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結局懇親会では形式的な挨拶しかできず、実のある話はあまりできなかった。私は昔からそうだ。人見知りをしてしまうので初対面の人と話すことが苦手。一度仲良くなったらとことん大丈夫だけれども、そうなるまでに時間がかかる。陽キャが羨ましい。それに一度くらいはなにごとも我慢せず、建真のように好き勝手放題言ってみたい。今、私の中には不満しかない。でもそれを昇華する術を私は持っていない。
今回の会費は諸見里社長が全額負担してくれるということなので参加したが、次回からは無理だろう。わずかな所持金もないから結婚後仲いい友人と会う機会も減ったし、私の人生って建真に尽くすためしか無いのかな。そんなの嫌だよ…。
「お客様。先ほどは申しわけありませんでした。これ、お詫びです」
店を出る前、女将さんに声を掛けられた。背中に『大吉酒場』と店名が赤字で大きく達筆な字体で書かれ、襟裏や袖裏は同じく赤と黒の市松模様の入った柄に、黒地の法被(はっぴ)姿。綺麗に描かれた眉に濃い赤のメイク、大きな瞳はなんとも魅惑的なのに大人びた印象をぐっと若く見せるポニーテールがよく似合っていた。年齢は二十五歳くらいだろうか。大衆居酒屋を切り盛りするよりも、もっと容姿を売りにすれば幾らでも稼げそうな――そんな女性だった。
「いえっ。ビールが袖にかかっただけなので。そんなにしていただかなくても大丈夫です」
申しわけなさそうに封筒を渡してくれたので、クリーニング代かと思い辞退した。
「うちは見ての通り狭いので。今後も快適に利用いただくためにも、お詫びは受け取っていただかないと困ります」
白い封筒を押し付けられたので仕方なく受け取った。つっぱねるわけにもいかず、礼を言って店を出た。途端に生ぬるい風が頬をかすめる。
いつも思うが、都会の空気は日常的に重く淀んでいる。様々な排気をたっぷり含んだ空気の上に、飲食店も多いのでお酒やたばこのにおいも混じった独特な都会の臭い。私はこの空気に馴染めない。入っていく勇気がないから。…でも、ここにいるだけで私の中のなにかが変わる気がする。それはなにかまではわからないけれど…。
「お疲れ様でした」
もう一軒行こうと諸見里社長に誘われたけれど、建真がいつ帰って来て怒り狂うかわからないので辞退した。ほんとうは社長について行きたい。もっと知らない世界を知って、私が今後長い人生を過ごして行かなきゃいけない伴侶に対抗する知識を手に入れたい。
このままじゃ嫌だ。
建真の顔色を窺って、奴隷みたいな家政婦で一生を終えたくない。
そんな風に思いながらも二次会へ行く勇気がなく山手線へ向かって歩いた。大勢の人が行き交う駅だから見落としてもおかしくないのに、私は見つけてしまった。改札前の目立つところで立ち止まる夫の姿を。
(うそっ…!)
手には誰でも知っているような高級ブランドショップ袋を提げている。時刻を見ると21時前だった。
(もしかして、私を迎えに来てくれたのかな?)
淡い期待が胸をかすめた。普段は厳しいことばかり言うけれど、思い返せば優しいところもいっぱいあった。そういえば今日、私の誕生日だった――
建真は時間を気にしている。飲み会は20時半に終わると言った。秋葉原なんかに建真の用事はないはずだ。改札は通るからもしかしたら一緒に帰ろうと思って、ここで待ってくれたのかな…。
嬉しい。建真さえよければデートして帰りたい!
声をかけようと思い建真に近づいたところ、前から綺麗に手入れされた赤茶色のセミロングを揺らした目の大きなかわいらしい女性が建真に手を振り、彼もそれに応えるように嬉しそうな笑顔を見せた。
私は思わず人の波に隠れた。彼らは目の前のふたりの世界に没頭していて私に気付きもしていない。
「晴奈。待ったよ!」
「建真先輩! 会えて嬉しいです!」
「それにしても晴奈、なにも秋葉原で待ち合わせなんかしなくても…アイツに見つかったらどうするんだよ」
「見つかったら見つかった時ですよ♡ それに、同じサークルメンバーだったんですから、同窓会だったとか言えばいいじゃないですか♡」
「天才だな」
「ふふっ♡ このスリルがたまらないんですよ♡」
「おいおい。バレたら金づるがなくなるだろ。もうプレゼントできなくなるぞ? ホラ、晴奈が欲しがってたブレスレッド。買っといた」
「きゃー♡ 建真先輩だーいすき♡」
絵にかいたようなゲスたちの会話を聞き、私は吐きそうになった。持ち歩いていたマスクをかけ、花粉症対策の眼鏡を装備し、可能な限り見つからないように変装をした。悔しくて泣けてくる。