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「ん」
作業中にあることに気づき、急いで山中のチャットを開く。
これから提出する書類に山中からもらうべき添付画像が必要だった。
お願いの連絡を送ったその瞬間に既読がつき、2秒程でそれはニュッと現れた。
…流石、モテる男は違う。
そう感心していると、さらにチャットの履歴は更新された。
『いつでも話聞くから』
ここに本人がいたならすぐにでも抱きついていただろう。
本人と想像した自分自身がえずいてしまう。
あれからことあるごとに声をかけたりなんだりしてくれているあたり、ちょっと気にしているのであろう。
…優しい男だ。全人類がこんな人間でもいいくらいなのに。
殺伐としたこの部署に不釣り合いな穏やかな気持ちを胸に灯しながら書類に画像添付し、送信ボタンを押す。
ひと段落終え、始業時ぶりに口をつけた、冷めて悲壮感漂うコーヒーに口をつけた。
…やっぱり、家で作るコーヒーの方が美味しい。
ここ1週間の丁寧な暮らしぶりが心に余裕を持たせるのだろうか。
休憩なくあくせく働いた仕事中に、ぽんぽんと思考が浮かんできた。
…今日のご飯は何だろう。昨日米が残ったみたいだから、チャーハンとかかな。
…つか、あいつ天使とか名乗ってるけど、あんなに世俗的なものなんだろうか。
…そもそも何であいついきなり『おいちゃん』とか呼んできたんだ?初対面なのに。
…そもそも天使って、何なんだ?
俺はついにおかしくなったのかな。
あの時本当に飛び込んで死んで、最後に夢見てるとかじゃないよな。
「これ、明日の朝イチ」
…あっほら上からファイル爆弾降ってきた。
ドカンってファイルが立てていい音じゃねえだろ。
何で六法全書サイズなんだよ。
しかも16:58に。
目ぇついてるんか??
「はい」
返事も待たずに行きやがった。
そんなに会話したくないんかこの人。
会話という言葉に親でも殺されたのか?
…どっからもらってきたんだこの量。
夢じゃないわ。
いっそ夢であれよ。
最近は指摘もされなくなったし言われたくなくて頑張った。
任せてもらえる仕事も増えた。
どんなに歩み寄ろうとしてもこっちからのコミュニケーションは一切耳が入らない人だし。
聞いても答えてくれないから自分でやるしかなかった。
黙りこくっている方が楽なのだ。
大丈夫、大丈夫。
…大丈夫…?
…あ、やばい。
頭は驚くほど冷静なのに、キリキリと胃の締め付けが激しくなった。
街中で転んだときのような、我関せずに徹する周りが作る惨めさに近い気持ち。
悪寒がしたのは、背中に滲む汗のせいだろうか。
寒いからだろうか。
指先の乗ったキーボードが押してもないのにカタカタと小刻みに、微かに音が鳴る。
おずおずと誰かが椅子を転がして近づいてきた。
「俺、手伝いますよ」
真っ直ぐな目で言ってくれたのは、隣のデスクの武藤。
「大丈夫。部長に代わりにコミュニケーション取ってくれたりしてる上に、連日手伝ってもらってるし悪いよ」
「水臭いっすよ仁人さん。もう俺、こんなに処理できるようになったんすよ」
手をデスクの上の書類とファイルに置いて、相変わらず真っ直ぐな目で言う。
「全然、何でも頼ってください」
目が死んでいないのはこの男だけだ。
この部署の中で。
真面目な顔でそんなことを言うもんだから、今の心持ちとは反して口角が上がった。
🩷
最後の黒靴下を干して息をついた。
青空に洗濯物がたなびいている。
おいちゃん…もとい仁人との生活が始まって1週間が経った。
あいつは夜の深い時間に今にも倒れそうなぐらいのおぼつかない足取りで帰り、玄関で倒れ伏す。
疲れた、と喚く仁人を引っ張りながら風呂へ放り込み、その間に着替えの用意、夕飯の準備をし、風呂上がりのあいつを迎え撃つ。
「体バッキバキバッキンガム宮殿」などと意味のわからない言語を放つ時もあればそれすら気力がない時もある。
そんな奴でも夕飯の席に着けば少し表情が和らぐ。
「ありがとう」「うま」「これ好きだわ」。
こんなことを言ってくる。
そして家主の歯磨き中にベッドメイキングを行い、布団にぶち込む。
そして朝になれば布団を引っ張って剥ぎ取り起こし、ノーパンなんですーーと
と駄々を捏ねつつスーツを用意し、朝食を叩き込んだ後部屋から追い出す。
いろいろ知ることも増えてきた。
あの生活の割に…いやだからこそなのか、部屋が綺麗。
休みの日は寝てばかり。
朝は弱い。
ご飯は量食べられない。
電話かかってくると顔が死ぬ。
だから、電話中は仁人のことをじっと見る。
じっと見て、アハ体験?と言うもののように少しずつ顎をしゃくれさせ、目を開いていく。
それに気づいた仁人が笑窪を深め、堪えきれずに吹き出し、電話口の相手へ戻る。
そして頭を叩かれる。
「何してんお前」
「いや、天使だし笑わせようと」
「TPOって言葉知ってる??空から降ってきて大気圏突入した時に燃やしてきたんか??」
そんなこと言いつつも結局顔がニヤニヤしてる。
素直じゃないやつ。
「お、これは…」
掃除してたら机からカタン、と何かが落ちた音が聞こえ、拾い上げてみるとカセットであることがわかった。
その表題を見て、おもむろに窓の方を見た。
昼下がりにたなびくカーテンを見ながら、鼻歌を歌う。
まさに表題曲のようなシチュエーションに歌わずにはいられなかった。
もうとうの昔だ。
メロディもうろ覚えだが歌っているうちに思い出してきたメロディを少しずつなぞってみる。
『…あっ』
校舎のベランダでiPodを繋げてイヤホンをシェアしていた。
今の声は、ちょうどギターの乾いたサウンドのイントロが流れ出したちょうどその時に、友人が発した声だった。
突然耳から流れていた音は途切れ、不満げに訴えた。
『止めんなよーーーっ』
『あ、いやまあこれは』
やたら狼狽える彼に、ますます気にならずにはいられなかった。
『何でダメなの』
『…あの…俺の曲だから』
『え?』
聞き返せば、諦めたように説明してくれる。
『…まあいいか。これ、俺が作った曲だから…どこにも出さないのに。だから…』
『…すご』
ぽろっと漏らした言葉に、彼はこちらの顔を見た。
『…俺好きだったよ。もっと聴かせてよ』
そう伝えたときの彼の……。
仁人の顔は、微かに紅潮していた。
「…次に流れた曲も好きだったんだよな。確か…」
そこまで言いかけて、はたと気づいた。
「…あー、ダメだ。『契約違反』で消される」
がっくりと肩を落として首を振ると、カセットは何事もなかったように机の上に乗せた。
「あー」
部屋の中で誰に聞いてもらうでもなくぼやいてみた。
「『忘れさせたままで』って意外とキツいなこれ…」
その時、ゴロゴロと聞こえた音にびくっと肩を振るわせた。
駆け寄ってベランダから覗き見れば、トレーラーが交差点を右折するところであった。
はあ、と安心したように息をついた。
「苦手なんだよなこの音…」
ハッと我に帰った。
もう夜も遅い時間。
最寄り駅に着いてあとはもう帰るだけ。
駅前の大通りはちょうど青に変わり、疲れ切った人々が行き交っていた。
右方へ地鳴りのような音を立てて去っていく大型トレーラーの後ろ姿を眺めた。
信号で青に変わったことに気づけないほどぼんやりしたのはきっとあのせいだ。
はあ、とうんざりしたように大きなため息をついた。
「まだきっついわ…あれ…」
ぼやいて信号を渡り切る。
自然と足早に家路を急ぐ。
…今は1人じゃない。
家に帰れば温かいご飯と風呂が待っていふ。
それだけで、疲れているはずの体が前に前に進んでいく。
もう、線路の中に気を遣っている暇などなくなっていた。
部屋の明かりがついている。
…もう嫌なことも、何もかも忘れて帰ろう。
続
コメント
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過去に何かありそうな事が散りばめられていて、本当に色々と気になります!2人が幸せになれると良いなぁと思っております そして、💛さんの ノーパンなんです〜 は寝起きドッキリを思い出してニヤてしまいました さかなさまの書かれる2人は、本当にそういう会話されてそう!と思えて、読んでいて何か色々と捗ります ありがとうございます