『そんな悪い男のことは、さっさと忘れるんだな』
と青葉は言った。
「そうします」
とあかりは答えた。
そんな昨日の会話を思い出しながら、あかりは、ふわふわのハンディーモップを手に店内の掃除をしていた。
そうそう。
そんな悪い男のことは、さっさと忘れて。
それで終わりだ。
私が好きだったあの人は、もう死んだんだから――。
朝の光が眩しいな、とあかりは差し込む日差しに輝くランプを見つめる。
大好きなランプはつけられない時間だけど。
やっぱり、朝の光も好きだ。
『朝、ランプつけてもいいんじゃないか?
こっち、夜明け遅いしな。
そういえば、北欧の人たちは、夜が明けるのをずっと眺めてたりするらしいぞ。
日が昇るまで、ランプつけて、眺めてたらどうだ?』
――とフィンランドにいた頃の、木南青葉は言っていた。
フィンランド。
ムーミンの住む国。
……違うな。
ムーミンが住んでるのは、ムーミン谷でフィンランドじゃない、とという論争が大学入試で起こってたっけな。
『ムーミンが住んでる国は何処でしょう?』みたいな問題で。
でも、なんか木々の後ろや湖の側なんかに、ムーミンが潜んでそうな気がするフィンランド。
そんな憧れの国に留学し、あかりは青葉と出会った。
青葉に言った通り、ふたりはお互いの通り道を塞ぎ合って出会い。
道を訊かれ、恋に落ちた。
今の冷静な青葉に説明したら、
「なんなんだ、それは」
と言い出しそうな状況だ。
まあ、そもそも、最初からまともでなかったよなー、とあかりは思い出す。
仕事でフィンランドに滞在していた青葉は、家具のの場を見学に行く途中、車の事故に巻き込まれ、記憶をなくしていたらしい。
「えっ?
じゃあ、今、記憶ないんですかっ?
大丈夫なんですかっ?」
と身を乗り出し、訊いたあかりに、
「大丈夫だ。
仕事には支障ないから」
と笑って夕食のサーモンスープを食べながら、青葉は言っていた。
「いろいろ人に教えてもらって、今の状況は理解できているし。
自分が何者かもわかってる」
と言う青葉は、ほんとうに普通に仕事をしているようだった。
……尋常じゃないな~、この人、とそのときも思ったのだが。
今も、なんか普通じゃないな、とは思っている。
「今度、うちの職場の人に紹介するよ」
と微笑む青葉に、
家族じゃなくてか、と思ったが――。
フィンランドに家族は来ていないから、とりあえず、親しい人に紹介するという意味で、そう言ったんだったのか。
青葉は寿々花と衝突したりすることが多かったようなので。
それで、家族より仲良い人にまず紹介する、という意味で言ったんだったのか。
正解は、今となっては、もうわからない。
どちらにせよ、あかりは職場の人に紹介されることはなかった。
ある日、突然、青葉はあかりの許を訪れなくなってしまったからだ。
出会って一週間。
なんとなく、道で出会ったり。
なんとなく、市場で出会ったり。
なんとなく、恋に落ちたり――。
そんな感じに、なんとなく一緒にいた二人は、お互いのことをよく知らず。
青葉の携帯も何故か通じなくなっていた。
……捨てられた、とあかりはショックを受けた。
もしかして、詐欺!?
とも思ったが、なにも盗られてはいなかった。
盗られるどころか、青葉は、あかりのお腹に子どもを―― 日向を残していっていた。
それがなかったら、気まぐれだったんだろうと諦めて、しょんぼりして終わっていただろうが。
子どものためにも、とりあえず、連絡はつけねば、とあかりは青葉といたときの記憶をたどる。
青葉は名字を名乗っていなかった。
日本大使館に訊けば、名前だけでも、わかるのだろうが。
訊いたところで、個人情報ですとか言って、教えてくれそうにはない。
私がストーカーって可能性もあるしな。
……ストーカー。
そう言われても仕方ないな。
訪ねて来なくなった男の人を探してるわけだから。
そう思いながらも、あかりは、とりあえず、青葉が訪ねて事故にあったという工場を探した。
たいした事故ではなかったようなので、ニュースを調べても出ては来ないだろう。
だから、青葉が好きそうな家具を探し。
そのメーカーに電話をかけ、近くで事故がなかったか。
訪ねてきた人が事故を起こしたと話していたことはないかと訊いて回った。
そうして、あかりは『木南青葉』にたどり着いたのだ。
木南青葉は、大層な資産家の息子だった。
金目当ての女がたくさん寄ってきていただろうから。
それで、名字を隠す癖がついていたのかもしれないとあかりは思う。
会社に電話し、なんとか取り次いでもらおうとしたが。
折り返し、電話をかけてきたのは、日本にいるはずの、母、寿々花だった。
『息子に会わせてもいいですけど。
あなたのこと、わからないと思いますよ。
事故に遭ってからの記憶がないみたいなので』
そう冷たい声で言われた。
青葉は、なにかの弾みで、以前の記憶を取り戻したらしい。
だが、そのせいで、今度は記憶を失っていた二週間の記憶がすっぽり抜け落ちてしまったのだと言う。
二週間……。
私と出会っていたのは、そのうちの一週間。
ロミオとジュリエットは出会って死ぬまで、五日。
それはよりは長いけど。
共にいた時間が短すぎて。
青葉は何も気にせず、過ごしているようだった。
ジュリエットもその後に起こるだろう、いろんな悲劇を想像しないこともなかっただろうが。
まさか、それじゃあ、と別れたロミオが記憶を失ってしまい。
『自分と共に過ごしたロミオ』がこの世からいなくなるってパターンは想像してなかっただろうな、と思う。
その後、寿々花は青葉を連れてきてくれたが。
記憶を取り戻した青葉は、別人のような冷たい瞳で自分を見下ろし、言ったのだ。
『お前は誰だ――』
そのとき、あかりは思った。
これが本物の木南青葉なのか――。
冷徹でやり手の御曹司。
過去の記憶を失って、家や仕事から解放されていたから、あの人、あんなに、ぼんやり、ほっこりしていたのだろうか、と。
いやまあ、よく考えたら、記憶がない間も、あの人、普通に仕事してたんだが……。
だが――
いきなり、青葉が消え。
もてあそばれたのかと思う不安の中、妊娠がわかり。
現れた青葉は別人のようで。
深く考えられないまま、傷心のあかりは帰国した。
『じゃあ、また明日』
あの日、青葉は一度扉を出て行ったあとで、戻ってくると、あかりの手を握り、そう言ったのだ。
そして、ちょっとはにかむように笑った。
あまりに普段通りの別れで。
まさか、それがあの青葉との今生の別れになるなんて思ってなかった。
結局、あかりは、青葉に妊娠を告げることはなかったが。
寿々花が気づいて、連絡してきた。
「いや、あなた、おとなしそうなのに、なんで青葉のことを調べ上げて追いかけてきたのか、気になってね」
そう寿々花は言っていた。
そして、今に至るんだが――。
まあ、よく考えたら、ちょっとおかしい気がするな、と青葉と再会した今、あかりは思っていた。
あのときは、記憶を失っているときの青葉さんだけが、私の好きだった青葉さんで。
記憶を取り戻した普段の彼は、冷徹な実業家だったんだ、と思って諦めたのだが。
なんの運命か、猫とおばあさんを避けて、ここに車で突っ込んできた、この人は、
自分が見ていた青葉となにも変わりなかった。
仕事では、やり手だが。
ちょっぴり変わってて。
やっぱり、ぼんやりした人だった。
子どもたちの前で、怪しいちちんぷいぷいの踊りを踊ってくれるくらいの――、
とあかりは、
「いやっ。
あの踊り、お前の真似だからなっ」
と青葉に叫ばれそうなことを思う。
何故か昔のように、せっせとやってくる青葉は、今日は、この間のお礼にと、デパ地下でお弁当を買ってきてくれた。
見た目も鮮やかな料亭のお弁当だ。
それを並んでカウンターで食べながら、あかりは青葉に訊いた。
「あのー、木南さんは、実は車の運転、下手ですか?」
フィンランドにいたときといい、今回といい、何回、車で突っ込んでんだと思ったからだ。
「もう乗らない方がいいですよ……」
「なに言ってるんだ。
確かに俺はここに突っ込んできたが。
それは、猫とおばあさんを避けたからだろうがっ」
と青葉は反論してくる。
いや、それだけじゃないですよね~、とあかりは思っていた。
そのことを知っているとは、今、言えないが……。
青葉と再会したことは、まだ寿々花には言っていない。
寿々花が青葉を連れてきたとき、二度と息子には近づかないと約束させられたから。
妙な動きを見せたら、日向を取り上げられるかもしれない――。
それに、私の中では、もう、この青葉さんは、あのときの青葉さんとは別人だしな、とあかりは思う。
そもそも、今の青葉さんは、私のことを、時折、変な呪文を唱える、経営下手な店長、くらいにしか思っていないだろうし。
あかりは、薄味だが、出汁のよく効いた煮物を食べながら、ふと訊いてみる。
「あのー、木南さん、生き別れの双子の兄とか、弟とかいますか?」
「いや、俺は姉しかいないぞ」
……ですよね、と思ったとき、青葉が言った。
「そういえば、前もおかしなことを言ってたな。
俺と会ったことがあるとか」
そう。
私に、『お前は誰だ――』と言ったのは、記憶を取り戻したあとの青葉だ。
だったら、母親に謎の女と引き合わされたという記憶があるはずなのに、と思ったが。
青葉は言う。
「お前、もしかして、|大吾《だいご》に会ったか」
「誰ですか、大吾って」
「母とそっくりな母の姉の子だ。
俺よりちょっと年上なんだが、よく似てて、結構、間違われるんだ」
……別人のような冷徹でやり手の御曹司……
って、あれ、別人だったのではっ!?
寿々花さんーっ!? とあかりは心の中で絶叫する。
「道を訊かれたとか言ってたが。
大吾も莫迦だな。
こんな方向音痴そうな奴に訊くなんて」
はははは、と青葉は笑っている。
……いや、私に道を訊いた莫迦者は、あなたの方ですよ。
そう思いながら、あかりは蒼い扉の横にかけてある、フィンランドから持ち帰ったランプを見つめた。