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「約束通り結婚し、可能な限り望みを叶えてきた。一切束縛もしなかった。それをいいことに散々好き勝手して来たな。どうせ今日も男と会って来たのだろう。不倫はこれで何度目だ?」
「……も、もしかして怒ってるの? 清隆はそういうの気にしない人だと思ってたんだけど」
「気にしない訳ないだろ? これまで何度、お前が好き勝手した後始末をして来たと思ってるんだ?」
希咲がトラブルを起こした相手に謝罪をして、慰謝料を支払ってきたのは名木沢だ。
好きでしていた訳じゃない。夫としての責任だと思ってのことだった。
それをいいことに希咲は増長して、やりたい放題だった。
名木沢はそれまで慰謝料で蹴りが着くならいいと思っていた。
しかし園香からの連絡を受けてから考えが変わっていった。
自分が耐えればいいと思っていたが、それは違う。希咲は多くの善良な人々を傷つけているのだと、
それまで目を背けていた事実を突き付けられた気がしたのだ。
もう希咲を庇うような真似はしない。彼女は自分で責任を取るべきだ。
そうでなければ、いつまでも同じことを繰り返す。
「清隆、ごめんね。そんなに気にしてると思わなかったから。不倫はもうやめるから機嫌を直して? 私は清隆と離婚したくなんかないんだよ?」
希咲は先ほどまでの強気が嘘のように、名木沢にすり寄ってくる。
演技に決まっているが、本当に申し訳なさそうに感じているような、弱々しさだ。
彼女と不倫をした男たちは、こういった庇護欲を掻き立てるような表情や、小悪魔のような色気に夢中になったのだろうか。
そんなことを考えながら、名木沢は嘲笑した。
(本当に嘘ばかりの女だ)
希咲が離婚を拒むのは、名木沢が神楽家グループ創業者の一族だからだ。
財産と人脈、そして経済界での地位。名木沢の妻であれば、おおくの面で優遇される。
しかし彼女が離婚を拒む一番の原因は他にあると考えている。
名木沢が希咲と出会ったのは、もう二十年以上前。彼女はまだ十才にも満たない子供だった。
当時、政治家だった名木沢の父の、最も信頼している秘書が希咲の父親で、家族ぐるみの付き合いだった。
しかしあるとき名木沢の父に違法な献金の疑惑が囁かれ、そこからさまざまな問題に発展して大きな騒動になってしまった。
結局政治家生命は絶たれたが、その騒動の最中、希咲の両親が交通事故亡くなった。
車を運転中に心臓発作を起こしたことで起きた事故だが、体調が悪化した原因は過労とストレスにあると考えられた。
希咲の父は秘書として、批判だけでなく誹謗中傷の矢面に立っていたのだ。
名木沢の父親は責任を重く感じ、両親を亡くした希咲の後見を引き受けた。
希咲と同居まではしなかったが、父は彼女への援助を惜しまず、常に気にかけていた。
彼女の境遇は気の毒ではあるが、物質的な面では何不自由なく育ったはずだ。
更に父は自分が重い病気にかかると、名木沢と希咲の結婚を言い出した。
彼女が将来困らないようにしたかったのだろう。
しかし名木沢は希咲との結婚は気が進まなかった。
彼女に対して、気の毒だとは思いながらも、よい感情を持っていなかったからだ。
結局、遺言まで残した父の願いを無下にできず、希咲が契約結婚でもいいと言ったため応じたが、今になって後悔している。
この結婚はお互いにとってよくなかった。
希咲は、どんなに尽くしても、名木沢たちを許さない。
両親が亡くなったのは、全て名木沢家のせい。自分が被害者だという意識が抜けないのだろう。
だから何をしても許されると思っている。
彼女は日頃から罪悪感からくる償いの気持を煽り、全て吸い尽くそうとしているかのようだ。
(同情心も罪悪感も、とっくに消えてしまったというのに)
父は十分に償いをしたと思っている。そこでもう終わっていいのではないだろうか。
契約結婚をするときに、相手に重大な過失があった場合は、契約を終了すると条件をつけてある。
希咲は好き勝手やって来た。名木沢が結婚生活を続ける必要はない。
「近い内に離婚について話し合いたい。結婚期間に見合う財産分与はするし、当分の生活援助はするから、今後の身の振り方について考えておいてくれ」
「えっ? ちょっと待ってよ! 清隆、私はそんなの認めないからね!」
追いすがる希咲を振り切り、名木沢は自室に入り鍵をかけた。
◇◇
希咲はバタンと少し乱暴な音を立てて閉じたドアに、恨みが籠った視線を向けた。
思い通りにならない状況に苛立ちが募る。
(なによ、あの態度は!)
あまりに酷い態度ではないだろうか。
もしかしたら後悔した彼が出て来るかもしれないと、その場でドアが開くのを待っていたが、しばらくするとその場を離れ、足音荒く階段を下った。
契約結婚だけあって希咲と夫の部屋は離れている。名木沢が二階で希咲は一階だ。
一階を希望したのは希咲だ。時間を気にせず出入り出来るのに便利だからだが、今は夫の出入りをチェックするのに都合がいい。
自室は広い和室二間を改装したものでかなり広い。家具も服も希咲が好むものを揃えている快適な空間だ。
物質的に満たされ、自由もある。こんな生活を与えてくれる名木沢は、希咲にとって理想的な夫だった。
半年前までは。
夫に対して違和感を覚えるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
希咲は部屋の中央で存在感を放つ大きなソファに、どさりと座り込んだ。
目を閉じると、つい先ほどのやり取りが浮かんできた。
(……やっぱり清隆の態度は前と違うよね)
希咲を見る目が、無関心から苛立ちに変化した。
初めは仕事が上手くいかず不機嫌になっていると思っていた。しかしそんなことで離婚を口にするはずがない。
清隆は決して希咲を捨てられないのだから。
(でも、清隆は今日、あの女と会っていた)
――富貴川園香。
瑞記の妻で、希咲が大嫌いな女。
彼女を初めて見かけたのは、希咲が美倉空間で働いていた頃。仕事でソラオカ家具本社を訪れたときだった。
ただすれ違っただけなのに、初めから気になり印象に残る相手だった。
その後も、直接関わる機会はなかったが、打合せに行く度に彼女を見かけた。
特別に目立つ行動をしていた訳じゃない。真面目に働いていたし、一見態度も控え目。
けれど周囲は彼女に対して、かなり気を遣い接していた。
明らかに他の社員と待遇が違う。
希咲は昔から、そういった人の微妙な態度の違いを見抜くのが得意だった。
だから園香に関心を持った。
ちょうどその頃、ソラオカ家具の担当者とプライベートでも付き合い始めたので、彼女の情報を簡単に聞くことが出来た。
『ねえ、ちょっと気になる人がいるんだけど』
簡単な特徴を伝えただけなのに、答えがすぐに返ってきた。