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第5章 決意の一歩
廊下に出た瞬間、めぐみは足を止めた。
窓の外から差し込む夕日が、誰かの背中を照らしている。制服のリボンが、かすかに揺れた。
「……ちょっと、いい?」
振り返ったその人――牧野美佳は、まっすぐにこちらを見ていた。どこか不安そうで、それでも逃げない目だった。
「時間、あるなら……話を、聞いてほしい」
*
放課後の教室は、いつもより静かだった。
誰もいなくなった二年一組。西日に照らされた机の上で、めぐみと美佳が向かい合う。
「私、昨日……帰ってから、ずっと考えてて」
美佳はそう切り出し、机の上で指をそっと組んだ。
「正直、行くかどうか、迷ってた。でも、行かないままだったら、きっと後悔すると思って」
めぐみは黙ってうなずく。その表情には、急かす色も、責める影もなかった。
「……小さい頃の話なんだけど、幼稚園の時、相撲大会があって」
美佳は一瞬だけ視線を落とし、それから再びめぐみを見た。
「私、男の子に勝っちゃったの。それで……周りの子にすごくからかわれた。特に同じクラスの女の子に“変なの”とか“女の子のくせに強い”って笑われて……」
思い出すように、美佳の指が机の上でぎゅっと握られた。
「それからずっと、相撲っていう言葉だけで、心がざわつくようになった」
めぐみは静かに、頷いた。
「でも……昨日の皆を見てて、なんか、ちょっとだけ羨ましいなって思った。何かを一生懸命やってるのって、すごくまぶしかった」
「……ありがとう。来てくれただけで、すごくうれしかったよ」
めぐみの優しい声に、美佳の表情が緩んだ。
「……でもやっぱり、参加するかはまだ迷ってる。だから、勝負しよ?」
「勝負?」
「うん。腕相撲。私が勝ったら、もう誘わないで。めぐみが勝ったら……大会に出る」
一拍ののち、めぐみはニッと笑った。
「よし、勝負!」
*
カツン、と肘が机につく音。二人の手が重なった。
「じゃあ……いっせーのーせっ!」
バシッと力がぶつかり合い、机がわずかに軋む。
最初は互角――いや、わずかに美佳が押し込んでいた。
めぐみの手首があと数センチで倒れそうになる。
(強い……!)
しかしその瞬間、美佳の脳裏に稲妻のような映像が走った。
――勝っちゃったんだ、男の子に。
――女の子なのに、何それ?
――変なの!
ガクン、と腕に力が入らなくなる。
めぐみが踏ん張り直し、美佳の手が机に落ちた。
「……あっ、ごめん! 本気じゃなかったわけじゃ――」
「みかちゃんさ、最初から勝つ気なかったでしょ?」
美佳の目が瞬く。
「え……?」
「正直、勝つ瞬間にその昔の記憶がフラッシュバックすること、知っててやったんじゃない?」
美佳はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「……多少は分かってた。けど、自分の記憶に勝てるか負けるか、試してみたかった」
「そっか」
「うん。めぐみにも負けたし……」
「自分の記憶にも負けた――」
「そう。情けないなあ……」
その言葉を最後に、美佳は顔を伏せた。
めぐみはすっと立ち上がり、机を回って美佳の隣に座る。
そして、そっと抱きしめた。
「泣いてもいいよ。ここにいるから」
美佳の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
めぐみの腕から伝わる温もりが、長いあいだ胸の奥で凍っていた記憶をそっと溶かしていくようだった。
*
神社の土俵に着いたのは、予定の時間から一時間が過ぎた頃だった。
「……あれ?」
夏菜の声に、皆が振り返る。
制服姿のめぐみと美佳が、並んで立っていた。
「……ごめん、遅れました」
美佳が深く頭を下げる。
「この前のこと、ちゃんと謝りたくて。逃げるみたいに帰って……ごめんなさい」
すると、水々葉がにっこり笑った。
「もういいよ。来てくれた、それだけで十分」
「そうそう! こっちこそびっくりだよ~」
めぐみが苦笑する。「でも、一時間の遅刻は減点かも?」
美佳が肩をすくめて「次は絶対オンタイムで!」と答え、全員が和やかに笑った。
遅くはなったけどここからようやく五人体制での練習が始まる。
「あ、そうだ!」夏菜が手を打つ。「大会に出るなら、チーム名が必要じゃない?」
「チーム名かあ……」
皆がうなったところで、めぐみがぽつりと呟いた。
「……“桜力”って、どうかな。“おうりょく”って読むの」
「桜の力……?」
水々葉が繰り返し、夏菜が「なんか、かっこいいかも」と笑う。
「春に咲く桜みたいに、私たちの力も、みんなで咲かせられたらって……そう思ったんだ」
その言葉に、全員がうなずいた。
「いいね」「うん、それがいい!」と声が重なる。
こうして――桜力(おうりょく)という名前が、生まれた。
「さあ、練習しよう!」
めぐみが声を上げたその時だった。
「おーい! 遅れてごめん!」
駆け寄ってきたのは、優衣。
そして――その後ろに、見慣れない少女たちの姿があった。
伊藤音々葉が軽く手を振る。「桜力か、いい名前だね」
池田あかねが首をかしげる。「あなたたちが相撲大会に出る人?」
めぐみたちの物語が、また少し、動き出した。
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