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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
深夜二時。
夜明けまではまだ遠く、静まっている時間帯。
はっきりした意識にまず飛び込んできたのは、割れるような頭痛だった。
のろのろと上体を起こすと、自分の服がひどく乱れていることに気付く。暑くて自分ではだけさせたのかは、わかっていない。
今はそれよりも、隣にいない雅の不在が気になった。
重い足取りでリビングへ向かうと、部屋は暗く、ただベランダの向こうに人の影が見えた。
そこに雅がいた。彼はそこで一人で煙草を燻らしていた。
掃き出し窓を開けると、部屋に一気に流れ込んでくる。
雅は背を向けたまま「出てくんなよ。風邪引く」とこちらを向きもしないその態度に、彼が単に呆れているのではなく、怒っているのだと思った。
約束を破ったことか、それとも、泥酔して醜態を晒したことか。
「……ごめんね」
「何が」
「早く帰るって言ったのに、帰れなかった事。でもね、仕方なかったの。部長に……「知ってるよ」」
あまりの刺々しい返答に言葉を失う。いつもなら「そんなことだろうと思った」と嫌味の一つも言って許してくれるのに。
これほどまでに雅が突き放したような言い方をする時、理由は大抵決まっている。
本気で、私の身を案じた時か…、
─────……本気で、嫉妬した時。
だけど、嫉妬される心当たりなんてどこにもない。
記憶にないだけなのか、意識を手放した後のことはどうなっていたかわからないから弁明ができない。
昨日の帰り道、私は誰に抱えられ、どんな顔をしてここに戻ってきた?
記憶を必死に辿ろうとするけれど、何も思い出せはしない。
何も言い返せないまま、私はただ、彼の背中を立ち尽くして見つめていた。
ようやくこちらに振り向いた雅の顔は、驚くほど無表情だった。呆れも、怒りも、何も映っていない。
これなら怒鳴られた方がマシだと感じるほどの冷たさに、息をのむ。
「……もういい? 俺、ちょっと外に出てくるから」
「え、こんな時間に?」
「今、夏帆の顔見てるとイライラして余計な事言う」
「な、言えばいいじゃない。いつもそんな遠慮しないくせに」
「いちいち言いたくも無いわ、もう」
いつもなら雅は、言葉はきつくても全部ぶつけてくれた。口論になっても、最後には折り合いをつけてきた。
だけど、こんな風に話し合いそのものを放棄されたのは、初めてだった。
「……どいてくんね? だるい」
掃き出し窓を塞いで立ちはだかる私に、雅が吐き捨てる。
どうして、何もわからないまま、そんな理不尽な言葉を浴びせられなければいけないのか、と怒りも湧いてくる。
大前提、私が悪い自覚はある。何度だって謝るつもりだ。けれど、私の思い当たる理由以外に何かあるのなら、言葉にしてもらわない限りわからないままで、何を言えばいいかもわからない。
こんなの、いつもの私たちの喧嘩じゃない。
「嫌。ちゃんと話してくれなきゃ、どかない」
「だるいって聞こえてねぇの? 今お前と冷静に話せないの、理解できる? 傷付けたくもねぇし、今は喧嘩するエネルギーもねぇからどけろ」
激しい拒絶が、胸に深く突き刺さる。
仕事のため、後輩のため、そう思って頑張ったはずの行動が、どうしてこうも毎回、雅を本気で怒らせてしまうのか。
私はあの時、どうするべきだったのだろうか。
頑なに退こうとしない私に、雅は苛立ちを隠そうともせず、溜息を吐いて髪を掻き上げた。
「そこまで聞きたいなら言うけどさ、後輩の男が飲まされてそれを庇うのがなんで毎度お前で、なんで毎度無理するの? どうでもいいよ、早く帰れなかったとか、何も無く帰ってこれたら。
けど、急に会社の誰か分かんねぇ女が夏帆のスマホ使って電話してきて呼び出されて、迎えに行ったら男に支えられてんの見た俺の気持ちわかる?」
全く、記憶にない。
私が意識を失っている間、男性社員が私を支えていた。その光景を、雅はどんな思いで直視したのか。
そこまで言われて、ようやく彼の怒りの正体が見えてきた。
「ご、めんね。でも、本当に仕方なかったの。私以外誰も助け入らなくて、それで潰されちゃったらあの子……」
「知らねぇよ。俺からしたら夏帆以外どうなろうが知らないし、夏帆がこうなるまで人に頼って自分で何も出来ないクソみたいな男の話なんてどうでも良い」
「そんな言い方……! 何で、雅はそんなに人に優しく出来ないの!?」
「優しさ出した結果、その辺の男に持ち帰られそうになるほど隙見せてどんな気分なわけ? ああ、もしかして迎えに来んなって言ったのも、他の男とそういうこと期待してた? ごめんな、俺じゃ満足させてやれなくて」
そうじゃない、そんなわけない。
あんな飲み会の最中でさえ、ずっと雅のことを考えていたのに、他の男性となんて考えるわけがない。
私の想いを踏みにじるような、最低な言葉。
突き刺さるような痛みが、一気に怒りへと反転する。
喉の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
言い返したいのに、言葉が震えて出てこない。私はただ、あふれ出した涙を拭うこともせず、雅を睨みつけることしかできなかった。
私の涙を見て、雅の瞳が一瞬だけ、微かに揺れた……、けれど、彼はすぐに冷たさを顔に取り戻した。
「……泣いて何もかも許されると思うなよ。今まで散々我慢してきたけど、限界だわ」
「……そんなん、私だって我慢してきたし。お互い様じゃないの」
「俺は、他の女に隙なんか見せたこと無いよ。もし、今日みたいに酒に酔って、知らない男にお前が抱かれたら……、俺そいつ殺しに行くと思う」
冗談を言っているようには見えなかった。
彼の瞳の奥に宿る、逃げ場のないほど純粋で凶暴な熱に、私は思わず息を呑んだ。雅が、そこまで暗い独占欲を強く持っていたことに気付かなかった。
私の凍りついた表情を見て、雅が何かを小さく呟いた。
あまりに小さく低い声で、それが何だったのかを今の私には読み取ることができない。
「……頭冷やしたいから、マジで数日放っといて。しばらく俺の事は居ないと思ってて良いから」
私の肩を押し退け、雅は玄関へと向かう。
突き放されることが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
衝突しながらも、最後には言葉を交わして笑い合えると信じていた。私達の積み上げてきた時間が、こんなにも脆く崩れ去るなんて考えもしなかった。
その日から、雅は私を避けて生活するようになった。
コメント
1件
第60話、読み終わりました……。今回は、いつもと違う雅の「冷たい怒り」がすごく刺さりましたね。普段は言葉がきつくても最後には折り合いをつけてくれるのに、話し合いそのものを放棄された夏帆の戸惑いと痛みが痛いほど伝わってきました。特に「♡♡♡に行くと思う」って、ああいう形で本気の独占欲を見せるの、怖いけどリアルだなって。2人の積み重ねた時間が一瞬で揺らぐ感じ、胸が苦しくなりました。続き、ちゃんと読みますね。