【dt】
「…ごめん」
寝たふりをしていた俺の耳に届いた声。
それは何に対しての謝罪?
もぞもぞと布団に潜り込んできて、ぴったりと俺の背中にくっつく佐久間。
お腹に回してきた腕がまるで俺を求めているようで、さっきの謝罪の言葉は聞き間違いだったのかと錯覚しそうになる。
振り返って抱きしめてあげたいけど、今の俺では何もしてあげられない。
謝罪の意味、本当は分かってる。
だからこそ、分かっていることを悟られたくないから、背中の温もりをただ受け入れることしかできない。
できれば、その“ごめん”は最後の夜まで聞きたくなかった。
謝らなきゃいけないのは俺の方。
ごめんね、佐久間。
まだ俺から気持ちが離れていないなら、あともう少しだけ側にいさせて。
数年に渡る佐久間との交際はずっと順調だった。
順調だと、思っていた。
お互いがお互いを理解しているから、笑い合えるし支え合える。
大きな衝突もなく、平穏で、幸せで、これがずっと続くものだと信じて疑わなかった。
誰が悪いわけでもない。
俺のことを好きなまま、佐久間が別の誰かに恋をした。
ただ、それだけ。
その相手が照じゃなかったら。
望みのない相手だったら気持ちが他に向いていても繋ぎ止めるのに。
照はずっと佐久間のこと好きだったもんね。
俺に遠慮して気持ちを押し殺していたこと、ずっと気付いてたよ。
佐久間の目に俺しか映っていなかった時は、多少の申し訳なさを感じていた。
今は、強引にでも俺から佐久間を奪ってほしいとさえ思ってる。
仲間の幸せを願っている照がそんなことできるわけないって分かっているのに、自分から動く勇気が出ない。
佐久間にも、照にも、自分の本当の気持ちに蓋をさせて、自分だけが甘い蜜を啜っている。
…そろそろ、解放してあげなきゃいけないね。
***
仕事が終わって佐久間の家に向かう。
今日で最後かと思うと足取りは重かったけれど、自分で決めたことをもう曲げたくない。
『絶対に幸せにするから』
付き合い始めた時に交わした約束。
佐久間も「俺も!」って言ってくれたけど、多分始めから掛け違えてた。
2人で幸せになりたいと思っている佐久間と、佐久間の幸せだけを願っていた俺。
元々こうなる運命だったのかもしれない、と自嘲しながら佐久間にメッセージを送る。
『もうすぐつくよ』
合鍵は持っているのに、出迎えてくれるのが嬉しくていつもインターフォンを押していた。
この鍵も手放すことになると思うと、今日はこれを使いたくなった。
深呼吸してから、玄関のドアを開ける。
当たり前だけどそこには誰もいなくて、少し寂しさを感じる。
リビングのドアを開けると、ソファで愛猫と戯れていた佐久間がこちらを振り返った。
「あ、おかえり!」
目が合っただけで、ぱぁっと花が咲いたような笑顔を見せてくれる。
好きだな、って愛しく思うほど胸が苦しい。
「鍵使ったの?珍しいじゃん」
パタパタと俺の前まで歩いてくる佐久間。
いつもならここで頭を撫でたり抱きしめたりしてたけど、もうそれもできない。
「最後に使いたかったから」
佐久間の手を取って、すでにキーリングから外してあった鍵を白い手のひらの上に乗せる。
「なに、最後って…」
「今日で終わりにしよう」
そう告げた瞬間、ただでさえ大きな目がぱちっと開いて俺の視線を奪う。
一瞬のことだったけど、瞳に映った自分の顔がはっきりと見えた気がした。
嫌だな、って悲しくて仕方ないのに心は凪いている。
「…意味分かんない」
鍵を返そうとしてくる佐久間の華奢な指に手を添えて、無理矢理それを握らせる。
受け取る気はない、とまっすぐに佐久間を見つめると、大きな黒目が不安そうに揺らいだ。
「どうして…」
理由は佐久間が1番分かってるでしょ。
自分の気持ちを認めたくないと1番強く思っているのも佐久間自身なのかもしれないけど、それは俺の望む愛の形じゃない。
佐久間の手が俺の腕を掴んで、握っていた鍵が床に落ちる。
「幸せになろうねって約束したじゃん」
「違うよ、佐久間」
ずっと掛け違えていたボタン。
もう正すこともできなくなってしまった。
「俺は、佐久間を幸せにするって言ったの」
「じゃあ…!」
「佐久間が幸せなら、その隣にいるのは俺じゃなくてもいい」
「…涼太じゃないと嫌だ」
負けない!と言いたげな強い視線が訴えかけてくる。
まだ俺に想いが残っているのは分かってる。
でも、その想いが少しずつ淡くなっていくのを隣で見続けていくなんて、あまりにも残酷だよ。
「俺は、佐久間といても幸せにはなれない」
言わせないでよ、こんなこと。
傷付けたくないのに、はっきり言葉にしないときっと佐久間は諦めない。
俺の腕を掴む力が弱くなって、傷付いた顔をした佐久間が小さな声で呟く。
「涼太が、俺じゃ駄目ってこと…?」
「俺もだけど、佐久間も俺じゃ駄目なんだよ」
佐久間の気持ちが照に傾いていること。
それに俺が気付いていることも、佐久間ならもう理解しているはず。
俺をまっすぐに見据えていた瞳が潤む。
「涼太を裏切るなんてできない…こんなの気の迷いだって…」
「佐久間」
もういいから。
これ以上自分に嘘を吐かないで。
ここで終わりにしないと後でもっと苦しくなるって分かるでしょ?
俺は今どんな顔してるのかな?
上手く笑えてる?
今は辛いけど、いつかこの選択を誇れる日が来ることを本気で願ってるんだよ。
「ごめん…」
いつかの夜に聞いた謝罪の言葉。
聞きたくない言葉だったけれど、覚悟はできた。
「幸せになってね」
俺の腕を掴む佐久間の手をそっと離す。
返事も、頷くことさえもしないけど、俺の思いは届いてるって信じてるよ。
佐久間に背を向けて歩き出す。
リビングのドアを閉めると我慢していた涙が溢れそうになったけど、この家を出るまでは泣きたくない。
滲む視界のせいで靴を履くのに手間取っていると、勢い良くリビングのドアが開く音がした。
「…涼太っ!」
もたつきながら駆け寄ってくる足音。
振り返っちゃいけないと頭では分かっているのに、本能に逆らえない。
振り返ると、涙で顔がぐちゃぐちゃになっている佐久間が俺に向かって手を伸ばした。
考えるより先に、佐久間に向かって手を広げる。
ここまで来てまだ戻ってきてくれることを期待していたなんて。
俺の胸に飛び込んできた佐久間を思い切り抱きしめる。
「俺っ、ほんとに…涼太のこと好きだった」
過去形になった言葉。
抱きしめるとはっきりと感じる佐久間の匂い。
俺の腕にすっぽりと収まる体も、体温も、俺を呼ぶ声も、今まではずっと俺だけのものだった。
目を閉じると、思い出すのは笑顔の佐久間ばかり。
楽しくて、幸せで、満たされていた日々。
言葉の代わりに我慢していた涙がぼろぼろと溢れる。
離したくないって、少しでも気を緩めたら本音がこぼれてしまいそう。
「涼太のこと、ただの思い出にしたくない」
顔を上げた佐久間の親指が俺の唇に触れる。
「これで最後にするから」
辛そうに歪む顔。
その先に続く言葉が残酷なものだって、自分でも分かってるんだね。
本当に、ひどい人。
「俺の一部に涼太がいるって刻み付けて」
誘うように唇を撫でる指も、縋るような声も、夜の蝶のように艶やかで、一瞬で俺を溺れさせる。
駄目だって分かっているのに、止められない。
勢いのまま唇を奪うと、俺を深く求めるように絡みついてくる熱い舌。
理性の欠片もない、こんな奪い尽くすような口付けは初めてだった。
自分の中にこんなに熱い衝動があったなんて、最後の最後に知りたくなかったよ。
俺の想いを背負って生きていくと決めた佐久間。
俺だってただの思い出にはできない。
愛情も、悲しみも、半分だけここに置いていくから、佐久間の半分も俺にちょうだい。
幸せだった薔薇色の時は、今日で夢になる。
唇を離して、至近距離で佐久間の瞳を覗き込む。
その瞳に今は俺だけが映っていて、今日で終わりなんてまるで嘘みたい。
できることなら、ずっと夢の時間に浸っていたいけれど。
夢は夢のまま終わらせなきゃだね。
だから、どうか今だけは。
瞳を閉じて、このまま…
inspired by I・だって止まらない
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