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長屋会議
一行は蛇骨長屋の入り口で、木戸番を叩き起こして中に入った。もうとっくに木戸の門限は過ぎていたからである。一刀斎の棟割長屋に入ると銀次が飛び込んで来た。
「兄ぃ、なんで俺を一緒に連れて行ってくれなかったんだよぉ!」
恨めしげに文句を言ったが、畳の上に身を寄せ合って座るベアト一家を見ると絶句した。
「済まねぇ済まねぇ、今回の仕事はちょいと訳ありでな、ヤットウを使える奴でなきゃだめだったんだ・・・」
一刀斎の言い訳が聞こえているのかいないのか、銀次は素っ頓狂な声を上げた。
「兄ぃ・・・ひょっとしてその人達は異人かい!」
「しっ!声がでけぇ、お梅婆にでも聞こえたらどうすんでぇ・・・」
一刀斎が声を顰ひそめた。
「お梅婆がなんだって?」
ガラリと表の戸が開いてお梅婆が顔を覗かせた。
「生憎と長屋の壁は有って無いようなもんなんだ、あんた達が帰って来たのなんかとうの昔にお見通しさね」
「ちえっ、厄介な婆さんに見つかっちまったぜ・・・」
「なんだって?」お梅が一刀斎を見据えた。
「お婆ちゃん、これには訳があってね、本当は長屋のみんなにも手伝って欲しいんだけど、今日はもう遅いからみんなに話すのは明日にしようって言ってたんだよ」
志麻が一刀斎に変わって説明する。
「そうじゃよお梅さん、隠すつもりはなかったんじゃ」慈心が言った。
「分かってるよ、ただ一刀斎が素直じゃないから、ちょいとからかっただけさ」お梅婆はカラカラと笑ったあと、ベアト一家を見た。「ところで、その異人さん達は何者だえ?」
「分かった、説明するから中に入ぇって戸を閉めてくんな、他の奴らに聞かれたら集まって来ちまう」一刀斎が言う。
九尺二間の棟割に八人の人間が犇めき合った。
お梅婆を畳に上げて、志麻と銀次は土間に立った。
一刀斎が事の顛末を掻い摘んでお梅婆に話した。
「と言う訳で、俺たちはこの人達を無事居留地まで送り届けなくちゃなんねぇんだ。もちろん松金屋もそこに居ると踏んでる。松金屋から残りの半金を踏んだくらなきゃ気が済まねぇんだよ」
「その半金が貰えなきゃ、長屋のみんなで料理茶屋にお紺ちゃんを呼んで宴会って話はおじゃんになるんだね?」
「そういう事になるな」
「それで、私たちにどうしろってんだい?」
「そこだ、人の多い江戸市中ならあまり目立たなかったが、横浜まで行くとなりゃどうしても人目に着く。そこで長屋のみんなで黒船見物を装って横浜まで一緒に行ってもらいてぇんだ」
「ふ〜ん、大勢の人に紛れてりゃ目立たないって寸法か・・・」
「さすがお梅婆、察しがいいな」
「ふん、褒めても何も出やしないよ・・・だけど、宴会がパアとなりゃ話は別だ。よし、私がみんなに話してやるよ」
「済まねぇお梅婆、恩に着る」一刀斎が頭を下げた。
「いいよ、それよりあんたら晩飯は喰ったのかい?」
「いやまだだ、そんな暇は無かった」
「待ってな、今何か見繕って持って来てやるよ。それにそっちの異人さんたちにはもっと目立たない着物を着せた方がいい、そんな格好じゃ返って目立っちまう」
「そうは言ってもなぁ・・・」
「任せときな、長屋中から合いそうなやつを見つけて来てやるから」
「そいつぁ有り難ぇ」
「礼はいらないよ、後できっちりと元は取るからね」
お梅婆はニヤリと笑った。
「志麻ちゃん付いて来な、どうせ今夜は私んちに泊まるつもりだったんだろ?」
「うん、そのつもり」志麻はそう言ってベアトの方を向いた。「ベアトさん、私んち隣の隣だから自由に使って。お布団は一つしか無いけど今日一日だけ我慢してね」
志麻とお梅婆が出て行った後、ルナがポツリと呟いた。
「ココ、マルデ、ドールハウスミタイ・・・」
初めて江戸の住宅事情に触れたベアト一家であった。
*******
翌朝、志麻の棟割の前に長屋の連中が集まって来た。大工や船頭、棒手振りに洗濯請負。果ては占い師や山伏まで、長屋にはいろいろな人間が住んでいる。それにその女房子供まで合わせると総勢二十二名が狭い長屋の路地に犇めいていた。みんなその日暮らしの貧乏人だが、面白い事には目が無い連中で、一日や二日仕事を休んでもそちらの方を優先する。
「俺ぁ異人さんを見るのは初めてだが、ちょっと躰が大きい事や髪や肌の色が違うことを除けばそれほどの違いは無ぇじゃねぇか」大工の正吉が言った。
「浅草の見せ物小屋の生き人形は、嘘っぱちだったってぇ事だな」棒手振りの太一が応える。
「奥さんは綺麗だし娘さんも可愛いわねぇ・・・」船頭の女房加代が膝を折ってルナに視線を合わせた。
「アリガトゴザイマス」ルナはペコリと頭を下げた。
「まぁ、礼儀も正しいのね!」加代が感心して頷いた。
ローラは町家のおかみさん風、ルナはその娘といった装いが出来上がっている。ローラは自慢の金髪を頭の上で結い上げ、菅笠を被っているので、よほど近くに寄って下から覗き込まなければ顔は見えないだろう。ルナは相変わらず松金屋の用意した鬘かつらを被っているが、今考えるに、歌舞伎の子役の物を中村屋が都合したものに違いない。
「それにしても、旦那さんの山伏は堂々としてよう似合うとる」山伏の閃光院が満更でもなさそうに頷いたのは、ベアトが着た衣装は閃光院が貸した物だからだ。閃光院は長屋では一番躰が大きい。ベアトは頭巾は暑苦しくてどうしても嫌だと言い張った。そこで、女物の付け髪を肩まで垂らして銀髪を隠し、額の生え際は墨を塗って誤魔化した。
「サルワカチョウデミタ、ベンケイミタイデス!」ベアトもこの衣装が気に入ったらしく、満面の笑みを浮かべている。
「まぁ、中村屋は悪党だったけどな」一刀斎が笑った。
「それにしても・・・」お梅婆が一刀斎の姿を繁々と見て言った。「なんだいあんたのその格好は?」
「何って、薬売りに決まってんじゃねぇか?」
「全く似合ってないねぇ・・・そんな偉そうな薬売りはいないよ、もっと腰を低くしなくちゃ」
「だったら爺さんはいいのかよ?」
「爺さんはいいんだよ、医者だから」お梅婆が慈心を見て言った。
「ほっほっほ、儂くらいの貫禄なら、威張ったって良いのじゃ」町医者の扮装をした慈心が胸を張る。
今回は一刀斎と慈心も変装を余儀なくされている。横浜の開港場には武士は入れないことになっているからだ。この頃、攘夷派武士による外国人の傷害事件が多く発生しており、幕府は武士と外国人との接触を避けるため、居留地に関所を設けて武士の出入りを厳しく監視していた。
「仕方ねぇだろ、適当なもんが無かったんだから」
「しかし、よくそんなものがあったね?」
「長屋に出入りしている富山の薬売りの新さんがよ、二、三日吉原に居続けるから預かってくれって置いてったんだ」棒手振りの太一が言った。
「へっ、新公の奴いい御身分だぜ、仕事サボって吉原に入り浸りかよ」大工の正吉が言った。
「お前さん、羨ましがってんじゃ無いだろうね?」女房のお豊が正吉を睨む。
「ば、馬鹿野郎!そんな訳ねぇだろう!」
「正吉、藪蛇だったな」一刀斎が可笑しそうに笑った。「わざわざ富山から出て来ているんだ、それくらい多めに見てやれ」
「旦那ぁ・・・」
正吉が泣きそうな声で言ったので、みんなが大笑いした。
「だけどあんた達、刀はどうすんだい?敵の本拠地に乗り込むんだろう?」お梅婆が訊いた。
「大刀は無理だが護身用の道中差しなら問題はあるめぇ、武士じゃなくたって旅人ならそれくらいは多めに見てくれるだろう」
「儂は鐘巻流の小太刀も修めておるから問題は無いぞ」慈心が自信たっぷりに嘯く。
「そうかい、爺さん期待してるぜ!」一刀斎が慈心の背中を思いっきり叩いた。
「ゲホゲホ・・・こりゃ、一刀斎!年寄りを大事にせんかい!」
「フハハハ、爺さんがあんまり威張るから、ちょっと気を引き締めたんだ」
志麻は引き続き仕込み杖を持っているので、戦闘になってもなんとかなりそうだ。
「さあ、弁当は持ったかい!」お梅婆が訊いた。
「おうよ!酒も持ったし黒船見物と洒落込もうじゃねぇか!」船頭の達治が気炎を上げた。
「お前さん、今日の遠出は遊びじゃ無いんだからね!無事ベアトさん一家を横浜まで送り届けなきゃならないんだから、飲み過ぎて途中で酔っ払ったら置いて行くよ!」女房の加代だ。
「わ、分かってらい!全く煩いカカァだぜ・・・」
秀はブツブツ言いながらも楽しそうだ。
「一刀斎、どの道を行くの?」着物を町娘の物に変え志麻が訊いた。
「ああ、保土ヶ谷から井土ヶ谷を迂回する道もあるが、せっかく野毛の切り通しが出来たんだ、そこを堂々と行こうじゃねぇか」
「うむ、それが良い、あの道は便利になって人通りが増えたから返って目立つまい」慈心が言った。
「兄ぃ、俺が先頭で道案内するぜ。仕事でもう何回も通ってるんでお手のもんだ!」
「ほぅ、お前ぇあっち方面にも手を広げてるのかい?」一刀斎が暗に銀次の裏家業の事を揶揄った。
「違いますよ、仕立ての仕事であっちにお得意さんが出来ただけですって!」銀次が慌てて首を振る。
「どうだかな?」
「あ、兄ぃ!」
「ほら、無駄話してんじゃない、出発するよ!」
こうして仮装集団と化した蛇骨長屋御一行様は、お梅婆の号令で全員が木戸を出て横浜道に向けて歩き出した。