テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
4,165
次の日は、昨日までよりもずっと静かだった。
点滴の規則正しい音と、遠くから聞こえる看護師さんの足音。
カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めていると、昨日とは違う、控えめなノック音がした。
「……入るぞ」
返事をするより先に、扉が静かに開く。
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の男の人だった。
背筋がすっと伸びていて、表情はどこか固い。
この人が——なつさん。
「起きてた?」
声は柔らかい。
でも、言葉一つ一つが、慎重に選ばれている感じがした。
「ん、ああ、俺はなつ。
らんと、いるまと、あとこさめから聞いとる」
そう言って、俺の少し離れた位置に立つ。
すぐには近づいてこない。
「……記憶、無いんだよな」
「…………はい」
答えると、なつさんは小さく頷いた。
「まぁ、生きてて良かったよ」
それだけ言って、静かに椅子に座る。
沈黙が落ちる。
不思議と、気まずさはなかった。
ただ、空気が重い。
重いけど、嫌じゃない。
「すち」
名前を呼ばれた瞬間、胸が小さく跳ねた。
「……お前は、自分のこと、あんまり大事にしない人やった」
淡々とした口調。
責めるでもなく、諭すでもなく。
「周りのことばっかり見てて。
自分がどれだけ無理してたか、気づかないまま」
その言葉が、胸の奥に静かに刺さる。
「でも……」
少しだけ、声が低くなる。
「どんなに傷付いたって、無理したって。
それでも前に立つのが、すちだった」
頭の中で、何かが軋んだ。
「……」
言葉が出てこない。
なつさんは、俺の反応をじっと見ていた。
追い詰めるようでもなく、逃がすようでもなく。
「無理に思い出そうとしなくていい」
静かな声。
「大丈夫」
一拍、間を置いて、なつさんは言った。
「すちは、すちやけぇ。」
その瞬間、胸の奥が、じん、と熱を持った。
「……なつさん」
初めて、自分から名前を呼んでいた。
なつさんは、少しだけ目を見開いてから、ほんの僅かに笑った。
「それでいい」
なつさんは立ち上がり、扉へ向かう。
「また来るな、待ってろよ」
扉が閉まる音は、驚くほど静かだった。
でもその後、しばらくの間、
胸の奥に残った感覚は消えなかった。
柔らかくて、だけれど鋭くて。
確かに刺さっていた。
失った記憶はまだ戻らない。
それでも。
俺の中で、また一つ。
パズルの形が、はっきりしてきた気がした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!