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第5部 選択
第25章 顔
二月九日。
山梨から戻った駅の改札の向こうに、舜がいた。
黒いコートに、マフラーもせずに立っていた。
冬の風に髪が少し乱れている。いつからそこにいたのか。
手はポケットに入れていた。指先が、赤かった。
柔太朗は、改札を出た。
二人は、しばらく見つめ合った。
「……荷物」
舜が言った。それだけだった。
柔太朗は、鞄を差し出した。舜は、それを受け取った。
何も聞かなかった。どこにいたのか。何をしていたのか。「おかえり」も、「ごめん」も、言わなかった。
ただ、柔太朗の左手を見ていた。
人差し指の、開いた輪を。
長い間見ていた。
「……綺麗やな」
小さな声で、言った。
「うん」
それだけだった。二人は、並んで歩き出した。
それから、四日が過ぎた。
その間、大事なことは何も話さなかった。
舜は、毎朝、アトリエの扉を静かにノックして、おはよう、と言った。
柔太朗も、おはよう、と返した。
それだけ。何かを言いかけて、やめる。そういう間が何度もあった。
柔太朗は、待っていた。責めずに。急かさずに。
あの人が、自分の言葉で話し出すまで。
二月十三日の午後。会議室に四人が揃った。
長机の向こうに勇斗。こちら側に、舜、仁人、柔太朗。
「本日は、お時間をありがとうございます」
勇斗は、立ち上がって頭を下げた。いつもの、明るい笑顔だった。
ただ、少し緊張しているのが柔太朗には分かった。
「先ほど、ヴェルディエの役員と話をしてきました。買収ではなく、資本提携という形で進める方向で、合意が取れました」
仁人の肩が、わずかに動いた。
勇斗は資料を配った。三人の前に一冊ずつ。
説明が始まった。
二割五分の出資。工房の共同利用。海外店舗での販売。共同ライン。
柔太朗には、経営の細かいところは半分も分からなかった。
けれど、人の顔はよく見える。それは昔からだった。
「株主間契約について、ご説明します」
勇斗が言った。
「ブランドとデザインの権利は、創業者三名全員の同意なしに、誰にも移転できません。ヴェルディエにも、です」
その瞬間、仁人が目を閉じた。
ほんの一瞬だった。まぶたが静かに下りて、また上がった。
誰も、気づかなかったかもしれない。柔太朗だけが見ていた。
「それから、買い戻し条項です」
勇斗は続けた。
「将来、ヴェルディエの持ち分を、定めた価格で買い戻せる権利。名義は創業者三名です」
仁人の肩が少し動いた。
三名。
その言葉を、勇斗は、はっきり言った。ゆっくりと。
そして、勇斗の目が仁人を見た。
仁人も勇斗を見た。
一瞬だった。ほんの一瞬。二人の視線が、空中で静かにぶつかった。何かが、そこで通じた。
二人とも、すぐに逸らした。
仁人の耳の端が、赤かった。
勇斗の声が、次の説明に入るとき、半音だけ柔らかくなっていた。
柔太朗は、心の中で思った。
あ、そうなんだ。
小さく笑いそうになるのを、こらえた。
この人たちが、何を隠しているのか。何を預け合っているのか。
全部は、分からない。けれど、それが、悪いものではないことは分かった。
隣の舜を、ちらりと見た。
舜は、資料を見ていた。数字の並ぶページ。目が、上から下へ動いている。何かを確かめている。
「質問、ええか」
舜が口を開いた。
勇斗が頷いた。
「キャッシュの推移。出資の入金時期は?」
「契約締結から、三か月以内です」
「出資額で、来月末のキャッシュは?」
仁人が横から答えた。
「今の六割から、八割五分まで戻る。これから続く材料費の支払いに充分耐えられる」
「五年のキャッシュフローと損益予測は?」
勇斗が表を示した。舜は、それをじっと見た。
柔太朗は、その横顔を見ていた。数字を追う舜の顔。冷静で頭の切れる、経営者の顔。
この顔を、柔太朗は何度も見てきた。取引先の前で。商談の場で。
長い沈黙があった。
「……売る気は、なかった」
舜が、静かに言った。
「最初から、ずっと。話を聞くだけ、降りる線を引くだけ、と思うとった。せやけど」
舜は、資料を閉じた。
「売らんでええ形やな、これは」
会議室が静かになった。
「会社は、うちのまま。柔の権利は、三人の同意なしに動かん。仁ちゃんの、買い戻しの名義も入っとる。工房が動いて量産の壁が抜ける。現金も戻る」
舜は、勇斗を見た。
「ええ設計や。……ありがとう」
「いえ」
勇斗は頭を下げた。
それから、舜は隣を向いた。
柔太朗のほうを。
「柔は」
その声が、少し掠れていた。
「どう、思う」
柔太朗は、瞬きをした。
あの取締役会の場面が蘇った。俺が断る。そのほうが、角が立たん。あのとき、この人はそう言った。
今、この人は聞いている。
「共同ラインは」
柔太朗は、ゆっくり言った。
「僕が決めます。今は、あの人と、一点だけ作ります。指輪を二つ。それぞれの手で」
「……ああ」
「作ってみて決める。契約はそのあとで」
舜は、しばらく黙っていた。
喉が、動くのが見えた。何かを飲み込むように。
「……それで、ええ」
声が揺れた。
「柔が決めることや。俺の承認は、いらん」
膝の上で、舜の手が強く握られていた。関節が白かった。
この言葉を言うために、どれだけの力が要ったのか。柔太朗には分かった。
「柔が、一人で決めたらええ。……反対せえへん」
そこで、舜は顔を上げた。
柔太朗を見た。
その目が、逸れなかった。
書類でも、数字でもなく。壁でも、窓でもなく。まっすぐ、柔太朗の目を見ていた。
あの日の会議室の声が蘇る。
僕のためって言うたびに、舜の顔、僕を見てないよ。
今、舜の顔は僕を見ている。
その事実が、胸の奥に静かに落ちた。じんと、温かかった。ただ、その目を見返した。
「うん」
柔太朗は頷いた。
「基本合意書をお持ちしました」
勇斗が、書類を机に置いた。
基本合意書。契約の本番の前に、大枠で合意したことを確かめ合う書類だ。
法的な拘束力は限定的で、細部はこれから詰める。けれど、どこに向かうのか、その方向を全員で確認する。
「署名は」
舜が言った。
「三人で」
仁人の目が揺れた。
柔太朗は、その揺れを見ていた。
仁人は、これまで多くの契約に、一人で署名してきた。その理由を、柔太朗は知らなかった。
ただ、「三人で」という舜の言葉に、仁人が、何か大きなものを受け取ったことは分かった。
舜がペンを取り、署名した。
仁人に、ペンを渡した。
仁人は、それを受け取った。指が、ペンの上で止まった。
震えていなかった。
しっかりした手だった。仁人は、静かに署名した。一字、一字、丁寧に。
ペンが、柔太朗に回ってきた。
自分の名前を、書いた。三人分の署名が、紙の上に並んだ。
不思議な光景だった。三つの名前。それぞれの筆跡。
舜の、大きくて勢いのある字。仁人の、几帳面な、まっすぐな字。自分の、細い線。
三つが、一枚の紙に並んでいる。
勇斗が、その紙を静かに見ていた。
署名が終わった。
「ありがとうございます」
勇斗が、書類を受け取って一礼した。
会議室を出ようとした勇斗を、仁人が呼び止めた。
「勇斗さん」
「はい」
「今夜。……私は、二人に話をします」
勇斗の目が、大きくなった。それから静かに頷いた。
「はい」
「聞いていてください、とは言いません。ただ」
「ええ」
「終わったら、連絡します」
「……待っています」
勇斗はそう言って、部屋を出ていった。
扉が、閉まる。
仁人は、舜と、柔太朗を見た。
「舜太、柔太朗」
声は静かだった。
「今夜、二人に話がある。俺から先に」
柔太朗は、自分が舜と話すはずだった今夜を、思い出した。
けれど、仁人の顔を見て分かった。この人は決めたのだ。
「うん」
柔太朗は、頷いた。
舜は、少し驚いた顔をした。それから、仁人の目をまっすぐ見た。
「……ああ」
短く答えた。
「聞く」
窓の外で、二月の午後の光が、少しずつ傾いていった。
コメント
1件
うわ、この話めっちゃ沁みた……。改札で待ってた舜、「綺麗やな」って指輪の跡を見た一言だけで全部伝わるのすごい。会議室で舜が「反対せえへん」って言うとき、喉動いてた描写でどれだけの覚悟か分かって泣きそうになった。しかも最後、仁人が「今夜話す」って自ら決めたの、この三人やっと向き合えるんだなって思ったら胸熱だった🔥