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シャワーを浴び、冷たい水で顔を洗い、何とか体裁を整えると、由樹は鏡の前に立った。
ワイシャツを第一ボタンまで留めて、ネクタイを締めると、つけられたキスマークは綺麗に見えなくなった。
こういうところはやはり牧村も同じ営業マンだ。その事実に自嘲気味に笑った。
数日前と同じワイシャツを着て、先週もつけたネクタイを締め、去年購入したスーツに袖を通す。
それでも、由樹の身体は、昨日までと違う。
篠崎との関係も、数時間前までとは違う。
自分が何もかもを壊してしまった。
由樹はひとり、部屋を振り返った。
きっともう並んで台所に立つことはない。
ダイニングで由樹の作った料理に篠崎が笑うこともなければ、ソファに並んでDVDを見ることもない。
ベッドで抱き合いながら寝ることも、由樹が入っている風呂に篠崎が乱入することも、リビングで酒を酌み交わすこともない。
夢のような日々は、もう帰ってこない。
溢れていた笑い声は、もう戻ってこない。
由樹はコクンと喉を鳴らしながら、唾液を飲み込んだ。
シャワーを浴び、顔を洗ったはずなのにーーー。
自分からは、牧村が吸っている煙草の匂いがした。
壁に打ち付けられた衝撃で、ディスプレイにヒビが入った携帯電話を取り出す。
11時を過ぎたところだった。
「行かなくちゃ…」
空っぽのくせに重い身体を何とか動かす。
鞄を持ち上げ、クロークを開けたところで、由樹は動きを止めた。
「……あ」
篠崎のコートはそこに残されたままだった。
「……っ」
胸が苦しくなる。
何も知らず、ただ由樹を心配して駆け回っていた篠崎は、もちろん由樹以上にショックだったに違いない。
この凍てつく寒さの中、コートも着ないで外に飛び出すほどに。
自分はしょっちゅう涙を流すが、出会って3年、付き合って2年、
篠崎の涙を見たのは、初めてだった。
「………」
込み上がるものを必死で飲み込む。
篠崎が自分を許してくれるかはわからない。
でも―――。
(謝ろう。許してくれなくても。ひたすら謝り続けるんだ……)
決心と共に顔を上げ、篠崎のコートを手に取った。
それを抱きしめるように抱えると、由樹はドアを開けた。
真っ白な雪に太陽の光が反射して、由樹の泣きはらした目を、容赦なく突き刺した。
出社すると、篠崎は事務所にいなかった。
「あ、お疲れ。新谷君、腹壊したんだって?」
渡辺が開口一番言った。
「え?」
「篠崎さんが、いたわってやれって言ってたから」
由樹はホワイトボードを見上げた。
【篠崎 現場回り NR】
「ノーリターン………」
呟くと、渡辺もボードを見上げた。
「昨日、雪積もっちゃったから、金子と一緒に雪下ろしするらしいよ。八尾首の現場全部やるから夜までかかるって」
「全部、って俺のもですか?」
「うん。新谷くんのも俺のも」
「そんな……」
思わず携帯電話を取り出す。画面を開くと、着信履歴は上から下まで篠崎で埋まっていた。
「………………」
それに一瞬手が止まるが、意を決して通話ボタンを押す。
Trrrrrrrrrr
Trrrrrrrrrr
「もしもし」
篠崎の声が聞こえた。
いつもの声、いつもの口調。
でもその顔は―――。
先ほどエレベーターで見せたように、表情を凍らせているのだろうか。
「……あ、新谷です。……今、渡辺さんに、篠崎さんが現場の雪下ろしに回ってるって聞いて」
「………ああ」
「俺、手伝います」
言うと、少しの間があってから、篠崎が答えた。
「いやいい。お前はお前の仕事をしろ。ペナルティの危機なんだからな。昨日接客した2件、絶対落とすな。どっちも上げるつもりで取り組めよ」
「…………」
昨日――。
そうだ。
昨日の今頃は、接客をして、アポが取れて、浮かれていたのだ。
夜に篠崎とのディナーを控え、スイートルームの夜を楽しみに、心浮き立っていたのだ。
たった一日しか経っていないのに、もはや遠く昔のことのようだ。
「……わかりました」
「心配すんな。俺は屋根から落ちないから」
「………!」
ズキンと胸が痛む。
後ろで何も知らない金子の笑い声がする。
「……すみません。よろしくお願いします」
「おう」
電話は切れた。
篠崎の明るい声が、いつもと変わらない口調が、辛い。
「新谷君、本当に大丈夫?」
その顔を渡辺が見下ろす。
「顔、真っ青だけど」
◇◇◇◇◇
「……煙草って」
「……ああ」
「……うまいすか」
「……馬鹿。……やめとけよ」
由樹は雪を払った管理棟のベンチに座っていた。
横では事情を一通り聞いた牧村がなんだか昨日より痛そうな足を引きずりながら煙草をふかしている。
「今日は休むのかと思ったよ、2人で」
言いながら牧村が、篠崎のアウディの停まっていない駐車場を見た後、ニヤつきながら由樹を振り返った。
「もしかして、熱い朝を過ごしてスッキリってか?」
言いながら由樹の前にしゃがむ。
由樹は目も合わせられず、ただ極寒のせいでたちまち冷えた《《元》》ホットコーヒーを飲んだ。
「じゃないみたいだな……」
目を細めながら牧村は、泣きすぎて赤く荒れたその頬を指で弾いた。
「言い訳しなかったのかー?俺のせいにしていいっつったろ。無理矢理、嫌がるお前を押さえつけたのは事実なんだしー。なんなら俺の口から言ってやろうか?」
「……いいです」
由樹は寒さのせいで関節が赤くなってきた手で目を擦った。
牧村はため息をつきながら立ち上がり、足を開くと、寒さを紛らわすために重心を左右に振った。
「30も過ぎて一夜の過ちくらいで男がいつまでもピーピーピーピー、女々しいっつうんだよ。なあ?」
「…………」
「ガツンと“お前は俺のもんだろうが!どこにも行くな!!”で突っ込んで終わり!でいいのになあ?」
自分が言っていることに呆れながら鼻で笑う。
「まあ、俺はノンケとの恋愛には反対だけどねー。その馬鹿な客による“電気式石油ストーブ事件“とやらをお前が信じたいなら、別に止めはしないけど」
由樹は手を離し牧村を見上げた。
「……られてない」
「は?」
牧村も由樹を見下ろす。
「俺、1回も怒られてない」
「…………」
「だから、謝れてもいない。っていうか、謝らせてもらってない」
「…………」
「これって……」
由樹は空を見上げた。
「終わり、ってことですかね……」
牧村もつられるように、まだ曇ったままの空を見上げた。
「………知るかよ。ノンケの思考回路なんて」
牧村の指に挟んだ煙草から、白い煙が空に上がる。
「とりあえず結論が出るまで、俺はお前と話さないことにするから。お前も俺の姿見つけてもシカトしろよ」
「…………」
「篠崎がいないからって、今みたいに寄ってくんな」
「………はい」
「心配しなくても、俺は離れて行ったりしないから。な?」
牧村が煙草をくわえたまま、客のいない遊歩道を歩き出した。
空に浮かぶ白い煙を見ながら、由樹は白いため息をついた。
事務所に戻ると、由樹は、お客様に書いてもらったアプローチシートを見返した。
昨日接客した2件目も感触は良かったが、土地がない。これから土地探しからとなると、すぐには決まらない。
なぜなら冬の土地探しは、土地自体が雪に埋もれ、なかなか進まないからだ。
雪に埋もれるため、境界や土地の広さがいまいちわからないどころか、空き地となると、除雪車が大量に雪を下ろしていき、汚い雪に覆われた土地の心象があまりよくないためか、ポンポンと決まらない。
今年中に契約を取るとなると、やはり1件目の母、娘、娘夫の3人で来た客しかいない。
「……なんでよりにもよって地盤調査のアポを取っちゃうかなー」
渡辺がそのシートを後ろから見下ろす。
「お母さんが、唯一食いついたのが地盤調査だったんですよ」
由樹はため息交じりに渡辺を見上げた。
渡辺がそのシートを由樹の手から取って眺める。
「うーん。そりゃね?お客様にとったら、無料で地盤調査してくれるんだから、やってもらいたいと思うよ。だけど、地盤調査って大変じゃん?朝早くに数人で集合してさ。重い器具下ろして、土地の採寸して、写真撮って。それで調査は今最低5か所でしょ?ひたすら穴開けて計測してさ。んで機材洗って詰め込んで。それだけで最低2時間はかかるわけじゃん?」
「はい」
「それで、“ここまでやってもらって…”って感動してくれる客ならまだしも、それだけで終わるような無慈悲な客もいるからさー」
言いながらシートを由樹に戻すと、渡辺はため息をついた。
「いつだっけ。地盤調査」
「明後日、です」
「了解」
「え」
由樹は再び渡辺を見上げた。
「渡辺さんも行ってくれるんですか?今週、日直では?」
「行くよー。篠崎さんが自分と俺ともう一人金子か細越連れて行くって言ってた。難しそうな客だからって」
「……………」
「多分、決めてくれる気でいると思うよ、篠崎さん。このアプローチシートものすごく真剣に眺めてたから」
「……それって今日ですか!?」
「え?そうだけど?さっき」
由樹は改めてその用紙を見つめ、そして無人の隣の席を見つめた。
デスクの上に置きっぱなしだったこれを篠崎が手に取り、コーヒーに口をつけながら睨むように見つめている姿が目に浮かぶ。
「…………」
――期待して、いいのだろうか。
篠崎がまだ自分を見捨てたわけではないと。
願ってもいいのだろうか。
もちろん簡単ではないだろうが、
それでもいつか彼が許してくれて、
また夢のような日々が戻ってくることを―――。