「なっ……」
優斗母が拳を握りしめながら今にも声を上げそうになっている。
慌てて優斗があいだに入る。
「乃愛、ちゃんと母さんの話を聞けよ。お前にいろいろ嫁の務めを教えてくれるんだぞ」
すると乃愛はふたたび目をぱっちりさせて首を傾げながら言った。
「どーして乃愛が嫁の務めを教わるの? だって乃愛はまだ結婚しないよ?」
それを聞いた優斗はぽかんと口を開けたまま黙った。
「それにー、なんで乃愛が優くんと結婚することになってるの? 意味わかんないんですけど」
唇を尖らせる乃愛を見て、いつもは可愛いと言っていた優斗はこのときばかりは苛立ちのほうが強かった。
「は? だってお前、紗那を追い出しただろ? お前がうちに来てくれるからじゃないのか?」
「はぁー? ますます意味不明なんですけどー。だって元カノさん追い出したのは乃愛じゃなくて優くんでしょー」
まさかそんな返しをされるとは思わず、優斗は狼狽えだした。
「いやお前、俺が紗那の態度に問題があるって言ったら同情してくれただろ? お前が俺のそばにいてくれるって言ったじゃないか!」
「うん。そばにいるって言ったよ。でも、優くんと結婚するなんて一度も言ってないよ」
優斗は表情が凍りつき、口をぱくぱくさせた。
「だいたい、優くんもあたしにプロポーズしてないじゃん? それなのに、いきなり親呼ぶの意味不明すぎー」
乃愛が軽い口調でそう言って笑っているところに、優斗母が割り込むようにして叫んだ。
「優斗、これは一体どういうことなの?」
優斗はおろおろしながらとりあえず乃愛を責め立てる。
「乃愛、いい加減にしろよ。俺はお前のために紗那と婚約破棄したんだぞ」
乃愛は肩をすくめてため息をついた。
「あたし、そんなこと頼んでないし。優くんちょっと頭おかしいんじゃない?」
乃愛の言葉に激怒したのは優斗母だ。
「あなた、うちの優斗に向かってなんてこと言うの?」
優斗母が怒鳴りつけるも、乃愛はまったく動じることなく、むしろクスッと笑った。
「優くんママ、子離れできてなくないですかぁ? 恥ずかしー。うちの優斗だってーぷふふっ」
優斗母は怒りのあまり拳でソファを二、三度叩いた。
そして目を血走らせながら優斗に向かって叫ぶ。
「何なの? この子は! こんな失礼な子は見たことがないわ! これなら紗那さんのほうが数倍マシよ!」
優斗は母をなだめながら乃愛に詰め寄る。
「乃愛、お前がそんな奴だとは思わなかったよ。いつも俺に寄り添ってくれただろ? 毎日俺に会いたいって言ったじゃないか。どうしてそんなに俺を困らせるんだよ! 俺のことが好きならもっと俺のことを考えろよ!」
すると乃愛は思いきり首を傾げた。
「ん? なんか優くん勘違いしてない? 乃愛は優くんが好きなんじゃなくて、優くんとえっちしたいだけだから」
それを聞いた優斗母が驚愕の表情で固まった。
「え、え、え、え、えええええっ……!」
優斗母は眩暈がしたのか、くらりとしてソファに頭を預ける。
「んな……なんて、破廉恥な……」
真っ赤な顔で狼狽える優斗は乃愛に向かって怒鳴りつける。
「お前、母さんの前でなんてこと言うんだ!」
「だって事実だしぃ」
乃愛はまったく悪びれた様子もなく、綺麗にネイルされた爪を触りながらぼそりと言った。
「優斗! 今すぐこんな子とは別れなさい! こんな非常識な子、お母さんは許しませんよ!」
優斗母は怒りのあまり真っ赤な顔で怒号した。
すると乃愛がすかさず反応する。
「別にぃ、許すも許さないも、乃愛は優くんと結婚なんてしませんしー。なんなら、もう用済みって感じ」
「なっ……お前っ!!」
今度は優斗が乃愛に向かって声を上げる。
「お前じゃないし。優くん、ちょっと失礼だよねー。乃愛のことお前なんて呼ばないでよ。彼氏でもないのに図々しいよね」
「お前のせいで俺は紗那と別れることになったんだぞ!」
「えー? それ乃愛のせいじゃないよね。優くんが浮気したんじゃない。それに、優くんの親がこんなんじゃ、誰も嫁なんてならないよぉ」
優斗と母は同時に頭のてっぺんまで真っ赤になり、歯をぎりぎり食いしばりながら反論しようとする。
しかし、乃愛がすぐに続けて言った。
「てゆーか、嫁って言葉も乃愛あんまり好きじゃないんだよねー。女のことなんだと思ってんだろ。ま、いいや。乃愛には関係ないし」
乃愛は立ち上がって自分のバッグを手に持つとふたりを無視して部屋を出ていく。
「どこ行くんだよ?」
「え? だって、えっちできないなら一緒にいる意味なくない?」
乃愛は優斗に背中を向けたままさらりと言った。
乃愛が出ていったあと、嵐が過ぎ去ったようにしんと静寂が訪れた。
しばらく沈黙していた母が優斗に静かに告げる。
「優斗、紗那さんと連絡を取りなさい」
「え? 何言って……だって紗那は……」
「3年も同棲しておきながら、そう簡単に別れられると思っているの?」
「いや、それは……」
「どうにかして紗那さんを連れ戻すのよ。山内家の嫁は紗那さんしか務まらないでしょ?」
恐ろしいほど真剣な顔で母に言われて、優斗は額に冷や汗をかく。
自分が出ていけと言った手前、こっちから戻ってくれと言うのはみっともない気がする。
「もうご近所にも優斗が結婚するってみんなに言って回ったのよ! 今さら結婚しないなんて恥ずかしくて言えないでしょ!」
母が鬼気迫る顔で訴えるので、優斗は俯いて黙り込んだ。
「いい? 絶対に紗那さんを連れ戻しなさい! 結婚式は予定通りしますからね!」
母はそう言うと、優斗をじろりと睨みつけてから、そそくさと出ていってしまった。
残された優斗は苛立ちが爆発し、テーブルに置いてあるカップを壁に投げつけた。
「くそっ!!!」
カップは取っ手と飲み口が割れて床に虚しく転がった。
優斗は苦悩のあまり「あああっ!」と感情的に叫び、拳でテーブルをバンバン叩いた。
テーブルに叩きつけた拳が赤く腫れ上がる。
優斗はぶつぶつ文句を呟きながらこうなった原因を考える。
紗那の顔を思い出し、ぎりっと歯噛みする。
優斗は紗那と一緒に食事をしたダイニングテーブルを見つめてぼそりと呟く。
「くそっ、ぜんぶ紗那のせいだ!」
優斗は紗那との3年の同棲生活を思い出す。
紗那は面倒見がよく、世話好きで、なんでも言うことを聞いてくれた。
しかし、同棲当初は穏やかだった紗那はだんだん口うるさくなっていった。
夜の営みも紗那は疲れていると拒否することがあった。
仕事から疲れて帰ったら、家は安らぎのある場所でないとおかしい。
それなのに、紗那は癒してくれなかった。
だから、乃愛と関係を持ったのだ。
「どう考えても俺は何も悪くないよな?」
優斗はスマホを手に取り、連絡先から紗那を表示させる。
紗那が出ていったあと、何度か【後悔するなよ】とメッセージをしたが、既読がついたまま返事はなかった。
(そういえば、紗那は今、会社で孤立していたはずだ)
優斗はにやりと不気味な笑みを浮かべる。
(俺が、なぐさめてやろう)