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八本脚の神シシュミスは今日も渺々たる広大な空に渡した蜘蛛の巣をかさかさと這いまわっている。もはや太陽の支配した一日も、月の支配したひと月も、星の支配した一年も、蜘蛛の巣に絡めとられていたのだ。ずっと、誰にも知られず、おそらく四十年の間。
ある日、ユカリたちを震撼させる災厄の如き重大な報告を屋敷に持ち込んできたのはヘルヌスだった。皆が居間に集まることになった。
ヘルヌスを出迎え、皆に伝えた後居間に戻ってきたのはユカリだ。ユカリは既に魔法少女の可憐な姿に変身している。
椅子に座って皆を待ちながら手持無沙汰に窓からシシュミス神を見上げる。塵ほども不快感が和らぐわけではないがユカリは薄目を通して眺める。八つの太陽を束ねた悍ましい顔貌、力を秘めた黒雲の如き体毛を纏った胴に竜巻のように伸びる八つの脚が生えている。ユカリの睫毛に加え、シシュミス神との間に横たわる莫大な空気のおかげでぼやけて見えるが、それでも距離感が狂い、蜘蛛が窓に張り付いているようにしか見えない。
神だと言われても実感が湧かない。むしろかつてアルダニの夜空に現れた、忌まわしい《熱病》の化身の、輝きを放つ見た目の方がずっと神々しいように思えた。
「ユカリ! 何見てるの?」
グリュエーがやってきて勢いよくユカリの背中に抱き着く。それはいかにも風のやりそうな無邪気な振る舞いだが、どこか影のある元護女エーミのやりそうなことではない。
ユカリと旅したグリュエーの記憶を得たグリュエーは少し性格が変わったように感じられた。特にユカリのお供だった風のグリュエーの性格など知らない者たちは急に明るくて能天気で親密な振る舞いをするグリュエーに面食らっていた。新たな記憶、新たな体験を得たことで性格が変容するのは当たり前のことと言えばそうなのだが、急速な変化に周囲がついていけるかどうかは別の問題だ。
「シシュ……」と言いかけてヘルヌスが目の前にいることを思い出す。変な疑念を抱かれても厄介だ。「八つも太陽があるのになんでこんなに薄暗いんだろうなって思って」
「ジニも同じようなこと言ってた。力が出ないってさ」
「同感。暑いのは嫌いだけど、太陽は明るくなくっちゃね。気が滅入っちゃうよ」
そこへレモニカがソラマリアを伴ってやってくる。
「ごきげんよう、ユカリさま。グリュエーも」
レモニカは特等席だとでもいうようにユカリの隣に座り、その背後にソラマリアが立つ。
最後にソラマリアが休んでいるところを見たのはいつだろう。ユカリは思い出せなかった。
「ごきげんよう!」ユカリとグリュエーが元気に声を揃える。
「どうして変身なさっているのですか?」とレモニカが魔法少女を見つめて囁く。
「ん? いや、呪いのある地域に行く度に変身するのも面倒かなあって」
適当な言い訳だ。心臓は何故か取り戻せず、それどころか心臓を中心に体が失われて、既に上半身の大部分が消え失せている。そのような芳しからぬ様を眺めるのは辛いものだからだ。自身も、負い目を感じている者にとっても。少なくとも魔法少女に変身している間はその心配もない。
「なるほど。それもそうですわね」と言ってレモニカも変身する。
居間に眩い光が溢れ返る。とはいえ元々ソラマリアの近くにいたので服装が変わっただけだ。
ユカリはグリュエーの疑うような眼差しを視界の端に捕らえる。
「その言い訳はさすがに無理があると思うよ、ユカリ」とグリュエーが指摘する。「何を隠してるの?」
「いや、それは……」ユカリが口籠っているとレモニカにがしりと手を掴まれ、正しい空のような深い青の瞳に覗き込まれる。
「本当は別の理由がありますの!?」レモニカが悲しそうに驚いてユカリの小さな手を掴み、銀細工のような美しい手で包み込む。「ユカリさま。わたくしどもを信用なさってください。共に喜ぶように共に傷つかせてください」
ユカリは観念し、洗いざらい白状する。全身を取り戻したエイカと違って、ユカリは心臓を取り戻せず、心臓を中心に空虚が浸食した部分も変わらず、さらに広がりつつある。そして魔法少女に変身している間はそのような奇妙な体ではなくなるのだ。何もかも初耳だろうヘルヌスも表情に出さないまま聞き耳を立てていた。
ユカリは本物の一つっきりの太陽のように努めて明るく話す。「理由は分からないけど、たぶん心臓のある場所に行かないといけないんじゃないかな。エイカのいた場所に赴いたみたいに」
「それに加えて深奥のもっと深い場所にある可能性があるよ」と丁度やってきたベルニージュが意見した。
「魔法使いは時間を守ってはいけない決まりでもあるのでしょうか?」
レモニカはにやりと笑みを浮かべて、まだジニとエイカがいないことも含めて皮肉った。
「別に何時に集まるって話じゃなかったけどね」とベルニージュは対抗する。
「人を待たせていますのよ?」
ベルニージュは欠伸混じりに答える。「ヘルヌスなんていくらでも待たせておけばいいよ」
「おい! ひとがせっかく情報を持ってきてやったってのに!」
ヘルヌスは憤慨しつつも、冗談だということは分かり切っているのですぐに矛を収める。
「深い所かあ」とユカリは呟く。「そこに心臓以外の部分も引っ張り込まれつつあるってことだね」
「その通り」とベルニージュは咲き誇る野花のようににこやかに肯定する。「取り戻すこと自体は難しくないと思う。ユカリがただ深く深く潜るだけだから。ただ、そこから戻るのは難しいかもしれない」
「蝶をたどってくればいいんでしょ?」とユカリは不安を打ち消すように尋ねる。
「より深い場所でも同じようにできるかどうか。前にも言ったけど、より魂や概念に近い状態になった場合、それこそ自我を保てるかどうかすら怪しいよ」
深く深く潜った果ての真っ暗闇の中に自身の体が解けて消え去る様をユカリは想像する。
ユカリは震えあがるが自分に言い聞かせるように呟く。「大丈夫。きっと戻って来る」
「その時はわたくしの蝶をたどってくださいまし」レモニカはいまいち深奥での体験を理解してないが故に能天気に願う。「わたくしが一番に受け止めて差し上げますわ」
「ありがとう。その時はそうするよ」
「それでどんな情報だい? 話を始めとくれよ」
いつの間にかジニがヘルヌスの隣に座っていた。ヘルヌスは飛び上がるが、他は皆慣れたものだ。
ヘルヌスは不意を突かれたことなどなかったかのように落ちついて居間を見渡し、人数を数える。「もう一人いたんじゃなかったか?」
正確にはふたり、エイカとカーサがいない。
あれからずっとユカリはエイカと話をしていない。エイカの方から話しかけてくることもなかった。
「あの子なら今朝方散歩に出かけたっきりだよ」とジニは落ち着き払って答える。
「大丈夫なのか、それは」ソラマリアも思わず疑義を挟む。「貴女とエイカに関しては大王国にも教団にも機構にも知らせてない。見咎められれば面倒なことになるぞ」
「カーサがついてるからね。悪いようにはならないさ。それに誰にも気にも留められなかったとしても面倒を持って帰るよ、あの子は」
ジニの口調からもカーサへの絶対の信頼とエイカへの信頼の無さがしっかりとうかがえる。
「構わないなら始めるぞ」ヘルヌスが再度全員と目を合わせ、話を始める。「まずは報告だ。お前たちが解呪した土地、ラゴーラ領、モーブン領、ケドル領、マローガー領が再び同じ呪いに満ちた。先日呪いを解いたゴアメグ領もおそらく時間の問題なのだろうな」