しがあった。
指定された部屋へ向かうと、中には皇帝と壬氏の姿があった。
猫猫は扉の前で一度足を止め、深く息を吸う。
そして静かに扉を開けると、丁寧に頭を下げた。
「遅れてしまい、申し訳ございません」
言葉一つひとつを選びながら口にする。
喉の奥がひどく渇き、背筋が自然と伸びていた。
「座ると良い」
皇帝の短い言葉に促され、恐る恐る席につく。
逃げ場のない空気に、胸が締めつけられた。
やがて皇帝が視線を壬氏へ向ける。
「今日は、話があって呼び出したのだろう?」
猫猫には発言を許される立場ではない。
壬氏が一歩前に出て、口を開いた。
「私と猫猫は、互いに思いが通じ合っております」
その声は落ち着いているようで、唇がわずかに震えている。
「ですので……婚約することを、お許しいただけないでしょうか」
一瞬の沈黙。
皇帝は猫猫を一瞥し、淡々と言った。
「その娘と瑞では、身分の差が激しいであろう」
猫猫は思わず息を呑む。
壬氏も一瞬言葉に詰まったが、それでも視線を逸らさなかった。
「……承知しております。ですが、身分の差など関係なく、私は結ばれたいのです」
必死に絞り出すような声だった。
しかし皇帝は間を与えず、言葉を重ねる。
「仮に婚約が認められれば、瑞は皇帝となり、その娘は皇后となる」
その声には感情がない。
だからこそ、現実だけが突きつけられる。
「――その覚悟は、あるのか?」
猫猫の胸に、冷たいものが落ちた。
あまりにも現実的で、あまりにも重い問いだった。
「……それでも、私は猫猫と結ばれていたいのです」
壬氏の言葉に、皇帝は難しげに目を細めた。
「羅漢の娘よ」
名を呼ばれた瞬間、猫猫の背筋が強張る。
「よいのか。婚約し、王后となっても」
――発言が、許された。
猫猫は一瞬だけ息を整え、口を開く。
「私は……皇后にはなりたくありません」
言葉を選びながら、それでも視線を逸らさず続けた。
「ですが、壬氏様と結ばれたいです」
間違えてはいけない。
一語一句を確かめるように、皇帝へ想いを伝える。
「なぜ、皇后になりたくない」
淡々とした問いが返ってくる。
「なぜ、と申しますと……」
猫猫は一瞬だけ考え、覚悟を決めた。
「玉葉妃様を、敵に回したくないからです」
その一言で十分伝わったようにも思えたが、皇帝はなおも問いを重ねた。
「なぜ、玉葉妃を敵に回したくない」
皇帝の寵愛を受けている玉葉妃のことを、皇帝の前で口にしたのは、無粋だったかもしれない。
(……首と胴が離れるまで、あといくつ数えればいいんだろう)
そんな考えが頭をよぎりながらも、猫猫は答えた。
「玉葉妃様のご子息が、次の皇帝になられる可能性が高いと思いますし……玉葉妃様ご自身も、そう望まれているでしょうから」
無粋ではないか。
そう思いながらも、言葉を引っ込めることはしなかった。
「……そうか」
皇帝はそれだけ言うと、視線を壬氏へ戻した。
「その娘は、そう言っている。お前はどうする」
険しい眼差しが突き刺さる。
壬氏は一瞬も迷わず答えた。
「猫猫が皇后になりたくないのなら、私も皇帝にはなりません」
「では、婚約もしないのか」
「いいえ」
壬氏ははっきりと言い切った。
「立場がどうであれ、私は猫猫と結ばれていたい」
その瞳には、揺るがぬ決意が宿っていた。
「……そうか」
皇帝はしばし沈黙したのち、静かに口を開いた。
「二人の婚約を認めよう」
その言葉に、部屋の空気がわずかに変わる。
「だが、これから先のことは二人でよく考えるといい。
羅漢や阿多妃にも、こちらからそれとなく伝えておこう」
それ以上の説明はなかった。
許しを与えると同時に、責任もすべて投げ渡す――そんな声音だった。
(……本当に、いいのか?)
猫猫は内心でそう呟いた。
あまりにもすんなりと話が進み、現実感が追いつかない。
壬氏は深く頭を下げた。
「……感謝いたします」
その声には、安堵と決意が混じっていた。
皇帝はそれ以上何も言わず、手で退出を促す。
猫猫も慌てて姿勢を正し、丁寧に一礼した。
「失礼いたします」
二人は静かに部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、張りつめていた緊張がふっと抜ける。
その後、壬氏と猫猫は時間をかけて話し合った。
立場のこと、これからのこと、望む距離のこと。
簡単な道ではない。
それでも――
自分たちは、どうありたいのか。
その答えだけは、二人の中ではっきりと定まっていた。
数日後、玉葉妃へ報告の場が設けられた。
「まったく……先に聞いていれば、心の準備もできたものを」
そう言って小さく頬を膨らませるが、その瞳に怒気はない。
やがてため息まじりに微笑み、頷いた。
「仕方ないわね。……おめでとう」
その一言で、胸に溜まっていたものが少し軽くなった。
その足で、猫猫は花街へ向かった。
養父、やり手婆、そして顔なじみの妓女たちへ報告するためだ。
話を聞いた妓女たちは、笑いながら、そして泣きながら祝ってくれた。
「猫猫が幸せになってくれて私達、とても嬉しい」
その言葉が、何より嬉しかった。
養父とやり手婆は、少しだけ寂しそうな顔をしていた。
けれど、最後には何も言わず、静かに頷いた。
それで十分だった。
壬氏は皇族でありながら、皇位継承から正式に外れることとなった。
表舞台から一歩引き、責務は負うが、頂には立たない道を選んだのだ。
猫猫は宮廷薬師となり、後宮に仕え続ける。
皇后になることはなく、これまでと変わらず、薬と向き合う立場を選んだ。
二人の間には、確かに身分の差は残っている。
だが、それはもはや致命的なものではなかった。
皇帝もまた、その選択を静かに受け入れた。
こうして――
壬氏と猫猫は、それぞれの立場を保ったまま、結ばれることとなった。
──二人が結ばれるまで、 後編・完