テラーノベル
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返答案が正式に封じられた瞬間、執務室の空気はほんの少しだけ変わった。
目に見えるものは何も変わらない。
机の上にはまだ同じ紙が並び、インクの匂いも、窓の外の暗さもそのままだ。
けれど、そこにいる三人――ベルナール、マルグリット、そしてアリアの胸の内では、たしかに一線が越えられていた。
もう口先だけではない。
伯爵家の印のもとに、アリア・ウェルグラン本人の意思が書かれた返答案が出る。
王城の暫定判断も添えられる。
その文書が隣国公爵のもとへ届けば、今までのように「家の中で様子を見る」だけでは済まなくなる。
「ローベルト」
ベルナールが低く呼ぶと、老執事がすぐに入ってきた。
「この返答案は今夜のうちに公爵閣下側の使いへ渡せ。王城への控えも同時に出す」
「かしこまりました」
ローベルトは両手で文書を受け取り、慎重に胸元へ抱える。その所作がいつも以上に丁寧なのは、この紙の重みを彼も理解しているからだろう。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
ベルナールは背もたれに身を預け、長く息を吐いた。
「……これで、侯爵家も黙ってはいまい」
その言葉に、マルグリットが小さく目を伏せる。
「ええ」
「おそらく明日にはまた来る。今度は“確認”ではなく、“止める”ために」
アリアは父の言葉を黙って聞いていた。
それはもう分かっている。
侯爵家は異議を出した。
代替案も示した。
それでも伯爵家が前向きな返答を出した以上、次はもっと直接的になるだろう。
婚約そのものを盾にするのか。
社交界の評判を持ち出すのか。
あるいはカイル本人の感情を前に出してくるのか。
どの形になるにせよ、もう「穏便な婚約者同士の話し合い」では済まない。
「アリア」
不意に母が呼んだ。
ふぃる汰
521
#魔王
#あやかし
がくじゅつてき・あかげ
1,119
「はい」
「今日は、もう休みなさい」
その声音は、命令というより気遣いに近かった。
ほんの少し前までなら考えられない種類の。
アリアは驚いたが、すぐに小さく頷いた。
「そうします」
席を立ちかけた時、ベルナールが低く言った。
「一つだけ覚えておけ」
アリアは振り返る。
「今夜の返答案で、おまえはもう“家の中で静かにしている長女”ではなくなった」
その言葉は、まるで確認のようだった。
アリアは静かに答える。
「はい」
「明日から先、侯爵家も、王城も、隣国も、それぞれにおまえへ違うものを求めてくるだろう」
「はい」
「おまえ自身が何を望むのか、それを見失うな」
それは父にしては驚くほどまっすぐな言葉だった。
家のために。
体面のために。
軽率に動くな。
そういう言い方ではなく、本人の望みを見失うな、と言う。
アリアは一瞬だけ言葉を失い、それから深く頭を下げた。
「……はい。忘れません」
執務室を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たかった。
夜はもう深い。
燭台の火が壁に揺れ、絨毯が足音を吸い込む。
遠くで扉の開閉する音がするたび、返答案を持って走る使いの姿を想像してしまう。
今ごろ、ローベルトが公爵側へ文書を渡しているのだろうか。
王城への控えも、もう門を出たのだろうか。
そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
けれどそれは、不安だけではなかった。
むしろ、自分が本当に外へつながる線の上へ立ったのだという実感が、少しずつ身体へ馴染んでいくような感覚に近かった。
廊下の角を曲がったところで、セレナが待っていた。
やっぱり、とアリアは思う。
妹は最近、こういう時に必ずいる。
「どうだった?」
小さな声。
「返答案、出したわ」
アリアがそう答えると、セレナは目を見開いた。
「本当に?」
「ええ。お父様が決めたの」
「じゃあ……本当に、進むのね」
その一言に、アリアは少しだけ笑った。
「そうみたい」
セレナは少し黙ってから、そっと言う。
「怖くないの?」
その問いは、今夜だけで二度目だ。
でも答えは変わらない。
「怖いわ」
素直にそう返す。
「でも、止まりたくはないの」
セレナは唇を結び、それから姉の顔をじっと見た。
「お姉様、今……なんだか綺麗」
「またそんなことを」
「本当よ。飾っているからじゃなくて」
妹は言葉を探しながら続ける。
「ちゃんと自分で決めてる人の顔になってる」
その言い方が、アリアにはひどく新鮮だった。
昔の自分はきっと、「綺麗」と言われる時、それが見た目や装いの話でしかないと思っていた。
でも今、セレナが言っているのはそうではない。
自分で決めている顔。
それはたぶん、以前のアリアにはなかったものなのだろう。
「……ありがとう」
少し照れくさくなってそう返すと、セレナはようやく少しだけ笑った。
「明日、カイル様たちがまた来るかもしれないのよね」
「たぶん」
「その時、わたくしも席にいていい?」
アリアは驚いて妹を見る。
「あなたも?」
「だって……」
セレナは目を伏せる。
「今まで、わたくしも何も知らないまま、何も考えないままそこにいたから」
その言葉には、前より少しだけ強い後悔が滲んでいた。
「今さらなのは分かってる。でも、今さらだからって、もう知らないままではいたくないの」
アリアはすぐには返事ができなかった。
妹のその言葉は、ずっと前から欲しかったものなのかもしれないと思ったからだ。
完璧な理解ではない。
十分な償いでもない。
でも少なくとも、「知らないままではいたくない」と言ってくれる人が、自分のすぐ近くにようやく現れたのだ。
「お父様が許せば、ね」
そう答えると、セレナは小さく頷いた。
「うん」
「でも、ありがとう」
「え?」
「そう思ってくれたこと」
セレナは少しだけ目を丸くして、それから照れたように笑った。
自室へ戻ると、アリアはすぐに寝台へ向かわなかった。
机の引き出しを開け、今までやり取りしてきた手紙を一通ずつ取り出す。
最初の短い紙片。
夜会のあとに届いた礼。
軽んじないと書かれた手紙。
隣国への招き。
そして今夜、伯爵家の名で出された返答案の控え。
順に並べてみると、自分の人生がこの数日でどれほど急に動き始めたのかが、紙の枚数だけでもよく分かる。
少し前まで、自分の名前はこうしたやり取りの中にほとんどなかった。
伯爵家を通して、家の者として、静かな補助として、いつも主語の外側に置かれていた。
けれど今は違う。
紙の上に、アリア・ウェルグランと書かれている。
本人の意思、と書かれている。
臨時協力、と書かれている。
その違いが、じわじわと胸へ沁みてくる。
「……もう戻れないのね」
小さく呟くと、その言葉は夜の部屋に吸い込まれていった。
戻れない。
それは怖いことでもある。
でも、それ以上に自然なことのようにも思えた。
だって本当は、ずっと前からここにあったのだ。
読むことも、探すことも、繋げることも。
ただ、それがようやく見える場所へ出てきただけ。
寝台へ入っても、すぐには眠れなかった。
父の言葉を思い返す。
明日から先、それぞれが違うものを求めてくるだろう、と。
王城は実務を求める。
隣国は視点と判断を求める。
侯爵家は婚約の維持と体面を守ろうとする。
伯爵家は家の立場と娘の意思の間で揺れる。
その中で自分は、何を選ぶのか。
けれど、少なくとも一つだけは分かっていた。
もう誰かの都合に合わせて、自分の望みを最初から小さくするつもりはない。
それだけは、今夜はっきりしている。
明け方近くになってようやく浅い眠りに落ちたアリアは、翌朝、珍しく夢の記憶を持たずに目を覚ました。
窓の外には澄んだ光が差し込んでいる。
春の空は高く、風も昨日より少しだけ柔らかい。
今日は何が来るのだろう。
侯爵家か。
王城か。
あるいは隣国から、もう返事が届くのか。
そう思った時、扉の向こうで控えめなノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
ローベルトの声だった。
「ええ」
「公爵閣下から、返書が届いております」
胸の奥で、また静かに何かが鳴る。
返答案は、ちゃんと届いたのだ。
そして向こうもまた、もう動いている。
コメント
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おお、28話読んだわ。決断の夜って感じで、静かだけどすごく重みのある回だったな。 まずベルナールが「おまえ自身が何を望むのか、それを見失うな」って言ったとこ、グッときたわ。ああいう親父の言葉って、物語の芯をブレさせない大事なセリフだと思う。 それとセレナが「もう知らないままではいたくない」って言い出したのも、すごく良かった。妹が自分の意志で立ち上がる瞬間、ちゃんと描かれてて感動した。 アリアが「もう戻れない」って呟くシーン、怖さと決意が混ざってて、沁みるわ。次の展開、めっちゃ気になる🔥