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「おかえり」
「…ただいま」
やっとの思いで引きずって帰ってきた家で、口端だけをあげて出迎えた勇斗。
そんな勇斗にヘラッと笑って返した。
「今日は早いね」
俺から通勤カバンとジャケットを奪って前を歩く。
確かに、今日はまだ日付を超える前に帰れた。
「や、潤が手伝ってくれてさあ…あと、タカシく…松尾部長がね」
『あれ?まだいるん』
潤と2人残った事務室で書類の山に籠城していると、不意に聞きなれない声が聞こえてきた。
『タカシく…いや、松尾部長!?』
2人して思わず立ち上がって頭を下げると『今まで通りでええのに。座ってて』と微笑んだ。
ちなみに思わずタカシくん、と呼んでしまうのは先輩としてお世話になった異動前の名残だった。
『ちょっと最後に終わらしときたいのがあって残ってたんよ。そしたらまだ明かりついてたから。…残業申請、出してる?』
あっ。
思わず気まずそうに潤と目を見合わせる。
どうしましょう、と狼狽えた視線の潤にまかせろ、と力強く視線を送った。
…一旦全て飲み込み、しっかり目を合わせて、答えた。
『はい』
『いやそれ出してない顔やん。ウソつくならマシなウソつかな』
笑いを堪えきれずに吹き出した松尾部長は後ろから覗き込むと、ちょっと怖い顔で言った。
…当社比で。
『もう帰り。これは期日5日後やろ?急ぎでやる必要ないで』
『え?でもうちの部長が今日中にやれって…』
『そんなこと言ってたん?でもこれは…』
松尾部長は少し考えて、困ったように笑った。
『わかった。ほんなら俺やるわ』
その言葉に俺も潤も抵抗していたが松尾部長はガンとして受け取らず、
『もうこれ以上はあかん。俺が気づかなかった責任もある。大丈夫、仁人がやったってことにしとくから。今日はもう帰ってゆっくり休み』
…この人は神様なのか?
潤の目が仏を見るかのように輝いている。
…お前そんな顔俺にしたことないだろ。
『…ありがとうございます!』
声が震える。
なんなら身体も冬日のプール上がりのごとくブルブル震える。
『その代わり。仁人、明日12時以降面談の時間取れる?』
『面談、ですか。…多分大丈夫ですけど』
『ほんま?また後でチャット送るな。そちらの部長にも時間の確保お願いするから、そこは安心してな』
「…ふーん、じゃあ残業は回避できたんだ。よかったじゃん」
勇斗が洗濯物を畳む片手で相槌を打った。
食べ終わったものを「ご馳走様、美味しかった」と言いながら台所まで持って行こうと立ち上がった。
…にしても、身体にじんわり染み渡っていく。
温かい食事が喉を通るたびに、胃袋が優しく温度を残していき、春なのに冷え切った体を温めてくれる。
お椀の上に茶碗を重ねたところで勇斗が話し始めた。
「でもさ、毎日なんでそんなに残業してんの?」
「ふえ?知らねえよ俺が聞きたいわ」
「だって他に残業してる奴いんのかよ。話聞く感じお前とその潤?って子しか見当たらないんだけど」
勇斗の声が刺々しく、曇っていく。
「あ、いやまあそれはさ、成り行きとかもあるし…」
「成り行き?」
さらに勇斗が眉を顰め口をつぐんだ。
…意外とこいつ、怒ると怖いタイプみたいだ。
洗濯物をばさっと放ると眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
ついでに背中の羽毛もふわふわと飛んだ。
「成り行きでこんな仕事の振り方下手くそなやついんの?絶対バカじゃんそいつ」
…あ、と思った。
今日もあったな、これ。
いや、目の前にいるのは勇斗なんだけど。
バカって言ったのは確かに俺のことじゃないし、仮に言われたとしても気にしないんだけど。
…気にしない、けど。
顔と声が曇り、言葉に棘が出てくる時の、背中に汗が伝う感触。
数々の人格否定の言葉。
その後に待ってるのは、雷雨だ。
こういう時の最適解は、エクセルの関数より早く出るようになってしまった。
「…ごめん」
やっとの思いで出た言葉は、やけに低く、弱々しかった。
目が合わせられず、視線が床に落ちた。
「え、なんで謝んの。別に仁人が悪いわけじゃ…」
戸惑いの声を上げた勇斗が口を止めた。
「…そんなに嫌だった?」
手に持った箸と茶碗が小刻みに音を立てていた。
カチカチカチ、と音を立てて震えるそれは、自分の意図しない動きだった。
「あ、いや、大丈夫…」
やがてそれは手元から滑り落ちて大きな音を立てた瞬間、安い陶器が割れた。
鼓膜を突き破るほどに響き、金縛りのように身体が固まった。
「っ!」
「うわっ!…あーめっちゃ派手に…危ないから近づかないで」
胸がザワザワし、頭の中が脳みそかき混ぜられたような感覚。
割ってしまった。
自分の不注意で茶碗が一つ割れた。
出かけた謝罪の言葉は意に反して喉に突っかかった。
…落ち着かないと。
…まずは呼吸を…。
そう思えば思うほど、脳内に今まで刺さって抜けることのなかった言葉が駆け巡る。
感情を殺して受け流してきた、思い出すのも憚られるような言葉が、曖昧な形を持って汚していく。
それは深みに落ちるほど、明確な言語となって心を握りつぶそうとする。
後ろ指を刺されて、呪いのように断罪をされ続けるあの感覚が、余計に呼吸を乱していった。
「仁人…仁人?」
声をかけられて我に変えると、さっきまでソファーにいた勇斗が目の前に屈んでいた。
背中に大きい手のひらが擦れる感覚がする。
「こっち見て。ほら息吸って」
勇斗が大袈裟に『う』の口を作るのに引き攣る顔で真似る。
「そう、そのまま吐いて」
勇斗が少し顎を引いて大きく「ふーーー」と吐いてみせるのを真似る。
情けないほどに震えた吐く息に、勇斗は優しい声で肯定してくれた。
「そうそう、上手。もっと吐いて。おいもっといけるだろ手を抜くな。…はい吸って…はい…もっともっと。そう、いいじゃん」
たまに入る茶々に耐えながらも、 勇斗の摩る手のぬるさと声にただ従って深呼吸を繰り返すと、嵐のように波打っていた心がだんだんと穏やかに鎮まるのを感じた。
同じテンポで緩やかにゆらゆらと揺れる大きな羽の影に隠れると、夏日に木陰に入ったような気持ちになる。
気持ちが凪になると、さっきまでの醜態に顔から火が出そうな勢いだった。
「………ごめん、取り乱した」
「いいよ。俺もごめん。…話したくないならいいけど、別に仁人に怒ってたわけじゃなくて…」
「うん、わかってる…大丈夫…俺がぶっ壊れてるだけ」
ふー、と目を閉じて最後に深く息を吐いた。
俺の雰囲気を察してか、背中でゆっくり摩っていた背中側から、木造の背もたれを軋ませながら俺の前に膝をついた。
「…1ヶ月前から…正直会社がしんどくて」
スーツの上で拳を握った上から、大きな手が覆い被さった。
この前までの冷たい手ではなく、不思議と、自分の温度を跳ね返すように程よい体温がその手のひらから伝わる。
「…あの、引かないで欲しいんだけど」
「うん」
「なんかその…俺、いわゆるお誘い?を断っちゃって。…部長が、あの……俺、正直やばいなこいつって思って、逃げたの」
笑おうと引き攣る顔は、上手くできなかった。
笑おうとする声は単なる呼気の乱れになった。
「だからなんともなかったんだけど。そこからいろいろ…俺だけ返事返ってこなかったり、仕事大量にまわしてきたり、かと思ったら怒鳴ってきたり…ありもしないこと言いふらされたり…いや…小学生でもやらねえよって感じだけど。まじでくっだらねえなと思うけど」
「うん」
「けど、なんか…参るんだね。存在がいないことにされてるみたいで…こう…」
自分だけその空間からかけ離されたみたいで。
「向こうはスッキリしてるんだろうけど…だったら俺の気持ちどうしたらいい?俺間違ってるのかな」
声から本音がほろほろと滲み出る。
その上から手を離して、温かくて大きなものが覆い被さる。
白い羽の柔らかさと勇斗の体が心を解きほぐしていく。
荒くなった呼吸が震えた。
「……情けないよ。情けないけど……俺もう無理。疲れた……」
その次にこぼした言葉に、勇斗はとびきり優しい声で答えた。
「任せて。…俺は仁人の天使だから」
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