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#ワンナイトラブ
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冷たい液体が顔に叩きつけられた。――アイスコーヒーだった。
「翠々、なんてことをしでかしたのよ!」
私は周囲にいる全員から視線を浴びていた。
借金二百万円、強制結婚、そして——この人。
ここが、私、白川翠々の人生の底――そう思っていた。
空港のカフェで対面に座った叔母は、店員にアイスコーヒーをオーダーしたあとすぐに説教を始めた。
表情は眉が吊り上がっていて鬼の形相だ。それを目にしただけで全身に緊張が走った。
「昨日の朝に謝罪してきた。先方はずいぶんお怒りだったわ。すぐに追い返されたけど、私がどれだけ頭を下げたかわかってるの?!」
「迷惑をかけて本当にごめんなさい」
激高する叔母に反応して隣の席にいる女性客ふたりが視線を送ってきた。
目立ちたくはないので声のボリュームを落としてもらいたいところだけれど、肝心の叔母は怒り心頭で私を睨み続けている。
「翠々が光永さんとのお見合いの話を受けるって言ったとき、うちの人だってよろこんでたのよ」
“うちの人”とは、叔母の夫のことだ。私にとっては義理の叔父に当たる。
「改めて、叔父さんにも謝りに行くね」
「謝ってもらったって、もうどうしようもないでしょ! 後の祭り!」
義理の叔父は温厚な性格なので、激怒しているとは思えないけれど、今は叔母の言葉に素直にうなずいておく。
事の発端は、叔母が私にお見合いをさせたことだった。
光永さんは大手フィットネスクラブを運営している社長の長男で、婚活をしているらしいから会ってみろと場を設けられたのだ。
私はしたくないと必死に訴えたけれど、叔父の会社のクライアントだから断れば仕事にも影響すると言われ、最後は強制的に押し切られた。
「断るにしたってルールやタイミングがあるのよ。それなのにその場で結婚できないってはっきり言って帰ってくるなんて、失礼な子ね!」
お見合いにおいて、相手に直接断る行為は不躾だと言われている。
その場はにこにことしながらお茶を濁すというのが礼儀らしい。
そんなわけで、謝りに行った叔母を現在こんなにも怒らせているのだ。
「なにが気に入らなかったの? 今さら聞いても仕方ないけど」
叔母はフンッと鼻息を荒くし、運ばれてきたアイスコーヒーのストローに口を付けた。
「来春に結婚式を挙げる予定で、すでに詳しい日取りが決まってたの。私は結婚するって言ってないのに、それはおかしいでしょう?」
私の気持ちなんて無視で、すでに話が進んでいることに恐怖を覚えた。
叔父や叔母の顔を立てるためだとはいえ、お見合いした私がバカだったと、このときようやく気づいたのだ。
「翠々は気に入られたのよ。全部あちらが準備してくださるんだからありがたいじゃない」
「ご両親とは同居で……それどころか寝室もお義母様と一緒にするって」
さすがに寝室の件は叔母も知らなかったのか、一瞬驚いた顔をしていた。
なにも理由がないのに、姑に当たる人が新婚夫婦の寝室で一緒に寝るのはどう考えてもおかしい。
光永さんは寝室にベッドを三つ並べる気なのだろうか。それともダブルベッドの隣に母親が眠るための布団を敷くのか……。
それらを想像した瞬間おぞましくなり、私には絶対に無理だと心が拒絶した。
ショックを受けたのもあって、そこからの記憶はあいまいだ。
「結婚できません」「すみません」「ごめんなさい」と平謝りして逃げるように帰ってきたのだと思う。
「そんなのは結婚してから抵抗できたわよ。男はたいていマザコンなんだから、みんな大して変わらないわ」
「叔母さん……」
「光永さんは結婚相手には申し分ない人だったのに」
もうなにを言っても無駄なのかな。
叔母には私と同い年で未婚の娘がいる。本当に光永さんを素敵な相手だと思っているなら、私ではなく自分の娘を嫁がせればいいのに。
だけど立場の弱い私は、叔母にそんなふうに言い返せない。
「うちの会社、今かなり厳しいのよ。新しいテナントの契約もあるのに、破棄されたらどうするの!」
「ごめんなさい」
「契約ひとつ飛んだだけで資金繰りが崩れるのよ?」
結局、叔母の心配はそこなのだ。
叔父は貸店舗や貸オフィスなど、テナント関連を主とする不動産会社を経営している。
私を光永さんの元へ嫁がせれば、叔父の会社が潤うという思惑があったのは間違いない。
「嫁姑問題なんてどこにでもあるでしょ。親のほうが先に歳を取るの。辛抱してるうちに老いていくわ」
「私は叔母さんとは考え方が違うみたい。それに私、好きな人がいるの。だから光永さんとは結婚できないです」
うつむいていた顔を上げると、叔母の首元に赤みが帯びていくのがわかった。
沈黙が怖いなと思った瞬間、叔母がおもむろにアイスコーヒーの入ったグラスからストローを引き抜き、勢いよく中身を私に浴びせた。
「そんな相手がいるなんて聞いてない。バカにするんじゃないわよ! なんて子なの。頼る人がいなくてかわいそうだと思うから今まで面倒を見てきたのに! 兄さんはいったいどういう育て方をしたのかしら」
白のブラウスと黒のパンツというビジネススタイルの服装だったが、どこもかしこもコーヒーでベタベタだ。
「貸してた留学費用は耳を揃えて返してもらうから! それと、今住んでるマンションも出て行きなさい!」
顔を伏せつつ、叔母からの罵声を受け止めた。
元々怒り心頭だった叔母を、私はさらに激高させてしまったらしい。
意見が合うわけないのに、この場で言い返した私は本当にバカだ。
「それと翠々、あなたとは一切の縁を切る。金輪際、叔母でも姪でもない。いいわね?」
さすがに縁切りまでされるとは思ってもみなくて、ビックリした私はうつむいていた顔を瞬時に上げた。
しかし待っていたのは穢らしいものでも見るかのような叔母の冷たい視線だった。