テラーノベル
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二人であーでもないこーでもない、と話し合っている時、突然若井の服の裾が引っ張られた。
「わか、い」
かすれた声で名前を呼ばれ、若井が振り向いた瞬間、心臓が跳ね上がった。ドアにもたれかかっていた大森は、若井の方を向いており、目の焦点があっておらず、今にも前のめりに倒れそうだった。若井が慌てて大森の脇に両手を差し込み、自分の胸元に抱き寄せる。
「どうした、」
「ひぐっ、ぅえ”、ヒュッ、っう”う」
「どうしたの、苦しい?」
先ほどよりも激しく泣き続ける大森の背中を、若井は少し早めに摩る。若井の服を握る手が強まった。
「こ、ゎ…こわ、い、ヒグッ、ぅ”え」
「怖いな。大丈夫大丈夫。しんどいね、」
大粒の涙を流し、恐怖で震える大森を安心させるように、若井はその背中をゆっくりと一定のリズムでトントンと叩き続けた。子供をあやすような、優しく落ち着いた声。今の大森には、言葉の内容よりもその温もりが唯一の命綱だった。
「こわぃ、たすけ、ヒュッ……ぉえ”ッ……」
元貴は涙でぐしょぐしょになった顔を若井の胸に押し付ける。過呼吸気味の酸素を求める音が車内に漏れ出る。
「だいじょーぶ。俺も涼ちゃんもいるよ。大丈夫大丈夫。」
若井はもう一度、今度は耳元で囁くように言った。藤澤も大森の手を静かに握った。
若井は大森をこれ以上刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら、今の彼の視点に立とうと努めた。
「元貴」
「げほっ、ヒュッ…ぅうぁ”」
「もーとーき。聞こえる?元貴が、今、一番しんどいこと、なに?」
言葉を区切って、意識の奥に届けるようにゆっくりと語りかける。 元貴は若井の胸元に顔を埋めたまま、必死に酸素を求め、漏れ出る嗚咽に混じって途切れ途切れに答えた。
「ヒグッ…ぅう”…ぐるぐる、なっ、ぉえ”ッ…」
「ぐるぐるなってるのか、苦しいね」
胃の奥が激しく波打ち、吐き気が渦巻いている。若井は、それが大森にとってどれほどの不快感と恐怖なのかを想像して胸が痛んだ。気持ち悪さを取り去るには、やはり胃の中のものを出してしまうのが一番の近道だ。けれど、それが恐怖という壁に阻まれている。
「ゎか、い、わか、い」
不意に、元貴がかすれた声でもう一度若井を呼んだ。
「ん?」
「うぅ”ー…ヒグッ…ヒュッ…っ」
大森は言葉を発する代わりに、若井の胸元にグリグリと頭を押し付け、縋り付くように体を密着させた。まるで、そうして若井の体温を感じていないと、恐怖に飲み込まれて消えてしまいそうな、そんな切実な動きだった。
「怖いね、大丈夫大丈夫」
若井は大森の汗ばんだ髪をそっと撫でた。
その時だった。
大森がバッと口元を両手で必死に抑えた。喉が大きく波打っている。吐き気が限界を超えたのが分かった。
「もとき、?元貴!」
若井の叫び声に、藤澤もすぐさま異変を察して身を乗り出した。
「うぅ…ん”ぅえ、ぅ”えっ…」
喉からは押しつぶされたような、苦しげな音が漏れる。吐瀉物がせり上がっているのに、脳が、心がそれを許さない。その矛盾に体が悲鳴を上げている。
「ぅえ、げぇッ…う”ぇ」
「若井、袋」
藤澤の声で、若井は用意していたビニール袋を大森の口元に差し出した。けれど、元貴はその袋を激しく払い除ける。涙をボロボロとこぼしながら、頬を膨らませ、喉元を波打たせて必死に飲み込もうとしている。
「元貴!我慢しなくていいって!!」
若井の声が再び熱を帯びる。吐けば終わる苦しみ。それを拒み続け、自らを痛めつけるように耐え続ける姿が、見ていられなかった。 元貴の瞳は、目の前の袋をまるで凶器か何かのように怯えた目で見つめていた。
「…元貴、元貴。ちょっとこっち向いて」
今まで黙って見ていた藤澤が決心したやつに声をかけた。大森はゆっくりと顔を上げ、虚ろな目で藤澤を見つめた。その瞳を見て、藤澤は確信したんだろう。もう、説得や薬を待っている猶予はない。このままでは、元貴の心が壊れてしまう。
「…ごめんね」
藤澤が短く謝ったのと同時に、その手が大森の顔を掴み、無理やり口を開かせた。その中に、躊躇なく指を差し込む。
「ッ!?ぃあ”ッ、ぅあぁっ…!」
大森が頭を振って暴れ、獣のような悲鳴を上げる。若井は一瞬怯んだが、藤澤の覚悟を察して、すぐに大森の体をがっちりと固定した。
「やだね、ごめんね。ちょっと頑張って」
藤澤の声は優しかったけれど、指を動かす手は止めなかった。
そしてついに限界が訪れた。喉の奥を刺激され、大森の喉が、今までで一番大きく跳ね上がる。
「っ、ぅ……ぉえ”ぇ、ぅぐっ……!!」
必死に食いしばっていた奥歯の隙間から、濁った音が漏れた。藤澤はサッと口から手を抜き、若井が咄嗟に大森の体を前傾させ、袋に顔を埋めさせる。
「ぅえ”、ぁ……げぇっ!!」
ビシャッ、という重い音が袋の底から響いた。 元貴の体は、吐くたびにビクンと大きく波打ち、胃がひっくり返るような激しい痙攣に襲われている。目からは涙が溢れ、鼻水も混じって顔中はぐちゃぐちゃだ。あんなに拒んでいた「汚いもの」が、自分の意志とは無関係に溢れ出していく。
「大丈夫大丈夫。すぐ楽になるよ」
「しんどいね。あとちょっとだよ」
二人は声をかけ続け、吐き続ける大森の背中をさする。吐瀉物が落ちてビニール袋がビシャ、ビシャと音が鳴る。酸っぱい特有の匂いと、先ほどまで胃を刺激していた未消化の固形物が混じった重苦しい匂いが車内に広がる。吐き出す音は生々しく、大森はそのたびに掠れた悲鳴のような声を漏らしていた。
喉を通る不快感に顔を歪め、指先を痙攣させる大森。けれど、袋の中身が増えるたびに、あんなに彼を追い詰めていた異常なまでの緊張が、体から少しずつ抜けていくのが分かった。
あらかた吐き終わったのか、大森が顔を上げた。
「…っうぅ…はぁ…はぁ」
「もう大丈夫?」
ぐったりして車のシートにもたれかかる大森に、若井が尋ねると大森は黙って頷いた。前髪が汗で額に張り付いている。
「…頑張ったね」
藤澤はそう言ってビニール袋に封をした。若井が大森の口元についた吐瀉物をティッシュで拭く。大森は目をつぶってされるがままだ。先程とは打って変わって落ち着いた呼吸だ。その時、ドアが空いて山本が戻ってきた。
「っ、薬、買ってきた」
「あ、もう大丈夫かもです…」
「え!?まじか、遅かったか笑」
「いやいや、ありがとうございます」
苦笑いした山本に、若井と藤澤が頭を下げてお礼を言う。
「元貴は?大丈夫なの、もう」
「はい、とりあえずは…吐いちゃったんですけど、今は落ち着いてます」
「そっか、良かった…元貴?水飲む?」
山本が声をかけると、反応がない。 若井が振り向くと、すー、すーと寝息を立てて眠っていた。
「…寝ちゃった?」
「そりゃあ疲れたよね、」
「じゃあちょっと色々整理してから、話聞こうか」
そう言って山本は、買ってきた消臭スプレーと厚手の除菌シートを取り出した。藤澤がしっかりと封をした袋を二重に重ねて密閉し、若井は汚れてしまったシートの隙間や足元を丁寧に拭き取っていく。
車内にはまだ、胃酸の混じった独特の酸っぱい匂いが微かに残っていたけれど、窓を全開にしていたおかげで、それも次第に薄れていった。
若井は大森の口元をもう一度綺麗なウェットティッシュで拭い、汚れたタオルを袋にまとめると、ようやく車内は元の静けさを取り戻した。
再び現場に向かって走っている車内、タイヤがアスファルトを叩く一定のリズムの中で、大森がゆっくりと目を覚ました。隣に座っていた藤澤が、その微かな動きに真っ先に気づいて声をかける。
「おはよ、体調大丈夫?」
「………ぁ、うん」
まだ半分夢の中にいるような、とろんとした目をした元貴の、あまりにもいつも通りで素っ気ない返事に、車内の三人の肩の力が一気に抜けた。思わず顔を見合わせて、自然と笑いがこぼれる。
「起きて早々ごめんだけどさ元貴。なんで気持ち悪くなったか教えてくれないか?」
ハンドルを握りながら、山本がバックミラー越しに問いかけた。大森はスッと目を伏せ、沈黙に入ってしまう。
「涼ちゃんだけじゃなくて元貴もってなると、車酔いじゃなくて、食中毒とかかもしれないし。心当たりがあるなら教えてほしいんだ」
山本の切実な問いに、元貴は消え入りそうな小声で呟いた。
「…食中毒じゃない」
「なら車酔い?」
「ううん」
なら一体何なんだ……? 漂い始めた疑問の空気。山本がバックミラー越しに、今後のためにも言ってほしい、と目で強く訴えかける。その視線の重さに根負けしたように、元貴はついに重い口を開いた。
「…ちょっと、怖いだけ。見るのも、するのも」
今まで誰にも、それこそメンバーである二人にも話したことがなかったんだろう。顔を伏せ、搾り出すような言いづらそうな声だった。
「涼ちゃんのを見て、怖くなっちゃって……それで気持ち悪くなったってこと?」
「っ、嘘じゃないから! ほんとだから。それに涼ちゃんが悪い訳じゃなくて、」
否定されるのを恐れるように、あるいは藤澤を庇うように、焦って言葉を被せた大森に、藤澤が優しく言葉をかける。
「分かってるから大丈夫だよ。嘘だなんて思ってないし。さっきも、吐くの怖いって言ってたもんね」
藤澤は俯いたままの元貴の背中を、今度は安心させるようにゆっくりとトントン叩いた。
「…っ、そう。それで……それで気持ち悪くなっただけ」
少し目が潤んだのを隠すように、肩をすぼめる大森を見て、山本は優しく笑った。
「なるほどね。よく分かったから大丈夫。教えてくれてありがとね」
「いやいや…あ、涼ちゃん、指…」
大森が藤澤の赤くなった指を見て、申し訳なさそうに眉を下げる。
「あぁ、こんなの気にしないで。それより、これから体調悪くなったら、もっと早く言うんだよ」
思い出したように、藤澤が指を見たのも束の間、諭すように言うと、隣で若井がすかさず口を挟んだ。
「それは涼ちゃんもそうだからね」
「…それはごめん、気をつける」
「ほんとだよ……」
急に自分の方に矛先が向き、藤澤は気まずそうに顔を背けた。その様子を見て、さっきまであんなに怯えていたはずの大森が、ようやく顔を上げてふにゃっと笑った。
………………
リクエストありがとうございました!!
またのリクエストお待ちしてます🍀
次回からはまた別のお話です!
コメント
2件
❤️さん、2人に理解してもらえて良かったですね🥹🥹❤️さんのためならと覚悟して吐かせた💛ちゃんもすごいなぁ…。次回からの新しいお話も楽しみにしてます(*^^*)