朝の旅館。 障子の隙間から差し込む光が、畳の模様をゆっくりと照らしていた。 すずは、少し早く起きて、髪を結びながら窓の外を見ていた。 昨日の夜のことが、まだ胸に残っていた。
(海の“守りたい”って言葉、あれは本気だった) (でも、私は……誰かの隣に立つ勇気が、まだない)
女子部屋の布団で、りいなが寝返りを打つ。
「ん〜……朝ぁ……?」
「起きて。朝ごはんだよ」
「え〜、眠い〜……」
すずは、りいなの寝癖を直しながら、少しだけ笑った。 (この無邪気さが、誰かを揺らしてる)
一方、男子部屋。
はるきは、すでに着替えを済ませていた。 海は、鏡の前で前髪を整えている。
「今日、りいなに話すつもり?」
「様子見て。タイミングは逃さない」
「俺も。朝食の席、隣狙う」
「じゃあ、勝負だな」
二人は、軽く拳を合わせた。 でも、その拳の裏には、譲れない気持ちがあった。
朝食の広間。 4人は、並んで座った。 すずは端に、りいなが真ん中。 その両隣には――はるきと海。
「おはよ〜!昨日のゲーム、楽しかったね!」
りいなが、笑顔で言う。 はるきも海も、その笑顔に少しだけ心を揺らす。
「りいな、今日の予定って決まってる?」
はるきが、さりげなく聞く。
「ううん、まだ。みんなでどっか行きたいね〜」
「じゃあ、海辺とかどう?」
海が提案する。
「いいね!写真撮りたい〜!」
すずは、黙って味噌汁をすする。 その横顔を、海がちらりと見た。
(すずは、もう一歩引いてる。俺たちの勝負だ)
はるきは、りいなの茶碗に味噌汁をよそって渡す。
「昨日、星見てるとき寒そうだったから。今日は暑くなるけど、気をつけて」
「ありがと〜!はるきって、ほんと気が利く〜」
海は、少しだけ眉を動かした。
「りいな、昨日の“好き”って……誰に言ったの?」
その問いに、りいなは箸を止めた。
「え?……秘密って言ったじゃん」
「でも、気になってる人は、気になると思うよ」
はるきが、静かに言う。
「……え、なに?二人とも、なんか怖いんだけど」
りいなが笑いながら言う。 でも、その笑顔は、少しだけ揺れていた。
すずは、茶碗を置いて、立ち上がった。
「ごちそうさま。先に部屋戻ってるね」
その背中を、海が見送った。 はるきは、りいなを見つめていた。
「今日、選ばせる。絶対に」
その朝。 笑い声の裏で、静かな火花が散っていた。
りいなは、まだ“誰も選ばない”まま。 でも、はるきと海は、もう待つ気はなかった。
選ばせるための一日が、始まった。
(りいな視点)
朝の空気は、昨日よりも澄んでいた。 旅館の裏手にある展望台までの道を、4人で歩いていた。 空は青くて、風は少し冷たい。 でも、富士山はくっきりと見えていた。 まるで、何かを見透かすように、静かにそこに立っていた。
「ねえ海〜!富士山バックに撮って〜!」
私は、笑いながらスマホを差し出す。 海は受け取って、少し離れた位置からカメラを構える。
「もうちょい右!そう、そこ!笑って!」
「え〜、寒い〜!でも、富士山きれい〜!」
くるくると回りながらポーズを取ると、海が笑いながらシャッターを切る。
「はい、ナイス!モデルかよ」
「えへへ〜、海の撮り方がうまいんだよ〜」
私は、海の隣に駆け寄って、スマホを覗き込む。 海の肩に自然と手が乗る。 その距離が、近すぎることに気づかないまま。
「見て見て!このジャンプのやつ、めっちゃいい!」
「ほんとだ。富士山に飛び込んでるみたい」
「これ、保存保存〜!あとで送ってね!」
「もちろん。りいなフォルダ、増えてくな〜」
「え〜、なにそれ〜!私専用!?やば〜!」
私は、笑いながら海の腕を軽く叩いた。 海は、少しだけ照れたように笑った。
そのやり取りに、はるきは黙っていた。 すずは、少し離れたベンチに座って、笑顔で見ていた。
「頑張ってよ…」 すずが、はるきに向かって言う。
その声に、はるきが少しだけ顔を上げた。 でも、何も言わなかった。
私は、富士山の方へ向かってピースをする。 風が髪を揺らして、富士山の白が空に溶けていく。
「りいな、ジャンプしてみて!」
「え〜!ジャンプ!?富士山に飛び込む感じ?」
「そうそう!いける?」
「いくよ〜!せーのっ!」
私は、思いっきりジャンプした。 海がシャッターを切る。 その瞬間、笑い声が空に響いた。
「最高!これ、絶対保存!」
「やった〜!インスタ映え〜!」
私は、海の隣に駆け寄って、スマホを覗き込む。 海の肩に自然と手が乗る。 その距離が、近すぎることに気づかないまま。
はるきは、拳を握っていた。 すずは、笑顔のまま、目を伏せていた。
(なんで、りいなばっかり…)
すずの心の声は、誰にも聞こえない。 でも、その笑顔の裏で、何かが静かに崩れ始めていた。
「ねえ、すずも撮ろうよ〜!」
私が声をかけると、すずは少しだけ笑って立ち上がる。
「うん。じゃあ、4人で撮ろうか」
海がスマホをセットして、セルフタイマーを押す。 4人が並ぶ。 私は、真ん中。 右に海、左にすず。 はるきは、すずの隣。
「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴る。 その瞬間、風が吹いて、私の髪が海の頬に触れた。
「……あ、ごめん!」
「いや、いいよ。なんか、映画みたいだった」
「え〜、なにそれ〜!照れる〜!」
私は、笑いながら髪を整える。 海は、少しだけ目を伏せた。
はるきは、そのやり取りを黙って見ていた。 拳は、まだ握られたまま。
すずは、笑顔のまま、目を伏せていた。
私は、富士山の写真を見ながら、ただ笑っていた。 でも、その笑顔が誰かを傷つけていることに、まだ気づいていなかった。
(はるき&海視点)
(はるき視点)
富士山が見える展望台。 空は澄んでいて、風は少し冷たい。 でも、りいなの笑い声がその空気を温めていた。
「ねえ海〜!この写真、最高〜!」
りいなが海に駆け寄る。 その笑顔は、昨日よりも無邪気で、昨日よりも遠く感じた。
俺は、少し離れた位置からその様子を見ていた。 拳を握る。 それは、嫉妬でも怒りでもない。 ただ、どうしても言えない気持ちが、拳の中に溜まっていく。
(あいつは、りいなにとって“特別”なのか?)
そう思った瞬間、胸が苦しくなった。 昨日の夜、りいなが俺にだけ見せた笑顔。 あれは、俺だけのものじゃなかったのか。
「……楽しそうだな」
すずが隣で言った。 その声は、笑っているようで、少しだけ冷たかった。
「うん」
それしか言えなかった。 すずの視線が、りいなと海を追っているのがわかる。 でも、俺も同じだった。
(海視点)
りいなの笑顔は、俺のカメラロールの中で輝いていた。 ジャンプする瞬間、髪が揺れる瞬間、富士山をバックに笑う瞬間――全部、俺だけが見ていた。
「りいなフォルダ、増えてくな〜」
冗談のつもりだった。 でも、はるきの表情が固まったのを見て、すぐに後悔した。
(はるきも、りいなが好きなんだろうな)
わかってる。 でも、譲れない。 りいなの笑顔を、誰かに渡す気にはなれなかった。
「ねえ、海〜!この写真、最高〜!」
りいなが駆け寄ってくる。 その距離が、近すぎることに気づいている。 でも、離れられない。
「うん。りいな、ほんとに絵になるよ」
「え〜!褒めすぎ〜!」
笑いながら、俺の腕を軽く叩く。 その瞬間、はるきの視線が刺さる。
(ごめん。でも、俺は――)
言葉にできない気持ちが、胸の奥で燃えていた。
(はるき視点)
海の隣で笑うりいなを見ていると、心がざわつく。 でも、りいなの笑顔を曇らせたくない。 だから、何も言えない。
「はるき、写真撮ろうよ〜!」
りいなが声をかけてくる。 俺は、笑顔を作って、カメラの前に立つ。
でも、心は揺れていた。 海と並ぶりいな。 その距離が、俺には遠すぎた。
(中学の頃から、海はいつも“中心”だった)
運動もできて、話も面白くて、誰とでも仲良くなれる。 俺は、いつもその隣にいた。 でも、りいなだけは――俺の方を見てくれていた気がした。
(あの夜、りいなが俺にだけ見せた笑顔。あれは――)
でも、今のりいなは、海の隣で笑っている。 その笑顔が、俺の中の何かを静かに壊していく。
(海視点)
はるきの沈黙が、痛いほど伝わってくる。 でも、俺も譲れない。 りいなの笑顔を、俺だけのものにしたい。
でも、それはきっと――誰かを傷つける。
(はるき&海)
富士山は、静かにそこに立っていた。 何も言わず、ただ見つめていた。 4人の揺れる心を、すべて見透かすように。
(すず視点・短く挿入)
すずは、少し離れたベンチに座っていた。 りいなの笑顔。 海の視線。 はるきの沈黙。
全部、見えていた。 でも、誰にも言えなかった。
(私だけが、誰にも選ばれない)
そう思った瞬間、笑顔が少しだけ崩れた。
(すず視点)
富士山が見える展望台。 空は澄んでいて、風は少し冷たい。 でも、りいなの笑い声がその空気を温めていた。
私は、少し離れたベンチに座っていた。 りいなが海に駆け寄る。 その笑顔は、昨日よりも無邪気で、昨日よりも遠く感じた。
(りいなって、ほんとに太陽みたい)
誰にでも笑いかけて、誰からも好かれて、誰も傷つけるつもりなんてない。 でも、その笑顔が――私を置いていく。
「ねえ、海〜!この写真、最高〜!」
りいなの声が響く。 海が笑って、スマホを見せる。 はるきは、黙ってその様子を見ている。
(はるきも、海も、りいなが好きなんだ)
わかってる。 でも、誰も言わない。 だから、私も言わない。
「すずも撮ろうよ〜!」
りいなが私に声をかける。 私は、笑顔を作って立ち上がる。
「うん。じゃあ、4人で撮ろうか」
海がスマホをセットして、セルフタイマーを押す。 4人が並ぶ。 私は、りいなの隣。 でも、その距離が遠く感じた。
「はい、チーズ!」
シャッター音が鳴る。 その瞬間、風が吹いて、りいなの髪が海の頬に触れた。
「……あ、ごめん!」
「いや、いいよ。なんか、映画みたいだった」
「え〜、なにそれ〜!照れる〜!」
りいなが笑う。 海が照れる。 はるきが黙る。 私は、笑う。
(私だけが、誰にも選ばれない)
そう思った瞬間、笑顔が少しだけ崩れた。 でも、誰も気づかない。
(中学の頃、りいなと出会ったとき、私は救われた気がした)
明るくて、優しくて、誰にも壁を作らない。 でも、りいなの“誰にでも優しい”は、時々残酷だった。
(私だけを見てほしいなんて、言えない)
だって、そんなこと言ったら、りいなが困る。 海も、はるきも、きっと傷つく。 だから、私は笑う。
「すず、こっち向いて〜!」
りいなが手を振る。 私は、笑顔で手を振り返す。
その笑顔の裏で、心が少しずつ冷えていく。
(私の居場所って、どこなんだろう)
富士山は、静かにそこに立っていた。 何も言わず、ただ見つめていた。 4人の揺れる心を、すべて見透かすように。
(りいな視点)
展望台からの帰り道。 すずと二人で、木漏れ日の中を歩いていた。 風は少し冷たくて、でも心地よかった。 富士山はもう見えなくなっていたけど、空は澄んでいて、鳥の声が遠くで聞こえていた。
「ねえ、さっきの写真、めっちゃよかったよね〜」
私はスマホを見ながら笑う。 すずも笑ってうなずくけど、その笑顔は少し硬かった。
(すず、なんか無理してる……?)
そんなことを思った瞬間だった。
「おーい、そこの子たち〜!」
前方の木陰から、男子高校生4人組が現れた。 制服姿。 少し派手な髪色。 そのうちの一人が、ニヤニヤしながら近づいてくる。
「観光?写真撮ってあげようか〜?」
「え、あ……大丈夫です」
すずが小さく答える。 でも、彼らは引かない。
「そんな冷たくしないでよ。せっかく出会ったんだし〜」
「ねえ、どこから来たの?横浜?かわいいじゃん」
私は、すずの腕をそっと掴んだ。 空気が、急に重くなった。 笑い声が、嘲笑に聞こえた。
「ちょっとだけ話そうよ〜。写真だけでもさ〜」
彼らが一歩近づく。 すずの顔がこわばる。 私も、声が出なかった。
そして――腕を掴まれた。
「ちょ、やめて……!」
声が震える。 すずも隣で「やめてください」と叫んでいた。 でも、彼らは笑っていた。
「ちょっとだけでいいからさ〜、こっち来てよ」
私とすずは、無理やり引っ張られて、森の奥の小さな小屋のような場所に連れていかれた。 古びた木の扉。中は薄暗くて、埃っぽい。 ドアが閉められ、鍵の音がした。
「ここなら誰にも邪魔されないしさ〜」
私は、すずの手をぎゅっと握った。 心臓の音がうるさいくらい響いていた。
「やめて……お願い……」
一人の男子が、私の顔を覗き込んできた。 距離が近い。 その手が、私の肩に触れようとする。
「ちょっとだけ、ね?怖くないから」
(怖い……怖い……誰か……)
すずが私の前に立とうとした。 でも、もう一人がすずの腕を掴んで引き離す。
「邪魔しないでよ。こっちはこっちで楽しむからさ〜」
私は、壁際に追い詰められていた。 その手が、私の髪に触れようとした瞬間――
「離れろ!!!!」
ドアが、爆音とともに吹き飛んだ。 木の破片が舞い、光が差し込む。
海とはるきが、怒りに満ちた顔で立っていた。 その姿は、まるで映画のワンシーンみたいだった。 でも、現実だった。
「何してんだ、てめぇら!!」
はるきが叫ぶ。 海は、すずの腕を掴んでいた男を突き飛ばす。
「女の子に手出すとか、最低だろ!!」
男子たちは一瞬たじろぐ。 でも、すぐに反発する。
「なんだよ、お前ら。関係ねーだろ」
「関係あるに決まってんだろ!!」
はるきが、拳を握った。 海も、怒りを抑えきれない顔で睨みつけていた。
私は、震えていた。 涙が止まらなかった。 声も出なかった。
「りいな……ごめん……」
はるきが、震える声で言った。 でも、その直後――殴り合いが始まった。
「ふざけんな!!」
はるきが殴った。 海も、男の肩を掴んで突き飛ばす。 怒鳴り声と衝突音が、小屋の中に響く。
「やめて!!お願い、やめて!!」
私は叫んだ。 すずも、泣きながら止めようとしていた。
でも、拳は止まらなかった。 はるきの目は怒りに燃えていて、海の表情は冷たく鋭かった。
「お前ら、二度と女の子に近づくな!!」
「次やったら、許さねえからな!!」
ようやく、彼らが引いていった。 逃げるように、森の奥へ消えていった。
海とはるきは、肩で息をしていた。 拳は赤くなっていた。
私は、しゃがみ込んで泣いていた。 体が震えて、声が出なかった。
「りいな……俺たち……守るつもりだったのに……」
はるきが、目を伏せて言った。 海も、拳を見つめていた。
「なのに……りいなに、泣かせることになっちゃった……」
すずが、そっと私の背中をさすった。 私は、涙を拭きながら言った。
「ありがとう……でも、もう……大丈夫……」
でも、心の奥では、まだ震えが止まらなかった。
(怖かった。ほんとに、怖かった) (でも、海とはるきが来てくれた。守ってくれた) (なのに、私が泣いてることで、2人が傷ついてる)
私は、立ち上がって、海とはるきの手を握った。
「ありがとう。ほんとに……ありがとう」
その手は、少しだけ震えていた。 でも、温かかった。
展望台からの帰り道、りいなとすずが先に歩いていった。 俺と海は少し遅れて後を追っていた。 そのとき、遠くから聞こえた叫び声。
「ちょ、やめて……!」
りいなの声だった。 胸が一気に締め付けられた。 走った。海も隣で無言で走っていた。
小屋の前に着いたとき、鍵がかかっていた。 中から、りいなの泣き声。すずの叫び。
「離れろ!!!!」
俺は、ドアを蹴った。 木が割れて、光が差し込む。 その瞬間、目に入ったのは――壁際で震えるりいな。
男が、りいなの肩に手を伸ばしていた。 その光景が、頭を真っ白にした。
「何してんだ、てめぇら!!」
怒鳴りながら、拳を振るった。 海も隣で殴っていた。 怒りしかなかった。 守れなかった自分が、許せなかった。
「りいな……ごめん……」
俺の拳は赤くなっていた。 でも、りいなの涙の方が、ずっと痛かった。
(俺が、泣かせた。守るつもりだったのに)
その後悔が、拳よりも深く刺さった。
すずとりいなが先に歩いていった。 はるきと俺は、少し遅れていた。 そのとき、りいなの声が聞こえた。
「やめて……お願い……」
走った。心臓が爆発しそうだった。 小屋の前で、はるきがドアを蹴った。 中に入った瞬間、りいなが壁際で震えていた。
男の手が、りいなの髪に触れようとしていた。 その瞬間、頭が真っ白になった。
「最低だろ!!」
怒鳴りながら、男を突き飛ばした。 拳が勝手に動いた。 守りたかった。 でも、間に合わなかった。
「りいな……俺……」
言葉にならなかった。 りいなの涙が、俺の胸を締め付けた。
(俺が、泣かせた。守れなかった)
その悔しさが、拳よりも重かった。
りいなと二人で歩いていたとき、男子たちに絡まれた。 怖かった。 でも、それ以上に――りいなが守られている姿が、胸に刺さった。
小屋に連れていかれて、りいなが壁際で震えていた。 私は、前に出ようとした。 でも、腕を掴まれて引き離された。
(私じゃ、守れない)
その瞬間、ドアが吹き飛んだ。 海とはるきが現れた。 怒鳴って、殴って、りいなを守った。
私は、ただ見ていた。 りいなが泣いている。 でも、その涙は――誰かに抱きしめられていた。
(私じゃない)
その事実が、静かに心を裂いた。
(りいなは、守られる。私は、見てるだけ)
嫉妬だった。 でも、言えなかった。 だから、背中をさすった。 優しいふりをして。
(りいな視点)
旅館に戻ったのは、夕暮れ前だった。 空は茜色に染まっていて、富士山の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。 でも、私の心はそれどころじゃなかった。
玄関をくぐった瞬間、畳の匂いが鼻をくすぐった。 いつもなら「旅館って落ち着く〜」って言ってたはずなのに、今日は違った。 足が重くて、声が出なくて、笑えなかった。
部屋に入ると、誰も言葉を発さなかった。 私たち4人は、同じ空間にいるのに、まるで別々の世界にいた。
私は、布団の端に座って、膝を抱えた。 まだ、体が少し震えていた。 海とはるきは、向かいの壁にもたれて黙っていた。 すずは、窓際で外を見ていた。
沈黙が、重かった。 時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
「りいな……水、いる?」
海がそっと声をかけてくれた。 私は、うなずくだけだった。 手が震えて、コップを持つのが怖かった。
海が差し出した水を、両手で受け取る。 その手が、少しだけ触れた。 温かかった。
「ごめん……俺……」
はるきが言いかけて、言葉を詰まらせた。 その目は、ずっと私を見ていた。
「守るつもりだったのに……泣かせてしまった」
私は、首を振った。
「違うよ……来てくれて、ほんとに……嬉しかった」
でも、涙がまた溢れそうになった。 その涙が、はるきの顔をさらに曇らせた。
海も、拳を握っていた。 その手は、まだ赤かった。
「俺……あのとき、もっと早く気づいてれば……」
「そんなことない……海が来てくれて、助かったの……」
私は、二人の顔を見て、笑おうとした。 でも、うまく笑えなかった。
すずは、ずっと窓の外を見ていた。 その背中が、少しだけ遠く感じた。
(すず……何考えてるんだろう)
「すず……大丈夫?」
私が声をかけると、すずはゆっくり振り返った。 その笑顔は、少しだけ冷たかった。
「うん。りいなが無事でよかった」
その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。 すずの目は、私じゃなくて――海を見ていた。
(私が守られてること、すずはどう思ってるんだろう)
沈黙がまた戻ってきた。 でも、今度は違った。 それぞれが、何かを抱えてる沈黙だった。
私は、布団に横になった。 海がそっと毛布をかけてくれた。 その手が、優しかった。
「ありがとう……」
「ううん……俺、りいなのこと……」
海が言いかけて、はるきが顔を上げた。 その目が、海を見ていた。
「……俺も、りいなのこと……」
空気が、また張り詰めた。 私は、目を閉じた。
(選ばなきゃいけないの?) (誰かを選ぶってことは、誰かを傷つけるってこと?)
その問いが、心の奥で響いていた。
「りいなは、誰にも選ばれなくていいって言ってたよね」
すずの声が、静かに響いた。
「でも、誰かに守られてるときって、選ばれてるのと同じじゃない?」
私は、何も言えなかった。 すずの声は、優しいのに、痛かった。
「私、誰にも守られなかった」
その言葉に、海とはるきが顔を伏せた。 私も、目を伏せた。
(すず……ごめん)
でも、謝ることが正しいのかもわからなかった。
その夜。 誰も言葉を発さなかった。 でも、心の中では、叫び声が響いていた。
(りいな視点)
「……ちょっと、外、歩かない?」
海の声は、静かだった。 でも、その静けさの中に、あたたかさがあった。 私を見つめる目が、少しだけ揺れていた。
部屋の空気は重かった。 すずは窓の外を見たまま、はるきは黙ってスマホをいじっていた。 誰も、私たちの会話に反応しなかった。
私は、少しだけ迷った。 でも、うなずいた。
「……うん」
海は、そっと立ち上がって、私に手を差し出した。 その手は、あたたかかった。 私は、ためらいながらも、その手を取った。
廊下を抜けて、旅館の裏手にある小道へ。 夜風が、髪を揺らした。 虫の声が、遠くで響いていた。
海は、私の手を離さなかった。 指先が、ぴったりと重なっていた。 そのぬくもりが、心まで染みていく。
「……ごめんね、急に」
海が言った。 私は首を振った。
「ううん……外、出たかったから」
本当は、海と二人になりたかったのかもしれない。 でも、それを言葉にするのが怖かった。
「りいな……今日、ほんとに怖かったよね」
私は、うなずいた。 でも、海の顔を見られなかった。
「俺、あのとき……走ってる間、ずっと“間に合え”って思ってた」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
「間に合ってくれて、ほんとに……ありがとう」
海は、少しだけ笑った。 でも、その笑顔はどこか切なかった。
「俺さ……守りたいって思ってたけど、りいなは“守られなくていい”って言うじゃん」
私は、立ち止まった。 海も、足を止めた。
「でも、隣にはいたいって思うの。 守るとかじゃなくて、ただ……隣にいたい」
その言葉が、夜風に溶けていった。 私は、海の顔を見た。 その目は、まっすぐだった。
「……それって、選ばれること?」
私の問いに、海は少しだけ考えてから、首を振った。
「違う。選ばれなくても、隣にはいられる。 俺は、そういう距離でいたい」
その言葉に、少しだけ涙が出そうになった。 でも、私は笑った。
「……海って、ずるいね」
「え、なんで?」
「そんなこと言われたら、隣にいたくなるじゃん」
海は、照れくさそうに笑った。 その笑顔が、夜の静けさを少しだけ溶かした。
私たちは、また歩き出した。 手は、ずっとつながったまま。 ときどき、海が私の手をぎゅっと握る。 そのたびに、心が跳ねた。
「りいなってさ、手ちっちゃいよな」
「えー、普通だよ。海がでかいだけ」
「いや、こうしてると、守りたくなる」
「またそれ言う〜」
私は笑って、海の肩に軽く頭を乗せた。 海は驚いたように一瞬止まったけど、すぐに笑って、私の頭をポンポンと撫でた。
「……なんか、落ち着く」
「俺も」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
「ねえ、海」
「ん?」
「私、誰も選ばないって決めてるの。 誰かを選ぶと、誰かを傷つけるから」
海は、少しだけ黙った。 でも、手は離さなかった。
「それでも、俺は隣にいたい。 選ばれなくても、りいなの隣に」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。 でも、私は笑った。
「……じゃあ、今だけは選んでいい?」
「え?」
「“今夜は海と一緒にいたい”って、選んでもいい?」
海は、少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「もちろん。今夜は、俺がりいなの隣、独占する」
その言葉に、私は笑って、海の腕にそっと絡めた。 肩が触れて、手が重なって、心が少しだけ軽くなった。
(すず視点 → はるき視点)
(すず視点)
りいなが海と部屋を出ていった瞬間、空気が変わった。 畳の上に残されたのは、私と、はるき。 スマホの画面を見てるふりをしてる彼の指は、止まっていた。 窓の外には、星が滲んでいた。 涙のせいか、心のせいか、わからなかった。
(なんで、こんなに苦しいんだろ)
りいなに嫉妬してるわけじゃない。 海に怒ってるわけでもない。 ただ、はるきの目が、ずっとりいなを追ってることが、 私の心を、静かに壊していった。
「……はるき」
声が震えた。 でも、止められなかった。
「私、はるきのこと、好きだった」
その言葉が、部屋の空気を変えた。 虫の声が遠くに聞こえる。 波の音が、静かに響いている。 でも、部屋の中は、沈黙だけが支配していた。
はるきが顔を上げた。 驚いた顔。 でも、すぐに目をそらした。
「……すず」
「ずっと、見てた。 りいなを見てるはるきの目も、 りいなに優しくするはるきの声も、 全部、好きだった」
はるきは黙っていた。 その沈黙が、答えだってわかってた。 でも、言葉にしてほしかった。
「でも、私じゃダメなんだよね」
「……ごめん」
その言葉で、涙がこぼれた。 でも、泣きたくなかった。 泣いたら、はるきが優しくしてくれるかもしれない。 でも、それは“りいなじゃない誰か”への優しさでしかない。
「そっか。うん、わかってた。 でも、言いたかった。 言わなきゃ、ずっと自分が自分じゃない気がして」
はるきは、何も言わなかった。 ただ、私の隣に座って、静かに肩を並べた。
「すずは、すずのままでいいよ」
その言葉が、少しだけ救いだった。 でも、それ以上は望まなかった。
私は立ち上がって、窓の外を見た。 りいなと海が並んで歩いている姿が見えた。 肩が触れて、手がつながって、笑い合ってる。
「……私、守られなかった」
ぽつりとつぶやいた。 誰にも聞こえないように。 でも、はるきは聞いていた。
「りいなが泣いてるとき、海もはるきも、すぐに動いた。 でも、私が泣いても、誰も気づかないと思う」
その言葉に、はるきは何も言えなかった。
「りいなって、無自覚に誰かを選んでる。 それが、いちばん残酷なんだよ」
その声は、静かだった。 でも、その静けさが、痛かった。
「……私、もう焼かれるのはやめる。 自分の光を探す」
その言葉を残して、私は部屋を出た。 涙は止まっていた。 でも、心はまだ揺れていた。
(はるき視点)
すずの告白は、予想してなかった。 でも、どこかで気づいてた。 すずが、俺を見てること。 すずが、りいなに嫉妬してること。 全部、気づいてたのに、見ないふりをしてた。
「……ごめん」
それしか言えなかった。 俺の心は、ずっとりいなに向いてる。 それは、変えられない。
でも、すずの涙は、俺の胸を刺した。
「すずは、強いよな」
「強くなんかないよ。 ただ、誰にも選ばれないのが怖かっただけ」
その言葉が、痛かった。 俺も、同じだったから。
「俺も、選ばれたいって思ってる。 でも、りいなは“選ばない”って言う。 それでも、俺は、りいなの隣にいたい」
すずは、少しだけ笑った。 その笑顔は、泣きながら笑う人の顔だった。
「はるきは、焼かれてもいいって言ったよね。 私は、もう焼かれるのはやめる。 自分の光を探す」
その言葉に、俺は何も言えなかった。 ただ、すずの背中が、少しだけ遠くなった気がした。
窓の外には、りいなと海が並んで歩いていた。 その光景が、まぶしすぎて、痛かった。
この夜、すずは告白して、振られて、 でもそれは“終わり”じゃなくて、“始まり”だった。 誰かに選ばれなくても、自分を選ぶ勇気。 それが、すずの一歩だった。
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