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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
今日は雅が休みで、私が仕事の日。
二連休だという雅は初日をのんびり過ごしていたけれど、あいにく私は二日とも出勤だった。相変わらず休みは合わないけれど、一日の終わりにこうして顔を合わせて会話ができる時間は多少確保できた。
「あ、そうだ。明日、会社の飲み会があって遅くなるから」
「あ? そんな話前からしてたっけ」
「してたわよ。あんたは適当に流してたけど」
雅は記憶を掘り起こそうとするのか、少し口を開けて呆けたような顔をしていたけれど、結局思い出せなかったらしい。
元から自分に興味のない話は右から左へ受け流す男だ。
期待はしていなかったけれど、案の定だった。
「あ、そ。何時に終わるん。迎えに行く」
「やめて!」
「は? 何で?」
不服そうに眉を寄せる雅。
なんでって…、あんたみたいなのが会社に来たら、目立って仕方ないでしょうが。
職場では、雅が夫だなんて一度も報告したことがないし、するつもりもない。以前、転勤前の支社まで迎えに来られたとき、奴の顔の良さのせいでちょっとした騒ぎになった記憶がある。
本社で同じ目に遭うなんて御免だし、上司や同僚に冷やかされるのも避けたい。私にとって職場は、余計なことを考えず好きな仕事に集中できる場所でありたい。
雅に邪魔をする気がないのは分かっている。
必要なら紹介もするけれど、今はその必要性を一ミリも感じない。
「そんなに遅くならないうちに帰る。新婚だから~って言えば返してもらえるでしょう」
「門限二十一時な」
「門限とか面倒な事言わないでよ」
今時の高校生より早い門限だろうが、二十一時は。
そんな会話をした翌日。定時を迎え、私は重い足取りで飲み会の会場へと向かった。
正直に言って、私は会社の飲み会が好きじゃない。
こんな時間があるなら、早く帰って半身浴でもしながら、スマホで動画を眺めていたい。時々、長風呂がすぎて「さっさと上がれよ、つっかえてんだよ」なんて雅に怒られることもあるけれど、私にしてみれば、そんななんでもない日常のやり取りこそが、今は何よりも貴重だ。
ただでさえ雅と過ごせる時間は多くない。だから、ゆっくり過ごせそうなタイミングでくらいは、あいつのいる場所に帰りたかった。
腕時計に目をやると、そろそろお開きでもおかしくない時間。適当なところで切り上げて退散しようと、そう考えていた矢先、思わぬ出来事が発生した。
私が飲み会を嫌う理由。それは、上司たちの酒癖の悪さだった。
普段はまともな判断ができる人たちが、酒に呑まれた瞬間に理性を失う。そして、そのしわ寄せを食らうのは決まって下の人間だ。二十代前半の頃、どう振る舞うべきか悩み、苦労した記憶が蘇る。
いま、あの上司に捕まれば、帰宅が大幅に遅れるのは明らかだった。だけど、目の前で絡まれて困っている二十五歳の後輩を、見捨てて帰る気にはどうしてもなれなかった。
雅には«ごめんね、早く帰れなさそう。お説教なら時間ある時聞くから許して»と送信ボタンを押しながら、雅の反応を予想する。
きっと、あいつは怒ると思う。本当にそれ、お前が背負わなきゃいけないこと?なんて、そんな風に、また言われてしまうと思う。
こういう根本的な価値観のズレに直面するたび、私は時々、雅のことを面倒くさい男だと感じる。
これから雅に突きつけられるであろう正論を想像し、重くなる気分を強引に振り払って、私は部長の隣へと踏み込んだ。
「ご一緒良いですか? 少しお話したくて!」
無理に笑顔を張り付かせ、上司と後輩の男性社員の間に割り込むと「今のうちに水飲んどいで。お酒変わる」と彼に水の入ったグラスを握らせ、代わりにアルコールのきついウーロンハイを回収して、その場から逃がした。
それなりにお酒が強い自信がある私は、上司の隣に座って役割を変わった。
「おお! 朝比奈さん。新婚生活どうなんだ?」
晟氏は上機嫌で、新品のお猪口をこちらに差し出してきた。なみなみと注がれるのは、銘柄も分からない日本酒。度数すら不明で少し怖かった。
味わう暇もなく、ただ喉を焼くだけのアルコール。こんな場所、どう頑張っても好きになれるはずがなかった。
新婚生活の話を振られ、雅の顔が浮かぶ。
そういえば、今日は金曜日だ。珍しく休みが重なるはずだったのに。こんな味のしない酒を煽るくらいなら、早く帰って一緒に外食でもしたかった。それか、少し手間の掛かる料理を二人で囲むのだって良かった。
普段はこのすれ違い生活を、いつも仕方ないと割り切っているけれど、無意味な飲み会のせいでその貴重な時間が削り取られていくことには、どうしても腹の底で納得がいかない。
「……喧嘩、もしますけど、楽しいです」
「そうかそうか。正直朝比奈さんが寿会社とかしなくて良かったよ!反対をしているわけでもないけどね、朝比奈さんは女性の中でも先陣を切って出世している女性だから」
「光栄です。主人も理解してくれていますので」
淀みなく答えながら、差し出される杯を次々と空けていく。
煽られるままに流し込む酒は、驚くほど美味しくないけれど、ここで私が引けば、あの子がまた標的になる。それが分かっているから、私はグラスを置くことができなかった。
「そう言えば、子供の予定とかはあるのかな。産休とか、育休どう思う?」
「いえ、まだそんな話は……」
言葉だけを切り取れば福利厚生についての真剣な相談にも聞こえるが、実態は程遠い。向けられているのは、酒の勢いに任せたただの好奇心。
親類から予定を聞かれるのでさえ、プライベートを土足で踏み荒らされるようで十分すぎるほど不快なのに、会社の上司からとなればなおさら嫌悪感が増した。
正直なところ、新婚の夜の事情をダイレクトに尋ねられているのと何ら変わりはない。生理的な嫌悪感が、胃の底からせり上がってくる。
酒に呑まれて、そんな当たり前の判断もつかなくなっているのか、まともな思考を奪うのがアルコールの力だとは身に染みて知っているけれど、そんなデリカシーも何もかもなくなるほどアルコールに呑まれるくらいなら飲まないでほしい。
(早く、終わってほしい……)
祈るような心地で、会話をただただ淡々と受け流した。刻々と時間は過ぎているはずなのに、やけに遅く感じる。
その中で、私はまだ気づいていなかった。
スマートフォンの画面に映った彼からの通知に。
«どこで飲んでんの?»
«遅くなるのは心配だから連絡よこして»
あんなに恐れていた説教どころか、そこにあったのは、ぶっきらぼうで、けれど真っ直ぐな、彼なりのやさしさだった。
どうして私はいつも雅の優しさに、こうも早く気づけないのだろう。
☁︎·₊°
数時間後にはアルコールの力で意識が朦朧としていた。
「朝比奈さーん? あれ、黒崎さん? どっちでもいいか。もう潰れちゃってるよ」
「どうしよう、家分からないけど。どこかホテル取って休んでもらう?」
「旦那さん心配しない? 無断外泊?」
遠くで誰かの声が、鼓膜に届いているけれど、今の私にはそれが自分に向けられた言葉なのかさえ区別がつかない。
…黒崎? ああ、そう。私の名前。
誰かに両脇を支えられ、辛うじて立たされている感覚はあるけれど、それが誰なのかを確かめる気力も、目を開ける力も残っていなかった。
どうして、私、こんなに飲んだんだっけ。
上司の言葉に吐き気を覚えた記憶だけはある。やり場のない不快感を酒で押し流そうとして、そのままアルコールにおぼれた。
……もう、どうでもいいから、今はとにかく帰らなきゃ。
そう思っていても、身体は重く一歩も前に踏み出せない。
「朝比奈さん? スマホ借りますね~」
抵抗する術もないまま、ジャケットのポケットからスマートフォンが抜き取られると、指を掴まれ、ロックを解除される感触があった。
「黒崎、……雅さん? この人かな、旦那さん。朝比奈さん、自分で電話できます?」
問いかけに答えられず、ただただ意識は落ちていく。
それからの記憶は、もうほとんど残っていない。
𓂃꙳⋆⭐︎
「そうですか。お手数おかけしました」
「いえ、こちらこそ。朝比奈さんが無理しているの分かっていたのに飲ませ過ぎてすみません」
聞き馴染んだ低い声。その響きに、意識をわずかに取り戻す。
その声に引かれるように顔を上げると、私の大好きな顔がすぐそこにあった。
「あれぇ? なんでぇ? 家? ここ」
「……ほんと、ある意味期待裏切んないな。お前」
呆れたような、けれどどこか硬い声。そのまま抱き上げられるようにして動き出したけれど、私の身体は思うように力が入らない。
「うっ……、ちょっと、優しくして……!」
「手掛かる女。何が早く帰るからだよ」
「おん、ぶ」
「ふざけんな、ボケ」
ああ、これ、相当怒ってるな、とお酒に呑まれていても、それくらいは察しがついた。だけど、それ以上に会えたことが嬉しくて、私は羞恥心も捨てて雅の首筋に思い切り抱きついた。
ここがどこなのか、誰に見られているのか、なんてそんなことはどうでもいい。明日にはどうせすべて忘れてしまう。
「……本当、俺。唯一お前のそういう所は嫌い」
「嫌い? 何で?」
「誰にでも優しくするけど自分の事は大事に出来ない所。自分の事疎かにするけど、もう一人じゃないのちゃんと理解してんの?」
「嫌い……、やだ」
「…酔っ払いに言ってもか」
案の定、始まった説教だったけれど、その言葉の本当の意味を拾い上げることができない。
彼がどんな顔で、その言葉を紡いだのか。
どんな気持ちで私からの連絡を待っていたのか。
私は何ひとつ知らないまま、彼に身を預けていた。
コメント
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「雅の迎えに来たシーン、すごく好きです。『自分を大事にできない所が嫌い』って言いながらちゃんと迎えに来てるの、もう完全に愛やん…ってなりました。酔ってても雅の顔見て『会えた嬉しい』って思えるの、すごく伝わってきて胸がぎゅってなった。作者さんの描く不器用な優しさ、本当に刺さります。この日常の積み重ねがたまらないです🥀」