テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「臣、様。あなたが澪様のお兄様……」
小さく声を上げると、お兄様は私の方に向かって桜の花のように優しく微笑んで来た。
「こんにちは。君はここ、藤井屋に何か用があったのかな?」
「あ、いえ。実はこれを澪様に渡したくて」
おずおずと、ずっと持っていたノートを差し出す。するとお兄様は手にとり。ぱらりとノートの中身を見た。その指先運びだけでとても品があった。
「ふむ。これは藤井屋の帳簿と言うよりか、澪の覚書きかな。ふふっ。相変わらず澪は几帳面だな。へぇ。株の取引を……さすが読みがいい」
お兄様は興味深く、どこか楽しそうにノートをさっと目を通して私を見た。
「この字は澪の|筆跡《手》に間違いない。どうして君がこれを持っているのかな?」
お声も心地よい春風みたいだ。
お兄様は前屈みになり、私と目線を合わせて来た。
まるで生徒の相談を親身に聞く先生みたい。
しかし、私は自分の立場をなんと言っていいかわからず。口篭るとお兄様は微笑された。そして、私の姿を頭からつま先のてっぺんまで見つめると。
「──いや。聞かないでおこうか。何か君には君の事情があるようだ。君は何かの理由でこのノートを手にした。そして、ちゃんと持ち主のところに戻そうとしてくれたんだ。それで充分だ。ありがとう。俺から澪にちゃんと渡しておこう」
穏やかにそう言い、私の肩をポンポンと叩いた。
そしてスーツの上着のポケットから、赤いセロハンに包まれた飴玉を取り出し。私の手に握らせた。
「俺は甘いものが好きでね。お裾分けだ」
至近距離で微笑まれて胸がドキッとした。これが臣様! とんでもないお人!
これ以上、声をかけられると洗いざらい、全てを話してしまいたくなると思った。
飴玉をぎゅっと握り締める。
「あ、ありがとうございます。では、失礼しますっ」
それだけを言うと、私は脱兎の如くその場を後にした。
少し離れてから、走りながら言葉が出た。
「はっはっ。あの方が澪様のお兄様、臣様。あんな方がいるなんて!」
藤井屋の人達が果心居士と言っていた意味がわかった。けど、そうじゃない。あの人は──。
「きっと凄く優しい人だ」
そう。そして勘がいい。人の心の機微を掴むのが上手いのだろう。
だって、何も言わなくても私のことを察してくれた。
はぁはぁと、ゆっくりと速度を落として大通りに入る手前で息を整える。
あんな優しそうな人が果たして、本当に自分の弟を蔑ろにするだろうか。
両親と同じように見た目で、差別したのだろうか。
それは──。
「わからないや……」
はぁっと大きく、肩を落とす。
藤井兄弟。知れば知るほど謎が深まるばかり。
私は握り締めしていた飴玉を見つめ、ゆっくりと息を整えるのだった。
※※※
千里が子うさぎのようにその場を離れると、藤井屋の小間使いの男達ははっとして、臣に慌てて「おかえりなさいませ」と頭を下げた。
臣はそれを緩やかにただいまと、つぶやいてから。男達に声を掛けた。
「それはそうと、あの子供はなんだったんだい?」
「そ、それが。私共にもよく分からなくて。突然英語で喋るかと思ったら、澪様の知り合いでノートがどうしたとか……。そんな事を言われて私共も困っていたところで」
「小さな子供が澪の知りあい。それに──英語? あの子供は英語を喋れたのか?」
「へ、へぇ。外国人と何か会話をしてました」
すると臣は手にしていたノートを口元に当てた。臣がそのような動作をするだけで、ただのノートが扇子のように見える。
「不思議な子だね。英語も喋れて、澪の子供の時の着物を身に付けて……」
その言葉は臣の独り心地にしかすぎない。
そしてほんの少しだけ、口角が上がったのも誰も気が付かない。
それは千里の姿を見て遠い昔。兄弟仲良く遊んでいた姿を思い出したからだ。
臣の胸に懐かしさが広がるが、その気持ちは周囲にバレてはいけない。少なくともお茶会が終わるまではと、臣は思い。
ノートを下ろすと、いつものように男達に向かって微笑んだ。
「よし。この件はひとまずこれでいい。ノートは俺が預かって置こう。君達は仕事を再開する前に、ここの掃き掃除を頼むよ」
「掃き掃除?」
すると臣は白い指先を下に向けた。そこには捨てられた煙草の吸い殻があった。
「俺はね。息抜きも仕事に大事だと考える。けれども場所を汚すのは違う。裏門から出て行くお客様もいる。そのお客様のことを考えて今後も仕事に励んでくれ。期待しているよ」
スッキリとそう言って、裏門をくぐる臣に男達は「失礼しましたっ」と深く頭を下げた。
小間使いの男達は内心、油を売っていたことを見抜かれ肝を冷やしただろう。
臣からやんわりと注意をされた方が怒鳴られるより、よっぽど気を引き締める効果があった。
なぜならこの臣も堺を代表する豪商の一人。
その力は大阪の有力な権力者の一人と言って差し支えない。
そんな人物に小間使いの男達は反論など、出来るはずもなく。臣が去ってから素早く裏門の掃除に取り掛かるのだった。
※※※
私は澪様のお兄様と出会い、混乱しながらもなんとか今日の夕食の食材を買って。お寺を見ることもなく家に帰宅した。
しかし買った野菜と魚を前にして、いい献立が浮かばず鍋にした。
大丈夫。堺の昆布で出汁をとったお鍋はなんでも美味しくなると信じて、パパッと作り上げた。
あとは煮えるだけだと、鍋の前に椅子を持って来て座りながら考える。
「あの人の良さそうなお兄様と仲が悪い澪様。それは、えっーと。臣様が優しいと言うのはある意味、優柔不断だからで……お兄様は両親にも弟にも良い顔をしたから、澪様はお兄様と仲が拗れた……?」
自分で考えた推測はまったく、しっくり来なかった。けどそのまま、考えたことを口に出して行く。
「で、澪様はそんな状況でもお仕事を頑張ったのに、家督はあのお兄様が継ぐことに。だったら嫌がらせぐらい、したくなる気持ちもわかるけど」
澪様が本当に家業や家族を嫌いだったら、見切りをつけて出て行きそう。
澪様なら違う場所でも活躍出来るのでは。
藤井屋を出て行かない理由が何か、あるような気がする。
そしてお兄様は本当に優柔不断が理由で、澪様と仲が悪くなったのだろうか。
「なにか、違う気がする……でも、そのなにかは見えない」
掴めそうで掴めない。それは、なんだろうと鍋を見つめる。
くつくつとお鍋から香る出汁に、空腹を刺激されたとき。ふと閃いた。
「そうだ。お兄様は優柔不断とかじゃなくて、なにか言えないことがあるとか? だって、澪様のノートを見て優しく笑っていた。お兄様はお兄様なりに、澪様を想っている。澪様も──」
口に言葉を出そうとしたとき、お鍋がくわっと沸騰して慌てて火を止めた。
そして味見する。
「ん。美味しい。お出汁がまろやかでお魚もしっかり煮えてる。これは雑炊も良いかもしれない」
よく出来たと安心すると。
食べ物の香りじゃない、良い香りがふわっとして。
「ふーん。美味そうやな」
いきなり耳元で声がしてびっくりした。ばっと振り返ると、電気の明かりの下でも金髪が眩しい澪様が居た。
「み、澪様っ。お帰りなさいませっ」
「ただいま。何をごちゃごちゃ言うてるかは知らんけど、一服したら飯にするから。用意しといて。あ、鍋は重そうやから僕が運ぶからそのままな」
じゃあと、澪様はひらひらと手を振って台所を出て行った。
足音が完全に聞こえなくなったところで、はぁっと息を吐き出した。
「今の聞かれてないよね?」
それを答えてくれる本人は不在。お腹も空いたし、考えはひとまず置いといて食事にしようと思った。
お盆の上に器や箸置などを用意してあれ? と思った。
──澪様。あのノートのこと、なにも言ってなかった。それとも今から食事のあとに話題にするとか。
ノートはきっとお兄様が渡してくれたはずだと、思うけど……。
些細な疑問を持ったが、それは今から解決するだろうと食器の用意を進めるのだった。
結局。
その日はノートやお兄様の話題はなかった。
食事後、お砂糖二杯を入れた紅茶を用意して。
私も一緒に飲みながらお茶会の説明を聞いたのだ。
お茶会は堺の街の有力者や藤井屋の顔馴染み、外国人の来賓も来ること。
お茶を立てるのはお寺の住職様。なんでも千利休の再来だと謳われるほどの腕前だとか。
個人的にはお茶会を抜きにしても、お会いしてみたいと思った。
お寺でお兄様が家督襲名をして。祝いの席として皆様に、お茶を振る舞う予定だと澪様は教えてくれた。
そして、澪様は冷笑しながら「人を集めて茶会なんて、豊臣の花見でも再現しているつもりか」と言葉を吐き捨てた。
豊臣。
その言葉にドキッとした。
胸のうちの動揺を悟られまいと平素を装い、澪様の話に耳を傾ける。
私は小姓として当日お寺へと参内出来るが、お茶会の席は儲けてないので、その間に暴れると言うこと。
で、そのあとは混乱に乗じて私は裏口から逃走。それで終わりだと、聞いたのだった。
そのことを聞いて、あぁ。もうすぐで澪様ともお別れなのだと思った。
せめてお別れのときはゆっくりと挨拶ぐらい出来たらいいなと、思っていると。いつの間にか眠ってしまっていて。
気がつけば朝を迎えていたのだった。
四日目。私は嘆いていた。
「やってしまった。あぁ」
時刻はお昼前。澪様はとっくの昔に仕事に行っていた。しかも私は昨日の夜から、先ほどまでぐっすりと眠りこけていた。
思ったより疲れが溜まっていたのだろう。このところ考えごとばかり、しているせいかも知れない。
気が付いたら台所に澪様お手製、昨日の残りのお鍋の出汁で作った雑炊まで用意されていて。お鍋には『食べろ。ねぼすけ』と言う置き手紙があったのだ。
過ぎてしまった時間は戻らない。
そう思って澪様が作って下さった雑炊で食事をして。さぱっとお風呂に入って。
食器を片付けたところで、いつもの和室の机の上で盛大にため息を付いていたのだった。
「あと三日しかないのに。貴重な時間を睡眠に費やしてしまった。それどころか、昨日はお兄様のことを聞く良い機会だったのに」
しかも、昨日お兄様から貰った飴玉を無くしていたのに気がついた。
ちょっと食べてみたいと思っていた。
どこかで落としてしまったのだろう。凄く残念。落としてしまってごめんなさいと、心の中で謝る。
気分は下がるばかりだけども、今日こそは藤井兄弟のことを聞きたい。明日はお寺に行って下見もしたい。そして警察に身の振り方を相談してもいいかもしれない。
やることは沢山だ。
「お茶会まであと少し。後悔しないようにやろう」
よしっと気合いを入れて。まずはさっとお掃除してから、また夕食の買い物に行こうかと思っていると。
玄関から「すみません」と声がした。
「誰だろう」
澪様からは私が一人のときは、誰であろうと出るなと言われている。
居留守を使うのは気が引けるけど、来客に対して私に判断出来ることは少ないからと息を潜めると。
再度「|Is anyone there?《誰かいませんか》」と、英語の声がしたのではっとした。
「今のは英語。しかも私、この声どこかで聞いたことがある」
そこまで言って気がついた。
この声は──藤井臣様だ!
「〜〜っ。澪様っ。ごめんなさいっ」
私はすくっと立ち上がり、玄関へと急いだ。お兄様にも聞きたいことはたくさんあるのだ。ノートのことも気になったし。何よりも。
──本当に澪様のことが嫌い?
藤井屋の人達が喋っていたことが真実じゃないと思たいたい。身内で揉めるほど悲しいものはない。
そのことが聞きたくて。
なにか打開策が開けるはずだと思い。玄関の内側の鍵を外して、からりと引き戸を開けばそこには、スーツ姿の見目良い藤井臣様が立っていた。手には立派な皮の鞄を持っていてオシャレだ。
「こんにちは」
柔らかい口調も、魅惑的な笑顔も変わらずだった。
「……こんにちは」
「やっぱり君はここに居たか。今日はね、君とお話がしたいと思って来たんだ。会えてよかった。改めてまして。俺の名前は藤井臣。君は?」
ほんの少し首を傾けるだけで、サラリと黒髪が揺れる。それがとても嫋やかで魅入ってしまいそうになる。
「千里。千里って言います」
「千里。いい名前だ。千里、早速だが俺とお喋りしてくれるかな。このまま玄関でもいいし、それともカフェにでも行くかい?」
「お気遣いありがとうございます。私はここの家の主人ではありませんが、澪様のお兄様を玄関で立たせるのは気が進みません。中にお入り下さい。きっと澪様も許してくれると思います」
「しっかりした子だね」
その言葉に小さく頭を下げて、臣様を家の中に招き入れた。
──澪様。勝手なことをしてごめんなさい。今日の夕食は美味しものを頑張って作るから、許して下さい!
成り行きによってはちゃんとお伝えしますからと、心の中の澪様に詫びる。
臣様は「お邪魔します」と家に上がった。
玄関に上がると懐かしそうに「ここに来るのはいつ振りかな」と呟いていた。
やはりその穏やかな様子から、臣様が澪様を邪魔だと思っているふうにはみえない。
そして、なんで私がここに居ると思ったのだろう。
ふつふつと湧き上がる疑問をひとまずは堪えて、明るい光が差す。いつもの和室へと案内するのだった。
私は臣様を和室へと案内して、台所で紅茶を淹れた。昨日、甘いものが好きだと仰っていたので澪様と同じく。お砂糖も用意して和室へと急いだ。
和室の前で失礼しますと声を掛け。作法に則り和室に入り。
臣様の前に、紅茶とお砂糖を入れた小皿を静かに置いた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!